第33話:古き良き共犯者(潜入、氷室要塞!)
心臓が早鐘を打っている。
呼吸をするたびに喉の奥がヒリヒリと焼けるように痛む。
美羽が作ってくれた一瞬の隙、そのチャンスを逃さぬよう獣のように闇の中を駆けた。
通用口を抜けて広大な庭園に足を踏み入れる。
そこは綺麗に整備された芝生と植栽が広がる静寂の世界だった。
遠くで警備員たちの怒号と美羽の挑発的な叫び声が聞こえる。
あちらが騒がしければ騒がしいほど、こちらの闇は深くなる。
(ありがとう、美羽⋯⋯!)
私は美羽に見せてもらった屋敷の俯瞰図を呼び起こし、植え込みの影から影へと移動した。
屋敷に近づくにつれて、その巨大さに圧倒されそうになる。
まるで見上げるような城壁、窓という窓は固く閉ざされ中を伺うことはできない。
ただ一箇所、二階の角部屋だけがカーテンの隙間から微かな光を漏らしている。
あそこだ。あそこに玲奈さんがいる。
私は屋敷の壁面にへばりついた。
正規の入り口はオートロックで閉ざされているため中に入るには外から直接、あの部屋を目指すしかない。
見上げると壁には装飾用のアイアン製の格子と、それに絡まる蔦、そして太い雨樋が走っていた。
足場になりそうな突起はある。
でも高さは優に五メートル以上、落ちればただでは済まない。
「⋯⋯やるしかない」
靴底が滑って落ちるリスクを減らすために、私は制服のローファーを脱ぎ捨てた。
ハイソックスも脱ぎ裸足になる。
ひんやりとした夜の土の感触と湿った草の匂いが、私の覚悟を研ぎ澄ませていく。
私は格子の隙間に足をかけ、冷たい鉄パイプを両手で掴んだ。
「んっ⋯⋯!」
身体を持ち上げる。
私は運動神経が良くないし体育の成績だって中の下だ。
腕の力だけで体重を支えるのが、こんなにキツイなんて知らなかった。
ズルッ。
「あっ⋯⋯!」
足が滑り、蔦の棘が足の裏を掠める。
鋭い痛みが走るが私は歯を食いしばって耐えた。
痛い。怖い。
でも、この痛みなんて玲奈さんが味わっている苦しみに比べれば蚊に刺されたようなものだ。
(玲奈さんは⋯⋯もっと痛かったはず)
あのアトリエで誰にも理解されずに一人で絵を描いていた時。
父親に心を否定され自分の存在価値を見失っていた時。
どれだけ寒くて、痛くて、寂しかっただろう。
(待ってて、玲奈さん。今度は私が⋯⋯私が迎えに行くから!)
指先の皮が擦りむけ、ジンジンと熱を持つ。
それでも私は一段、また一段と泥にまみれながら上を目指した。
かつてゴミの上で汚れながら玲奈さんの絵を拾い集めた時のように。
私にとっての愛は、いつだって綺麗事だけじゃない。
泥臭くて、必死で、不格好なものなんだ。
◇
部屋の中、玲奈は檻の中のライオンのように苛立たしく歩き回っていた。
外が騒がしい――遠くで何かが割れる音や警備員の声が聞こえた気がした。
誰かが侵入したのだろうか?
まさか、陽菜が?
「いや、ありえない⋯⋯」
玲奈は首を振った。
ここは要塞だ。一般人の陽菜が入ってこられるような場所ではない。
それに、もし捕まったら父は何をするか分からない。
陽菜には無茶をしてほしくない。安全な場所にいてほしい。
そう願いながらも、心のどこかで彼女を求めてしまう自分が浅ましかった。
机の上には描きかけの陽菜のスケッチが散乱している。
どれだけ描いても本物の温もりには敵わない。
その時だった。
コンコン。
微かな音がした。
ドアからではない。
窓の方からだ。
「⋯⋯?」
風のせいだろうか。
玲奈は怪訝に思いながら厚手のカーテンに手をかけ――シャッ、と開ける。
そこには信じられない光景があった。
「――ッ!?」
玲奈は息を呑み、言葉を失った。
防犯ガラスの向こうバルコニーで一人の少女がしがみついていたのだ。
髪はボサボサで顔には泥の跳ね返りがついている。
制服は汚れ、肩で大きく息をしている。
けれどその瞳だけは暗闇の中で星のように輝いていた。
「ひ、陽菜⋯⋯!?」
幻覚かと思った。
会いたすぎて、ついに幻を見るようになったのかと。
だが窓ガラスを叩く手のひらの感触は確かにそこに存在していた。
「玲奈さん!」
分厚いガラス越しに愛しい人の声がくぐもって聞こえる。
玲奈はギリギリまで駆け寄った。
「馬鹿な⋯⋯どうやってここまで⋯⋯! ここは二階だぞ!?」
玲奈は慌てて窓のクレセント錠に手をかけた。
開けて引き入れたい。
泥だらけの彼女を抱きしめたい。
しかし――。
レバーは動かなかった。
窓枠に取り付けられた電子ロックのインジケーターが、無情な赤色を示している。
「⋯⋯っ、くそっ!」
玲奈は何度もレバーをガチャガチャと動かしたが、びくともしない。
「ダメだ、開かない⋯⋯! 父さんが集中管理システムでロックさせてしまったんだ!」
この部屋の窓は脱走防止のために中央制御室から電子ロックがかけられる仕様になっている。
内側から物理的に開けることは不可能なのだ。
「陽菜! 開かない! 帰れ! 見つかったら大変なことになる!」
玲奈はガラスを叩いて叫んだ。しかし陽菜は首を横に振った。
『嫌だ』
口の動きでそう伝えてくる。
陽菜は窓ガラスに両手を当て必死な形相で私を見つめていた。
その目は言っていた。
絶対に置いていかないと。
「陽菜⋯⋯」
玲奈もガラスに手を重ねた。
数センチの透明な壁が二人を隔てている。
こんなにも近くにいるのに触れることができない。
焦燥感と無力感で玲奈の目から涙が溢れそうになった。
その時――背後で音がして部屋のドアが開いた。
「!?」
玲奈は弾かれたように振り返り、陽菜を隠すように窓の前に立ちはだかった。
「⋯⋯失礼いたします、お嬢様」
入ってきたのは警備員ではなく銀髪を綺麗に撫でつけた初老の男性。
氷室家に長年仕える執事であり玲奈の送迎も担当している運転手、山崎だった。
彼は夕食の食器を下げるための銀色のワゴンを押していた。
「⋯⋯爺」
玲奈は警戒心を露わにしながらも少しだけ安堵した。
山崎は父の部下ではあるものの、昔から玲奈のことを密かに案じてくれている人物でもあったからだ。
「夕食がお済みかと思い、下げに参りました。いやはや警備員たちが騒がしくてかないませんな」
山崎はいつもの穏やかな口調で言いながら部屋の中に入ってくる。
そして、ふと玲奈の背後――カーテンの隙間から見えるバルコニーに視線を走らせた。
そこには必死の形相でガラスに張り付く陽菜の姿があった。
「⋯⋯⋯⋯」
山崎の目が僅かに見開かれる、玲奈はとっさに言い訳を考えようとした。
「ち、違う、これは⋯⋯!」
しかし山崎は何も言わずに、ゆっくりとワゴンをテーブルの横に止めた。
そして玲奈の顔をじっと見つめた。
その瞳には呆れや困惑ではなく、どこか懐かしむような色が宿っていた。
(ああ⋯⋯似ておられる)
山崎は心の中で呟いた。
今の玲奈の必死な表情、愛する人を守ろうと立ちはだかるその姿。
それは、かつてこの屋敷で枯れるように亡くなった女主人――小夜の面影そのものだった。
小夜もまた自由を愛し、絵を愛し、そして氷室家の鳥籠の中で羽をもがれた人だった。
山崎は彼女を救えなかったことを何十年も悔やんできた。
そして今、その娘が本物の愛を見つけ、必死に手を伸ばしている。
その相手は傷だらけになってここまで登ってきた、あの小さな少女、彼女と出会ってからの玲奈はとても柔らかい笑顔で笑うようになった。
山崎は静かに目を閉じ、そしてふっと穏やかに微笑んだ。
「おや、部屋の空気が少し淀んでおりますな」
独り言のような呟き。
「⋯⋯え?」
「これではお嬢様の健康に障ります。少し、換気をせねばなりませんな」
山崎はゆっくりとした足取りで窓へと近づいていく。
玲奈は呆気にとられて動けなかった。
山崎はポケットからカードキーを取り出し窓枠のセンサーにかざした。
ピッ。
電子音が鳴り、赤いランプが緑色に変わる。
「⋯⋯爺、お前⋯⋯」
玲奈が震える声で問う。
これは明確な規律違反⋯⋯父に知れれば叱責だけでは済まないかもしれない。
「旦那様には私が年甲斐もなくボケてしまい、鍵をかけ忘れたと報告しておきましょう」
山崎は窓のクレセント錠を外しカチャリと開錠すると重いサッシを少しだけ開け放つ、夜の冷たい風が部屋の中に流れ込んできた。
「⋯⋯小夜様も、きっとそう望まれます」
山崎は玲奈に向かって深々と一礼をした。
「お気をつけて」
それだけ言い残すと彼は何事もなかったかのように食器をワゴンに載せ、静かに部屋を出て行った。
「古き良き共犯者」の背中が扉の向こうに消える。
◇
窓が開いた――その瞬間、世界を隔てていた壁が消滅した。
「陽菜!」
「玲奈さん!」
私はバルコニーから部屋の中へとなだれ込み、玲奈さんの胸に飛び込んだ。
玲奈さんが私を強く、痛いほどに抱きしめる。
「馬鹿者⋯⋯! こんな、こんな無茶をして⋯⋯!」
玲奈さんの声が震えている。
彼女の高級なルームウェアに私の泥だらけの服が押し付けられる。
でも玲奈さんはそんなこと全く気にしていない。
私の髪を、背中を、何度も何度も撫でて確かめるように抱きしめてくれる。
「会いたかった⋯⋯玲奈さん⋯⋯!」
玲奈さんの匂いだ。
少し甘くて落ち着く香り。
ああ、生き返る。
ここ数日の心臓が凍りついていたような孤独が、一瞬で溶けていく。
「私もだ⋯⋯一日千秋の思いだった。陽菜がいない世界なんて、息をしていないのと同じだった」
玲奈さんが私の顔を覗き込み、親指で涙を拭ってくれる。
「怪我はないか? 足は? 手は?」
「大丈夫⋯⋯擦りむいただけ」
「こんなにボロボロになって⋯⋯」
玲奈さんは私の汚れた手をとり、その甲に口づけを落とした。
騎士の誓いのように。
「ありがとう、陽菜。君が私を迎えに来てくれた。私の王子様だ」
「玲奈さんこそ、私のお姫様だから」
私たちは泣き笑いのような顔で見つめ合った。
けれど、感傷に浸っている時間はない。
「行くぞ、陽菜。爺が時間を稼いでくれている間に」
玲奈さんが私の手を引いて、バルコニーに出る。
「ここを降りるのは危険だが⋯⋯」
「大丈夫です。私、登ってこれましたから! 降りる方が楽勝です!」
「ふっ、頼もしいな」
玲奈さんが微笑み、私たちは手を取り合って欄干に足をかけた。
美羽が待っているはずの場所へ。
そして、二人で逃げ出す未来へ向かって――。
――パッ! パッ! パッ! パッ!
鼓膜を叩くような破裂音とともに、庭園の四方八方から強烈なライトが一斉に点灯した。
「うわっ!?」
「きゃっ!」
目が眩むほどの白い光、闇に包まれていた庭が真昼のように明るく照らし出される。
私たちは反射的に腕で顔を覆い、立ちすくんだ。
「――余興にしては、なかなか見ものだったぞ」
光の向こうから冷徹な声が響き渡った。
拡声器を通したような腹の底に響く声。
目が慣れてくると絶望的な光景が浮かび上がった。
庭園には数十人の警備員が整列し、私たちを取り囲んでいる。
そしてその中心、最も明るく照らされた場所に腕を組んで仁王立ちする男がいた。
氷室玄十郎――玲奈さんのお父様だ。
彼の背後では数人の警備員に取り押さえられ、猿ぐつわを噛ませられたジャージ姿の美羽が、ジタバタと暴れているのが見えた。
囮作戦は完全に鎮圧されていたのだ。
「だが、ここまでだ」
玄十郎が冷ややかに告げる。
その目は私たち二人を見上げ、哀れな虫けらを見るように細められていた。
「子供の冒険ごっこは終わりだ。⋯⋯引きずり下ろせ」
その号令とともに屋敷の中からドカドカと足音が近づいてくるのが聞こえた。
背後の部屋のドアからも、黒服の男たちがなだれ込んでくる。
私たちは完全に包囲されていた。




