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第34話:青い絵の証明、氷解する庭

 バルコニーは袋の鼠だった。

 庭からは強烈なライトと数十人の警備員に囲まれ、背後の部屋からは黒服の男たちがなだれ込んでくる。


 逃げ場はない――私たちは巨大な権力という名のあぎとに飲み込まれる寸前だった。


 庭の中心で腕を組む玲奈さんの父、氷室玄十郎の声が拡声器を通したように響く。


「玲奈。その小娘ごときのために氷室の名を汚すか。⋯⋯愚かな」


 その言葉に含まれる侮蔑の響きが玲奈さんのプライドを逆撫でした。

 玲奈さんの身体が怒りで震える。


「⋯⋯愚か、ですか」


 玲奈さんは私の手を強く握りしめたまま、ギリリと歯を噛み締めた。


「愛する人を守ろうとすることが氷室の名を汚すと言うなら⋯⋯そんな名前、こっちから願い下げだ!!」


 玲奈さんは叫ぶと同時に、バルコニーの手すりに足をかけた。


「!? 玲奈さん!?」


 私は息を呑んだ。

 玲奈さんは本気だ。

 その瞳には、かつて見たことのないほど危うい光が宿っている。

 彼女は父親への当てつけのためなら自分の命さえ投げ出そうとしている。


「お父様が認めないなら私はここから飛び降りてやる! 氷室の跡取りという肩書きも、この身体も全部捨ててやるッ!」


「やめて!!」


 私はとっさに玲奈さんの腰に抱きつき、渾身の力で引きずり下ろした。

 二人してバルコニーの床に倒れ込む。


「離せ陽菜! こうでもしないとあの人は分からないんだ!」


「ダメです!」


 私は身体を起こすと、錯乱しかけている玲奈さんの肩を掴んだ。

 そして――。


 パチンッ!!


 乾いた音が夜の空気に響いた。

 私は玲奈さんの頬を平手打ちしていた。


「⋯⋯っ」


 玲奈さんが目を見開き、信じられないものを見るように私を見つめる。

 私の手も痺れていた。

 でも、それ以上に心が痛かった。


「⋯⋯私のために自分を傷つけるなんて、そんなの愛じゃありません!」


 私は涙声で叫んだ。


「家族を捨てて、名前を捨てて、身体を壊して⋯⋯そうやって手に入れる幸せなんて私は望んでない! そんなことされても私は一生笑えません!」


「陽菜⋯⋯」


 玲奈さんの瞳から狂気じみた光が消え、いつもの色が戻ってくる。

 私は彼女を抱きしめた。


「生きてください⋯⋯玲奈さん。二人で生きて幸せにならなきゃ意味がないんです」


「⋯⋯すまない。私は、また⋯⋯一人よがりになるところだった」


 玲奈さんが弱々しく私の背中に腕を回す。

 私は彼女の温もりを確認してから、ゆっくりと立ち上がった。


 震える足に力を込める。

 泥だらけの素足が冷たいタイルを踏みしめる。

 私は玲奈さんを背に隠すようにして、手すりの前に立った。


 眼下には無数の敵。

 そして全てを支配する氷の王――玄十郎がいる。


 ライトの光が眩しい。

 まるで取調室のように私を照らし出している。

 でも、もう目は逸らさない。


「玲奈さんのお父様! ⋯⋯いえ、氷室玄十郎さん!」


 私が叫ぶと玄十郎は不快そうに眉をひそめた。


「⋯⋯まだ何か言い残すことがあるのか。部外者は早々に立ち去れ」


「帰りません! 貴方に言いたいことがあります!」


 私は手すりを握りしめた。


「貴方は⋯⋯料亭で言いましたね。玲奈さんの絵を『ガラクタ』だと。弱者の戯れだと!」


「事実だ。あんな陰気で救いようのない抽象画に何の価値がある。氷室の当主にふさわしい品格も、美しさもない」


 玄十郎の声は冷淡だった。

 彼の心の中では、あの絵は「排除すべき汚点」でしかないのだ。


「価値ならあります! 私が証明です!」


 私は腹の底から声を張り上げた。


「私は⋯⋯あの絵に命を救われました」


 私の言葉に庭の空気が僅かにざわめいた。


「私は自分に自信がなくて、誰かに必要とされたくて⋯⋯でも裏切られて、ボロボロでした。世界中が敵に見えて、消えてしまいたいと思っていました」


 かつての雨の日――うずくまっていた私。


「でも⋯⋯あの絵が、玲奈さんが私を見つけてくれたんです。青くて、冷たくて、深い海の底みたいな心で。⋯⋯でも、その奥には必死に光を探して手を伸ばすような、切実な『祈り』がありました」


 ゴミとして捨てられていたキャンバスの欠片。

 それを繋ぎ合わせた時、私は自分自身の心を修復していたのだと今なら分かる。


「孤独で、暗くて、でも誰よりも愛を求めている⋯⋯あの『青』が、私に生きる勇気をくれたんです! 私だけじゃない、この世界には同じように苦しんでいる人がいるんだって、教えてくれたんです!」


「⋯⋯くだらん感傷だ」


 玄十郎が吐き捨てる。

 しかし、私は怯まなかった。


「感傷じゃありません! 共鳴です!」


 私は胸に手を当てた。


「こんなに誰かの心を震わせる絵を描ける人が、弱いわけありません! 人の痛みが分かる人は、誰よりも強いんです!」


「⋯⋯っ」


「貴方が何を恐れているのか知りませんが⋯⋯玲奈さんは貴方が思うよりずっと強いです! だって、私のような何もない人間を選んで、家柄も立場も投げ打って、守り抜こうとしてくれているんですから!」


 私の叫びが夜の庭園に木霊する。

 後ろで玲奈さんが息を呑む気配がした。


「誰かを命がけで愛することが『弱さ』だと言うなら、私は弱いままでいい! 玲奈さんと一緒に、その弱さを背負って生きていきます!」


 言い切った瞬間、視界が滲んだ。

 涙ではない汗と熱気、私はただの女子高生だ。足はガクガク震えているし、泥だらけでみっともない格好をしている。

 でも、今この瞬間だけは私は誰よりも胸を張っていた。


 ◇


 ライトの光の中に立つ少女。

 髪は乱れ、服は汚れ、裸足のまま仁王立ちしている。

 その姿は氷室家の庭園にはあまりに不釣り合いな「異物」だった。


 だが玄十郎は動けなかった。

 その少女の瞳が――射抜くような、一切の妥協を許さないその眼差しが。


 ――重なったのだ。


(⋯⋯あ、あ⋯⋯)


 玄十郎の脳裏に封印していた記憶がフラッシュバックする。

 数十年前――まだ若く、氷室家の跡目争いで疲弊しきっていた自分の前に立ちはだかった、一人の女性。


 『玄十郎さんは、弱くなんてありません』


 親族たちの罵倒を浴びながら彼女は言った。

 今の陽菜と同じように、決して引かない瞳で。


 『私を選んでくれた貴方を、今度は私が支えますから。⋯⋯どうか、胸を張ってください』


 亡き妻、小夜――氷室家とは家格が釣り合わないと親族からは最後まで反対された最愛の人。

 病弱で、儚げで、しかし誰よりも芯の強かった女性。

 彼女もまた絵を愛し、人の心の機微を愛する人だった。


 玄十郎は彼女を愛しすぎていた。

 だからこそ彼女を失った時、彼は心を閉ざした。

 「愛」などという不確かなものに縋ったから自分は脆くなったのだと。


 だから玲奈には同じ道を歩ませたくなかった。

 強固な鎧を着せ、感情を殺し、完璧な当主に育て上げることが彼なりの歪んだ愛情だった。


 だが今――目の前の少女が、その鎧を粉々に打ち砕こうとしている。

 かつての妻と同じ「弱さを認める強さ」を持って。


(⋯⋯なぜだ。なぜ、この薄汚れた小娘から、小夜の声が聞こえる⋯⋯)


 玄十郎の動揺を見透かしたように影が一つ、彼の横に並ぶ――老執事の山崎だった。


「⋯⋯似ておられますな。あの方に」


 山崎は聞こえるか聞こえないかの声量で囁いた。

 玄十郎はハッとして横を見た。


「⋯⋯山崎」


「奥様も、旦那様のためなら泥を被ることを厭わない方でした。親族会議の席で、貴方を守るために啖呵を切ったあの日のお姿⋯⋯よく覚えております」


 山崎の言葉が玄十郎の胸の古傷を優しく撫でる。


「旦那様。⋯⋯貴方様が本当に守りたかったのは、氷室家の体面ですか?」


 山崎の視線がバルコニーで寄り添う二人に向けられる。


「それとも玲奈お嬢様の笑顔ですか?」


 その問いかけは、決定打だった。


 玄十郎がバルコニーを見上げると玲奈が陽菜の肩を抱き、泣きそうな、でも誇らしげな顔でこちらを見ている。


 あんな顔を自分は娘にさせてやれたことがあっただろうか。

 

 いや、一度もない。


 妻が死んでからこの家はずっと冬だった。

 それを溶かしたのは一千万の金でも権力でもなく、泥だらけの小娘が一人。


「⋯⋯⋯⋯ふん」


 玄十郎は鼻を鳴らし、大きく息を吐き出した。

 憑き物が落ちたように、肩の力が抜けていく。


 彼はくるりと背を向けた。

 直視するのが、あまりに眩しかったからだ。


「⋯⋯警備を解け」


 低く、しかし通る声で彼は命じた。

 警備員たちが顔を見合わせる。


「は? ⋯⋯あ、あの、不審者はどうしますか?」


「聞こえんのか!」


 玄十郎が怒鳴った。

 それは部下への怒りというよりは、ここまで意固地になっていた自分自身の情けなさへの怒りだった。


「客人を客間へ通せと言っているんだ! ⋯⋯丁重にもてなせ。風邪でも引かれたら寝覚めが悪い」


「は、はいッ!」


 警備員たちが慌てて敬礼し、ライトが落とされる。

 庭園に穏やかな夜の闇が戻ってくる。


 玄十郎は山崎に向かって、ぶっきらぼうに言った。


「⋯⋯着替えを用意してやれ。それと風呂だ。あんな泥だらけで家の中を歩かれたら、絨毯が汚れてかなわん」


「かしこまりました」


 山崎は深く一礼し、穏やかに微笑んだ。

 その目尻には光るものがあった。


 緊張の糸が切れ、落ち着きを取り戻した庭の隅で、ようやく拘束を解かれた美羽の声が響いた。


「むーッ! ぷはっ! ⋯⋯ぜぇ、ぜぇ⋯⋯!」


 美羽は猿ぐつわを吐き出し、涙目で叫んだ。


「やっっっとかよ!! 感動的なシーンの背景でずっと放置とか、扱い酷すぎない!? ねえ!!」


 その場違いな叫び声にバルコニーの上の二人が顔を見合わせ、ふっと吹き出した。

 

 氷の城にようやく春の風が吹いた瞬間だった。

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