第32話:最強の元カノ(?)
「⋯⋯いつまでも辛気臭い顔してんじゃないわよ。陽菜」
その声に私は目を見開いた。
愛川美羽――かつて私を裏切り、そして今は奇妙な友人関係に収まっている元カノ⋯⋯のような存在。
美羽は私の背後から覆いかぶさるようにして、ふざけた調子で私の頬をむにゅっとつねった。
「いった⋯⋯」
「はぁーあ。そんな死にそうな顔してたら、せっかくの可愛い顔が台無しだって。あの完璧主義の会長様に愛想尽かされちゃうわよ⋯⋯まあ、私としてはそれならそれで陽菜が戻ってくるから万々歳なんだけどねー」
「⋯⋯美羽」
憎まれ口を叩きながらも、その声色はどこか優しかった。
美羽は私の隣の空いている席にドカッと座り込み、頬杖をついて私を覗き込んだ。
「会長がいないくらいで世界の終わりみたいな顔しないでよ。⋯⋯陽菜が自分で選んだ道でしょ?」
その言葉は鋭く私の胸を刺した。
そうだ。私は玲奈さんを自分で選んだのだ。
平凡な幸せではなく茨の道を。
「うん、そうだけど⋯⋯」
私は弱々しく頷き、机の上で拳を握りしめた。
「でも、相手が大きすぎるよ⋯⋯。私、玲奈さんのお父さんに会って啖呵は切ったけど⋯⋯結局、玲奈さんは学校に来てない。会うこともできない。私がしたことなんて、ただの自己満足だったんじゃないかって⋯⋯」
無力感がまた黒い波のように押し寄せてくる。
一千万という大金を紙切れのように扱う冷徹な父親、氷室家という巨大な壁が立ちはだかり私一人の力では、どう足掻いても玲奈さんに手が届かない。
私が俯いていると美羽が大きく、わざとらしいほど深いため息をついた。
「はぁ~~~~~~。だっさ」
「⋯⋯っ」
「ウジウジ悩んで悲劇のヒロイン気取り? お姫様は辞めるんじゃなかったの? 小鳥遊陽菜ちゃん」
美羽は身を乗り出し私の目を真っ直ぐに見据えた。
その瞳は、いつものおちゃらけた色はなく真剣そのものだった。
「で? 奪い返しに行かないわけ?」
「え⋯⋯?」
私は呆気にとられた。
奪い返しに行く? 氷室家に?
「でも氷室家だよ? 警備だってすごいし、私なんかが行っても門前払いに決まってる⋯⋯」
「あんた一人じゃ無理でも、私がついてれば別でしょ!」
美羽がドン、と自分の胸を叩いた。
「美羽⋯⋯?」
「だから! 私が手伝ってあげるって言ってんのよ! この私が!」
美羽は立ち上がり仁王立ちで宣言した。
夕陽を浴びたその姿は、なんだか無駄に神々しかった。
「い、いや、なんで美羽が⋯⋯。だって美羽は玲奈さんのこと嫌いじゃ⋯⋯」
「大っ嫌いよ! あの泥棒猫! 高飛車で背も胸でかくて金持ちで陽菜のこと横取りして!」
美羽はキーキーと喚いた後、ふん、と鼻を鳴らした。
「でもね⋯⋯私が陽菜を譲ってあげた相手が、親ごときに負けてメソメソしてるなんて許せないのよ! そんなショボい結末、私のプライドに関わるの!」
「美羽⋯⋯」
「勘違いしないでよね。私は陽菜のためっていうか、あの泥棒猫に『私の陽菜を泣かせるんじゃないわよ』って文句言いに行くだけなんだから!」
それは精一杯の強がりで、そして美羽なりの不器用すぎる優しさだった。
かつて私を傷つけた彼女が、今は誰よりも私の強さを信じてくれている。
美羽はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を私に見せた。
「ほら、これ見て」
表示されていたのはGoogleマップの航空写真、そこには広大な氷室邸の敷地が映し出されていたが、所々に赤いマーカーや矢印が書き込まれている。
「こ、これ⋯⋯」
「氷室家の屋敷の配置図だよ。ネットの目撃情報とか過去の求人情報とか、あと私の独自ルート(ストーカーネットワーク)を駆使して調べ上げたわ」
「独自ルートって何!? そんなことしてたの!?」
「細かいことはいいの! で、ここ。裏門の近くにある搬入口。業者の出入りに使われてるんだけど、十九時から二十分の間だけ警備の交代でエアポケットができる可能性がある」
美羽が得意げに画面を指さす。
その目は獲物を狙うハンターのように輝いていた。
「警備は厳重だけど絶対に入れないわけじゃない。抜け道はあるはず。⋯⋯陽菜、あんた愛する人のためなら、これぐらいのことやってのけるわよね?」
問われた言葉に私の心臓がドクンと跳ねた。
不法侵入⋯⋯捕まるかもしれない恐怖、でもそれ以上に――。
このまま何もしないで玲奈さんを失うことの方が何億倍も怖かった。
私は顔を上げた。涙で曇っていた視界がクリアになる。
「⋯⋯出来る」
「聞こえない」
「出来るよ! 私、行く!」
腹の底から声が出た。
玲奈さんが私に勇気をくれた。
今度は私がその勇気を使う番だ。
「なら行きましょ。泥棒猫(玲奈)を、泥棒しに!」
美羽がニカッと笑い、私に手を差し出した。
私は迷わずその手を握り返した。
「うん⋯⋯! 私、玲奈さんを迎えに行く!」
「それでこそ私のパートナーよ! ⋯⋯ま、元カノだけどね!」
ガッチリと繋がれた手と手、かつての手触りとは違う。
もっと固く、熱い、戦友としての握手――美羽の手のひらの熱さが、私の冷え切った身体に勇気を注ぎ込んでくれるようだった。
◇
夜の帳が下り街が闇に包まれる頃、私たちは氷室邸の裏手にある、鬱蒼とした雑木林の中に潜んでいた。
目の前には高い石塀がそびえ立ち、その向こうには冷たく光る監視カメラと巡回する警備員の影が見える。
「⋯⋯うわぁ、マジで要塞じゃん」
美羽が小声でぼやいた。
私はゴクリと唾を飲み込む。
ここを突破して玲奈さんの部屋まで辿り着くなんて正気の沙汰じゃない。
「陽菜、作戦通りに行くわよ」
美羽がジャージの袖をまくり上げながら言った。
「作戦決行は今から五分後。私が囮になるから、その隙に陽菜はあの搬入口へ走って」
美羽が指さしたのは塀の一部にある通用口だ。
確かに警備員の意識が逸れれば、一瞬の隙をついて入れそうだ。
「囮って⋯⋯大丈夫なの? 捕まったら⋯⋯」
「アンタ、私のこと誰だと思ってんの?」
美羽は不敵に笑い、準備運動を始めた。
屈伸、伸脚、アキレス腱伸ばし。
「私は愛川美羽よ? ママチャリで百キロ走破し、クラゲに刺されても即復活した女よ? 修羅場なら慣れてるわ!」
「修羅場の種類が違う気がするけど⋯⋯!」
「いいから! 陽菜は前だけ見て走りなさい! 玲奈の部屋は二階の部屋、光が漏れてるあそこよ!」
美羽が指さした先――闇に沈む巨大な屋敷の中で一箇所だけ、ポツリと明かりが灯っている部屋があった。
あそこに玲奈さんがいる。
「⋯⋯美羽、本当にありがとう」
「礼なんていらないわよ。⋯⋯ただ、あとで私のこと見捨てたら呪うからね」
「絶対に戻ってくる! 玲奈さんと一緒に!」
「よっしゃ! じゃあ、行くわよォォォォォ!!」
美羽は雄叫びを上げると茂みから飛び出した。
石を拾い、警備員の詰め所に向かって思い切り投げつける。
ガシャーン!!
詰め所の窓ガラスが派手な音を立てた。
「な、なんだ!?」
「不審者だ! あっちだぞ!」
警備員たちの怒号が飛び交う。
美羽はわざとライトの光を浴びる位置に躍り出た。
「やーい! お前らの母ちゃんデベソー!! こっちよウスノロたちー!!」
とてつもなく偏差値の低い挑発だったが、効果は絶大だった。
警備員たちが一斉に美羽の方へと走り出す。
「捕まえろ! 逃がすな!」
「へへーん! 捕まえられるもんなら捕まえてみなさーい!!」
美羽は驚異的な脚力でダッシュし、塀に沿って走り出した。
まるで忍者か野生動物のような身のこなしで、警備員たちを引き連れて闇の中へと消えていく。
「⋯⋯すごすぎる」
私は一瞬呆気に取られたがすぐに我に返った。
美羽が作ってくれた、千載一遇のチャンス。
無駄にするわけにはいかない。
「玲奈さん⋯⋯待ってて!」
私は地面を蹴った。
警備が手薄になった通用口へ駆ける――心臓が破裂しそうなほど脈打っている。
恐怖で足がすくみそうになる。
でも止まらない。
美羽の背中が玲奈さんの笑顔が私を突き動かしていた。




