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第35話:不器用な食卓、傷だらけの凱旋

 氷室家の応接間は美術館のように静まり返っていた。

 ペルシャ絨毯の上に置かれた猫脚のソファ。

 その柔らかすぎる座り心地に私は借りてきた猫のように背筋を伸ばして座っている。


 身体には先ほどメイドさんに用意してもらった清潔なワンピース。

 泥だらけだった手足は丁寧に洗われ、擦り傷には高級そうな薬が塗られ、ガーゼが当てられている。


 隣には同じく着替えた玲奈さんが座っていた。

 彼女は私の左手を自分の両手で包み込むように握りしめている。

 その手の温もりだけが、ここが現実であることを教えてくれていた。


「⋯⋯陽菜。足の痛みはないか?」


 玲奈さんが小声で囁く。


「大丈夫です。お風呂まで入れてもらって、なんだか現実味がなくて⋯⋯」


「すまない。私の父が⋯⋯君に苦労をかけた」


「ううん。⋯⋯私、逃げなくてよかった」


 私が微笑むと玲奈さんは泣きそうな顔で力を込めて握り返してきた。


 ガチャリと重厚な扉が開き、空気が一変する。

 現れたのは和服に着替えた氷室玄十郎――玲奈さんのお父様だった。

 後ろには老執事の山崎さんが静かに控えている。


 お父様は私たちの対面のソファに腰を下ろした。

 その動作一つ一つに一切の隙がない。


 山崎さんが手際よくティーカップに紅茶を注ぎ、湯気が立ち上る。ダージリンの芳醇な香りが部屋に満ちるが、喉を通る気がしなかった。


「⋯⋯飲まないのか」


 お父様がカップを手に取り一口啜ってから言った。


「毒など入っておらん」


「い、いただきます⋯⋯」


 私は震える手でカップを持ち上げた。

 カチャとソーサーとぶつかる音が静寂の中でやけに大きく響く。


 お父様はしばらく無言で紅茶を楽しんでいたが、やがてカップを置くと鋭い視線を私たちに向けた。


「⋯⋯勘違いするな」


 低い声、先ほど庭で見せた動揺はどこにもなく、再び氷の当主としての顔に戻っている。


「私はお前たちの交際を認めたわけではない」


「お父様!」


 玲奈さんが身を乗り出す。


「話が違うじゃないですか! 陽菜は命がけで証明したはずだ!」


「座りなさい」


 お父様が手で制する。


「私は『話を聞く』と言っただけだ。⋯⋯小鳥遊 陽菜君」


「は、はい!」


「君の気概は認めよう。金になびかず、暴力にも屈さず、己の想いを貫いた。その点においてのみ君は氷室に関わる資格がある」


 お父様の目が僅かに細められた。


「だが現実は物語ではない。愛だの恋だので飯は食えんし、氷室という巨大な組織を守ることもできん」


「⋯⋯それは」


「しかし」


 お父様は言葉を遮り、視線を宙に向けた。

 そこには暖炉の上に飾られた一枚の肖像画――優しげな微笑みを浮かべる女性の絵があった。


「今ここで無理に引き裂けば⋯⋯お前たちは一生私を恨み、不幸に浸るだろう。⋯⋯かつての私が、そうだったようにな」


「え⋯⋯?」


 玲奈さんが目を見開く。

 お父様の横顔に深い陰影が落ちる。それは後悔の色に見えた。

 かつて愛する人を守るために戦い、そして何かを失ってしまった人の顔。


 この人もまた傷ついていたのだ。

 その傷を癒やせないまま娘を同じ目に合わせまいと過剰な鎧を着せていただけで。


「⋯⋯猶予をやろう」


 お父様は視線を戻し、事務的な口調で告げた。


「卒業までの時間をやる。それまでに二人が一緒にいることが『氷室にとってプラスになる』と証明してみせろ」


「プラスに⋯⋯ですか?」


「そうだ。学業の成績、品行方正な振る舞い、そして世間からの評価。⋯⋯特に玲奈、お前は次期当主としての自覚を持ち、陽菜君はそのパートナーとして恥じぬ教養を身につけろ」


 それは実質的な「条件付きの公認」だった。

 別れろとは言わない。その代わり誰からも文句を言われない立派な人間になれという、親としての、そして当主としてのギリギリの譲歩。


「一つでも欠ければ即座に別れさせる。⋯⋯いいな?」


 厳しい条件だ。

 でも、そこにはもう理不尽な拒絶はなかった。

 ただの試練であり乗り越えるための壁。


 玲奈さんが立ち上がり深く頭を下げた。


「⋯⋯ありがとうございます。必ず、証明してみせます。私が陽菜といることで、どれだけ強くなれるかを」


 私も慌てて立ち上がり、頭を下げた。


「あ、ありがとうございます! 私、勉強もマナーも頑張ります! 玲奈さんに相応しい人になります!」


「ふん⋯⋯精々、口だけで終わらぬようにすることだな」


 お父様は興味なさそうに手を振った。


「話は終わりだ。⋯⋯夜も空ける。山崎、車を用意してやれ」


「かしこまりました」


 お父様はそれ以上私たちを見ることなく暖炉の火を見つめていた。

 その背中は最初に来た時よりも少しだけ小さく、そして人間らしく見えた。


 ◇


 屋敷を出ると空は白み始めていた。

 東の空が淡い紫色に染まり、冷たく澄んだ朝の空気が頬を撫でる。

 長い、長い夜が終わったのだ。


 私たちは玄関ポーチの階段を降り、砂利道を踏みしめた。


「⋯⋯陽菜」


 玲奈さんが立ち止まり、朝焼けの空を見上げる。


「君はすごいな」


「え?」


「あの父を黙らせ、条件付きとはいえ認めさせたんだ。⋯⋯私はずっと父さんが怖かった。否定されるのが怖くて、ずっと逃げていた。でも君は真正面からぶつかってくれた」


 玲奈さんは私の手をとり、愛おしそうに撫でた。


「君は私の誇りだ。⋯⋯ありがとう」


「ううん、そんなことないよ」


 私は首を横に振った。


「私、お父様と話していて思ったの。⋯⋯あの人、とっても寂しそうな目をしてた」


「寂しそう⋯⋯?」


「うん。怒ってるように見えたけど本当は玲奈さんが傷つくのが怖くて、どうしていいか分からなかったんじゃないかな。⋯⋯不器用だけど玲奈さんのこと、ちゃんと愛してるんだと思う」


 玲奈さんは少し驚いた顔をして、それからふっと柔らかく笑った。


「そうか⋯⋯。君には私の知らない父の姿が見えていたんだな。⋯⋯やはり敵わないよ陽菜には」


 私たちは顔を見合わせて笑った。

 お互いの手が今まで以上にしっかりと繋がれているのを感じながら。


「――あー! 出てきた! 遅いんだよバカップル!!」


 静寂を破る、聞き慣れた甲高い声。

 正門の方を見ると、そこには信じられない光景があった。


 愛川美羽が屋敷のメイドさんや警備員たちと談笑していたのだ。

 しかも片手にはおにぎり、もう片手には高い栄養ドリンクを持っている。


「美羽!」


 私が駆け寄ると美羽は「んぐっ」とおにぎりを飲み込み、仁王立ちになった。

 その顔や腕には絆創膏が貼られ、足は引きずっているようだったが表情はやけに晴れやかだ。


「美羽! 大丈夫!? 怪我は!?」


「大丈夫なわけないでしょ! 全身筋肉痛よ! あのゴリラ警備員たち、本気で追いかけてくるんだもん! ま、私の華麗なパルクールで三十分は翻弄してやったけどね!」


 美羽は鼻高々に胸を張る。

 周りにいたメイドさんたちが「凄かったですわ、愛川様」「まるで忍者のようでした」とクスクス笑いながら褒めている。

 

⋯⋯この子、敵地で何やってるの? コミュ力お化けすぎる。


「愛川」


 私の後ろから玲奈さんが歩み寄ってきた。

 美羽の表情が少し強張る。


「⋯⋯なによ。文句なら受け付けないわよ。私がいなきゃ、あんたたち今頃、地下牢行きだったんだからね」


「ああ、その通りだ」


 玲奈さんは美羽の前に立つと深く頭を下げた。


「今回の件、心から感謝する。⋯⋯君がいなければ私は陽菜を取り戻せなかった。君は恩人だ」


「は、はぁ!?」


 美羽が素っ頓狂な声を上げて後ずさる。

 天下の氷室玲奈が頭を下げたことに周囲の使用人たちもどよめいている。


「氷室家として礼を言う。治療費と慰謝料は弾ませてもらう。⋯⋯欲しいものがあれば何でも言ってくれ」


 玲奈さんが顔を上げ、真剣な眼差しで言う。

 美羽はバツが悪そうに頬をポリポリと掻いた。


「はぁ? お金で解決する気? ⋯⋯ま、貰えるもんは貰っとくけど! 治療費高いし!」


 美羽はニヤリと笑い、ビシッと玲奈さんを指差した。


「その代わり! 追加条件があるわ!」


「なんだ。車か? 宝石か?」


「違うわよ! ⋯⋯今度の日曜、私が指定するスイーツ店に並びなさいよ。原宿の、三時間待ちのやつ!」


「⋯⋯は?」


 玲奈さんがキョトンとする。

 私も瞬きをした。


「だーかーら! 私と陽菜とあんたの三人で並んで食べるの! 私一人じゃ寂しいし、あんたみたいなセレブが行列に並んでヘトヘトになってる顔が見たいの!」


 美羽の顔は真っ赤だった。

 それは「仲間に入れてよ」という彼女なりの精一杯の遠回しな表現だった。


 お金だけじゃなくて時間をくれと。

 思い出を共有させろと言っているのだ。


 玲奈さんは一瞬呆気に取られたが、すぐに苦笑交じりに頷いた。


「⋯⋯ふっ、いいだろう。三時間でも五時間でも付き合う」


「言ったわね! 絶対逃がさないから!」


「善処する」


 美羽は「よっしゃ!」とガッツポーズをし、私の方を見てウインクした。


「陽菜! 奢りだから一番高いやつ頼むわよ!」


「うん! ありがとう、美羽⋯⋯大好き!」


 私は美羽に抱きついた。

 汗臭くて、湿布の匂いがして、でもとっても温かい私の幼馴染。


 こうして泥濘のような長い夜は明け、私たちは傷だらけのまま、けれど最高の笑顔で朝を迎えた。


 完璧なハッピーエンドじゃないかもしれない。

 まだ課題は山積みだ。


 でも、この三人なら――この奇妙で騒がしいトライアングルなら、どんな壁も越えていける気がした。


 朝日が私たちの影を長く、長く伸ばしていた。

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