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第31話:籠の中の鳥、凍てつく食卓

 氷室家の屋敷は夜になるとその巨大さが仇となり、静寂という名の重圧となって住人を押し潰しにかかる。


 特にこの部屋は酷かった。


 私の自室、かつては自分の城だと思っていた場所が今は強固な牢獄と化している。


 カチャリと窓の鍵を確認すると認証式の電子ロックが赤く点灯し開錠を拒絶していた。

 ガラスの向こうには自由な夜空が広がっているのに、私にはそれに触れることすら許されない。


「⋯⋯はぁ」


 私はため息をつき部屋の中をあてもなく歩き回った。

 

 スマートフォンは没収された。パソコンもタブレットも外部と通信できる機器はすべて持ち去られた。


 ドアの外には警備員が常駐しトイレに行く際も監視の目が光る。

 完全に籠の中の鳥だ。


「⋯⋯陽菜。怖がっていないだろうか」


 自分の置かれた状況よりも真っ先に浮かぶのは愛しい恋人の顔だった。

 父のやり方は知っている。

 私がこうして閉じ込められている間に陽菜に対して何らかのアクションを起こしているはずだ。


 榊あたりを向かわせ脅しをかけたか、あるいは⋯⋯。


「クソッ⋯⋯!」


 想像するだけで胃が焼けつくような焦燥感に襲われる。

 陽菜は優しい子だ。そして、かつての私と同じように自己肯定感が低いところがある。


 氷室家の圧倒的な権力を見せつけられ、きっと萎縮しているだろう。今だって泣いているかもしれない。


 居ても立ってもいられず私は机に向かった。

 そこには一冊のスケッチブックが広げられている。

 鉛筆を手に取り走らせる。


 描くのは陽菜の顔だ。

 困ったように眉を下げる表情、美味しそうにご飯を食べる時の綻んだ頬、そして私に向けてくれる慈愛に満ちた笑顔。


 会いたい。


 今すぐにでも会って、その柔らかな身体を抱きしめたい。

 紙の上でしか彼女に会えないもどかしさを鉛筆の黒鉛にぶつける。


 気づけばスケッチブックは何ページにもわたって、様々な表情の陽菜で埋め尽くされていた。


 コンコン。


 無機質なノックの音が響く。


「お嬢様。お食事の用意が整いました。旦那様がお待ちです」


 使用人の声に鉛筆を置き、深く息を吸い込んだ。

 父との対面は今の私にとって戦場に向かうのと同義だった。


「⋯⋯ああ、今行く」


 鏡の前で乱れた髪を整え、冷たい仮面を被り直した。

 私は氷室玲奈、陽菜が「強くて格好いい」と憧れてくれた生徒会長だ。

 たとえ相手が絶対的な支配者であろうと、みっともない姿は見せられない。


 ◇


 一階のメインダイニングは無駄に広い、二十人は座れそうな長いテーブルの両端に私と父が座っている。

 その距離は物理的なもの以上に、心の隔絶を表しているようだった。


 カチャ、カチャ。


 響くのはナイフとフォークが陶器の皿に当たる音だけ。

 給仕の使用人たちは彫像のように気配を消し、壁際に控えている。

 まるで空気が凍りついているかのような、窒息しそうな食卓。


 私は料理の味など全く感じぬまま機械的に肉を口に運んでいた。

 父は一言も発しない。

 ただ優雅に完璧なマナーで食事を進めている。


 メインディッシュが下げられ、コーヒーが運ばれてきたタイミングで、ようやく父が口を開いた。


「昨日、小鳥遊という娘に会ってきた」


 その一言で私の心臓が跳ね上がった。

 カップを持つ手が震え、ソーサーが微かに音を立てる。


「⋯⋯陽菜に、何をしたのですか」


 できるだけ冷静を装ったつもりだったが声には隠しきれない怒りが滲んでいた。

 父はコーヒーを一口啜り、私を見ることなく答える。


「ただの話だ。⋯⋯単刀直入に別れるよう伝えた」


 父の視線がようやく私を捉えた。

 その瞳は深海のように暗く、冷たい。


「手切れ金を渡した。一千万だ。高校生にとっては一生遊んで暮らせるほどの額に見えるだろう」


「なッ⋯⋯!?」


 私は椅子を蹴って立ち上がりかけた。

 なんてことを。

 陽菜の純粋な想いを金で汚そうとしたのか。


「陽菜は⋯⋯陽菜は、どうしたのですか」


 聞くのが怖かった。

 もし陽菜が金を受け取っていたら?


 いや、陽菜に限ってそんなことはない。しかし彼女の家庭の事情も知っている。一千万という大金を目の前に積まれ、父のような人間に威圧されたら断り切れるだろうか。


 父は口元の端を僅かに歪めた。

 それは嘲笑だった。


「拒否したよ。⋯⋯愚かなことにな」


 ドクン、と胸が高鳴る。


「小切手を突き返してきおった。『玲奈さんの心はお金じゃ買えません』『玲奈さんはモノじゃない』などと青臭い正義感を振りかざして」


 父は鼻で笑った。


「若さとは特権だな。現実を知らぬ子供の戯言だ。金で買えぬものなど、この世にはないというのに」


 父の侮蔑の言葉とは裏腹に私の胸には熱いものが込み上げていた。

 本物の恋人として対等になりたいと言った陽菜が、言葉通りこの氷室玄十郎を前にして一歩も引かずに私の価値を証明してくれたのだ。


 ああ、愛しい。

 今すぐに駆け出して、彼女を抱きしめたい。

 誇らしさで涙が出そうになるのを堪え、私は父を睨み返した。


「⋯⋯それが、私の選んだ人です」


 私ははっきりと言った。


「陽菜は愚かではありません。若さゆえの過ちでもありません。あれは彼女の本気の想いです。お父様がとっくに忘れてしまった、人の心の温かさです」


「⋯⋯口を慎め、玲奈」


 父の声が低くなり空気がビリビリと振動するような威圧感が漂う。

 しかし私は止まらなかった。陽菜が戦ってくれたのだから私が引くわけにはいかない。


「私は別れません。どんなに閉じ込められても、どんなに脅されても陽菜を手放したりはしません」


 父は不快そうにコーヒーカップをソーサーに置いた。

 カチャン、と硬質な音が静寂を引き裂く。


「それが愚かだと言っている」


 父の目が据わった。


「愛だの心だの、そんな不確かなもので現実は動かせない。⋯⋯あの女と同じだ」


「⋯⋯え?」


 不意に出た言葉に私は言葉を詰まらせた。

 あの女――父が母のことをそう呼ぶのを初めて聞いた。


「お前の母親もそうだった。理想を語り、愛を信じ、立ち向かった。⋯⋯その結果がどうなったか、お前も知っているはずだ」


 父の手がテーブルクロスを強く握りしめている。

 血管が浮き出るほどに。


「玲奈、これはお前のためだ。あんな弱い人間を巻き込むな。氷室という家の重圧は凡人には耐えられない。⋯⋯潰されて、死ぬぞ」


 父の声には確信めいた響きがあった。

 まるで、過去に同じ光景を見たことがあるかのような。


「陽菜は弱くありません! 私を救ってくれた、強い人です!」


 私は反論した。

 母の死因は病気だったはずだ。それが「弱さ」のせいだなんて認められない。


「母さんだって、弱くなかったはずです! 最後まで優しくて、強かった⋯⋯!」


 ダンッ!!


 父が拳でテーブルを叩きつけた。

 食器が跳ね、水が零れる。


「部屋に戻れ!!」


 雷のような怒号が響き渡った。

 普段は冷静沈着な父が顔を紅潮させ、肩で息をしている。


 私は息を呑んだ。

 その父の瞳に映っていたのは、私への怒りだけではなかったからだ。


 それは――恐怖。


 何か得体の知れない過去の亡霊に怯えるような、深い絶望と恐怖の色が、一瞬だけ垣間見えた。


「⋯⋯連れて行け」


 父は顔を背け、低い声で命じた。

 控えていた使用人と警備員がすぐに私に近づいてくる。


「お父様⋯⋯」


「顔も見たくない。反省するまで、そこから一歩も出すな」


 私は両脇を抱えられ、強制的にダイニングから連れ出された。

 去り際に見た父の背中は巨大な権力者のそれではなく、何かに脅え、孤独に震える老人のように小さく見えた。


 ◇


 教室はいつも通りの喧騒に包まれていた。その中にあって私は色のない世界に迷い込んだようだった。


 玲奈さんは今日も休みだ。


「そういえば、会長どうしたんだろうね?」


「ずっと休んでるよね。病気かな?」


「なんか、実家の氷室グループの方でトラブルがあったとか⋯⋯」


「やっぱ住む世界違うよなー」


 クラスメイトたちの噂話が耳に痛い。

 みんな遠い世界の出来事として話している。

 私がその渦中にいるなんて誰も知らない。


 放課後のチャイムが鳴り、生徒たちが部活や遊びへと散っていくけど、私は帰る気になれず教室に残っていた。


 家に帰ってもあの黒い封筒と料亭での記憶が蘇ってくるだけだから。


 机に突っ伏し腕の中に顔を埋める。

 瞼の裏に玲奈さんの笑顔が浮かぶ。


「会いたい⋯⋯玲奈さん⋯⋯」


 声に出すと涙が溢れてきそうになる。

 あの日は気丈に振る舞って一千万なんていらないと啖呵も切れた。

 でも、その代償としてのこの孤独は想像以上に重かった。


 玲奈さんがいない学校は、こんなにも広くて寒い。

 自分の無力さが重石のようにのしかかる。


 どうすれば助け出せる?

 どうすれば、あの強大な父親から彼女を守れる?

 私には何もない。ただの女子高生だ。


 絶望が黒い泥のように思考を埋め尽くそうとした、その時だった。


 ポン、と。

 誰かが私の肩を軽く叩いた。


「⋯⋯え?」


 顔を上げるとそこには私の幼馴染が立っていた。

 逆光で表情はよく見えないけれど、その手は温かく力強かった。


「⋯⋯いつまでも辛気臭い顔してんじゃないわよ。陽菜」


 その声に私は目を見開いた。

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