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第36話:雨上がりのアトリエ、永遠の青

 三月――桜の蕾がほころび始めた春の日。

 私たちは高校を卒業した。


「うわあああん! 陽菜ぁぁぁ! 卒業しても毎日連絡しなさいよぉぉぉ!」


 校門の前で愛川美羽が私の首に抱きつき、子供のように泣きじゃくっている。

 彼女の涙と鼻水で私の制服の肩口はぐしょ濡れだ。


「わかった、わかったから。美羽、苦しいよ」


「絶対よ!? 既読スルーしたら家まで押しかけるからね!」


「はいはい。⋯⋯ほら、もう泣かないで」


 私は苦笑しながら美羽の背中をポンポンと叩いた。

 この騒がしい幼馴染とは、これからも腐れ縁が続いていくのだろう。それが今はとても嬉しかった。


 視線を感じて顔を上げると少し離れた場所に氷室玲奈――玲奈さんが立っていた。


 多くの生徒や後輩たちに囲まれて花束を抱えている。

 さすがはカリスマ生徒会長だ。


 玲奈さんは人垣の隙間から私を見つけ、ふっと優しく微笑んだ。

 そして誰にも気づかれないように、そっと腰の位置で小指を立てて見せた。

 『あとでね』という合図だ。


 私も小さく頷き、小指を振り返した。


 公認の仲とはいえ、まだお父様との約束である「品行方正」な期間中だ。校門前でのイチャイチャは御法度である。


 けれど指先一つで通じ合えるこの距離感が、今の私たちには心地よかった。

 あの日、生徒会室の中で交わした「契約」から始まった関係は今、確かな「絆」へと変わっていた。


 ◇


 ――それから、四年の月日が流れた。


 私は二十二歳になった。


 美大の芸術学部を卒業し、今は母校の大学職員として働いている。

 絵を描く学生たちのサポートやアトリエの管理、展覧会の企画運営などが主な仕事だ。

 私自身は絵を描かないけれど「芸術を愛する人を支える」という仕事は、天職だと思っている。


 そして玲奈さんは大学院に通いながら氷室グループの事業を手伝い、その類稀なる経営手腕を発揮し始めていた。

 多忙な日々を送る彼女だが週末だけは必ず時間を空けてくれる。


 今日もそんな週末だった。


 初夏の日差しが降り注ぐ、海沿いの別荘地。

 私たちはあの夏合宿の思い出の場所、氷室家の別荘に来ていた。


「風が気持ちいいな」


 運転席の玲奈さんが窓を開ける。

 海からの潮風が彼女の艶やかな黒髪を揺らす。

 大人びた横顔は高校生の頃よりもさらに美しく、洗練されていた。


「そうですね。⋯⋯あ、玲奈さん。そこを右です」


「分かっている。今日は、まずはあそこに寄るんだったな」


 車は別荘へ続く道を外れて海を見下ろす小高い丘へと向かった。

 そこには小さく手入れされた墓地がある。


 車を降りて私たちはある一つの墓石の前に立った。

 そこには『氷室 小夜』という文字が刻まれている。


 玲奈さんのお母様のお墓に白い百合の花束を供え、手を合わせた。

 線香の香りが潮風に溶けていく。


「⋯⋯母さんはな」


 玲奈さんが墓石を愛おしそうに撫でながら、ぽつりと語り始めた。


「元々は、氷室家の屋敷に出入りしていた花屋の娘だったんだ」


「えっ⋯⋯そうだったんですか?」


 私は驚いて顔を上げた。

 てっきり、どこかの財閥のご令嬢なのだと思っていたからだ。


「ああ。身分も家柄もない普通の女性だった。でも太陽のように明るくて芯が強くて⋯⋯父さんはそんな母さんに惚れ込み、親族の猛反対を押し切って駆け落ち同然で結婚したらしい」


 玲奈さんの瞳が、遠い過去を映すように細められる。


「だが⋯⋯氷室家という『籠』は母さんには狭すぎた。親族からの冷たい仕打ち、当主の妻としての重圧、そして父さんを支えるための激務⋯⋯。母さんは心労を重ね、私が幼い頃に病で亡くなった」


 波の音がザザァ⋯⋯と響く。


「父さんは自分を責め続けていたんだ。『彼女を籠に閉じ込め、無理をさせたせいで死なせてしまった』と。『身分不相応な恋は、結局相手を不幸にする』とな」


 胸が締め付けられるようだった。

 あの時、お父様が私を頑なに拒絶したのは私をいじめたかったわけじゃない。

 私の中にかつての奥様の姿を見ていたからだ。

 弱い人間を巻き込めば、また同じ悲劇が繰り返されると恐れていたのだ。


「でも陽菜。君が証明してくれた」


 玲奈さんが私を見て穏やかに微笑んだ。


「君は弱くなかった。泥だらけになっても立ち上がり、私のために父さんに立ち向かってくれた。⋯⋯父さんは君の中に母さんの『強さ』を見たんだと思う。だから私たちのことを認めてくれたんだ」


「⋯⋯そっか」


 かつて見せてもらった写真の中の小夜さんは玲奈さんによく似た、でもとても柔らかな笑顔で笑っていた。


「お義母さん」


 私は改めてお墓に向き直り――自然とその言葉が口をついて出た。


「玲奈さんを産んでくれて、ありがとうございます。⋯⋯玲奈さんは今、とっても強くて、優しい人です。私が一生かけて幸せにしますから。安心してください」


「⋯⋯ッ」


 隣で玲奈さんが息を呑む気配がした。

 恐る恐る見上げると彼女は耳まで真っ赤にして、口元を手で覆っていた。


「陽菜⋯⋯その『お義母さん』というのは⋯⋯」


「え? あ⋯⋯ご、ごめんなさい! 私ったら勝手に⋯⋯まだ結婚もしてないのに⋯⋯!」


 私も遅れて恥ずかしさが込み上げ、顔が熱くなる。


「い、いや、いいんだ。⋯⋯母さんも、きっと喜んでいる。⋯⋯嬉しいよ」


 玲奈さんは照れ隠しのように視線を逸らしたがその口元は緩んでいた。

 私たちはもう一度深く一礼し、墓地を後にした。


 ◇


 お墓参りを終え、私たちは別荘の敷地内にある「アトリエ」へと向かった。

 木漏れ日の中にひっそりと佇む、レンガ造りの小さな建物。


 重い扉を開けると懐かしい油絵具の匂いが鼻をくすぐった。


 かつて、この場所は玲奈さんの「孤独」の保管場所だった。

 壁一面に飾られていたのは暗く、冷たい、深海のような青い抽象画ばかり。

 けれど今、アトリエの中は違った空気に満ちていた。


 窓が開け放たれ、光が差し込んでいる。

 そして部屋の中央、イーゼルに立てかけられた一枚の大きなキャンバスが圧倒的な存在感を放っていた。


「これ⋯⋯」


 私は息を呑んで、その絵に歩み寄った。


 描かれているのは私だった。

 青い空と海を背景に麦わら帽子を押さえ、ひまわりのように笑っている私の肖像画。


 使われている色は、かつての玲奈さんのパレットにはなかった色――鮮やかな黄色、温かなオレンジ、そして透き通るような空色。


 光と希望に満ち溢れた、眩しい一枚。


「⋯⋯新作だ」


 玲奈さんが私の後ろに立ち、そっと腰に手を回した。


「昔は青しか描けなかった。孤独な青、冷たい青、拒絶の青⋯⋯。でも、君が私に新しい色を教えてくれた」


 玲奈さんの体温が背中に伝わる。


「君と出会って、世界が色づいたんだ。雨が上がり、泥を洗い流し、空に虹がかかるように。⋯⋯この絵は君がくれた世界そのものだ」


「玲奈さん⋯⋯」


 涙が溢れて視界が滲む。

 あのゴミ捨て場で拾った継ぎ接ぎだらけの青い絵。


 あれから私たちは随分と遠くまで歩いてきた。

 泥濘の中でもがき傷つきながら、それでも手を離さずに。


 玲奈さんは私から離れると前に回り込み、ゆっくりと片膝をついた。


「えっ⋯⋯?」


 彼女はジャケットのポケットから、小さなベルベットの箱を取り出した。

 パカッと蓋が開かれる。

 中にはシンプルな、そして海のように深い輝きを放つサファイアの指輪が収められていた。


「陽菜」


 玲奈さんが真剣な眼差しで私を見上げる。

 その瞳はどんな宝石よりも美しく輝いていた。


「家族になってくれないか」


 心臓が跳ねる。


「今度は『契約』なんかじゃない。⋯⋯魂の『誓い』として。死が二人を分かつまで、いや、死んでもなお君を愛し続けると誓う」


 契約――最初は魔除けのための嘘の恋人契約だった。

 でも今は、本物の愛の誓い。


 私は涙を拭い、満面の笑みを浮かべた。

 絵の中の私よりも、きっとずっと幸せそうな顔で。


「はい。⋯⋯喜んで、お受けします」


 私が頷くと、玲奈さんはほっとしたように表情を崩し、震える手で私の左手の薬指に指輪を通してくれた。


 サイズはぴったりだった。


 玲奈さんが立ち上がり、私を抱きしめる。

 その時、窓の外でサーッ⋯⋯と降っていた通り雨が止み、雲の切れ間から強い光が差し込んだ。


「あ、見てください玲奈さん! 虹!」


 窓の外、海の上に大きな虹がかかっている。

 七色の光の橋が、空と海を繋いでいる。


「⋯⋯美しいな」


「はい、とっても」


「だが、私にとっての一番の絶景は君だ」


「もう、玲奈さんったら⋯⋯」


 玲奈さんが顔を近づけてくる。

 私は目を閉じ、彼女の唇を受け入れた。

 雨上がりの澄んだ空気の中で私たちの誓いのキスは甘く、長く続いた。


 ピロンッ♪


 不意に私のポケットに入っていたスマートフォンが軽快な通知音を鳴らした。


 ロマンチックな雰囲気が台無しだ。


「⋯⋯誰だ、こんないいところで」


 玲奈さんが不満げに眉を寄せる。

 私は苦笑しながら画面を確認した。

 表示されていたのは、もちろんあの子からのメッセージだ。


『速報! 私、パスポート取得完了! 結婚式はハワイがいい! 司会進行はこの愛川美羽様にお任せあれ! あ、旅費は全額会長持ちで夜露死苦!!』


 スタンプの連打とともに送られてきたその文面に私たちは顔を見合わせた。


「⋯⋯ふっ、カンの良いやつめ。地獄の果てまでついてくる気か」


「ふふっ、美羽らしいですね。でも三人で行くハワイも楽しそう」


「そうだな。⋯⋯まあ、賑やかな新婚旅行も悪くないか」


 私たちは声を上げて笑い合った。

 アトリエには二人の笑い声と、光と、そして永遠に色褪せない「青」が満ちていた。


 雨と泥濘の季節は終わりを告げた。

 私たちの前には今、どこまでも広がる青空のような輝かしい未来が続いている。


 (完)

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