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第30話:手切れ金とプライスレスな愛

 放課後のチャイムが鳴り響く。

 いつもならこの音は甘やかな時間の始まりを告げる合図だった。

 けれど今日、私の隣にあの美しい黒髪の少女はいない。


 今日一日、玲奈さんは学校に来なかった。

 連絡も、まだない。


「⋯⋯はぁ、玲奈さん」


「ため息つくと幸せ逃げるよ、陽菜」


 後ろからわざとらしいほど明るい声が掛かる。

 愛川美羽だ。彼女は自分の荷物をまとめると心配そうに私の顔を覗き込んでいる。


「分かってるけど⋯⋯」


「ま、あのエロ会長のことだから、どうせ家で陽菜の絵でも描いてるんじゃない? どうする陽菜、エッチな絵のモデルにされてたら!」


「美羽、無理しなくていいよ」


 私が苦笑すると美羽はバツが悪そうに視線を逸らした。

 昨日の今日だ。美羽だって、あの異常な状況を目撃している。

 それでも私の不安を和らげようと彼女なりに気を遣ってくれているのだ。


「⋯⋯今日は私が送ってく。久しぶりに一緒に帰ろうよ」


「うん、ありがとう」


 私たちは二人並んで廊下を歩いた。

 美羽が他愛のない話題――最近のアニメの話や、新しいコンビニスイーツの話――を振ってくれるおかげで、沈みかけていた気分が少しだけ紛れる。


 しかし、その平穏は校門を出た瞬間に打ち砕かれた。


 夕方の雑踏の中に異質な空間が存在していた。

 昨日と同じ威圧的な黒塗りの高級セダン、その横に微動だにせず立っている人影。


 玲奈さんを連れ去った、あの冷徹な秘書――榊だった。


「げっ⋯⋯昨日の誘拐犯」


 美羽が顔をしかめ、私を庇うように半歩前へ出る。

 榊は私たちに気づくと感情の読めない顔で一礼した。


「お待ちしておりました、小鳥遊 陽菜様」


 周囲の生徒たちが何事かと遠巻きに囁き合っている。

 榊はおもむろに後部座席のドアを開けた。

 革張りのシートが覗く暗い車内は、まるで別世界への入り口のように見えた。


「ご準備がよろしければ、こちらへ。旦那様がお待ちです」


 丁寧な言葉遣いだが、そこには拒否権など存在しないという無言の圧力が込められている。


 今朝届いた招待状の時間通りだ。逃げ場はない。


「⋯⋯分かりました」


 私は短く答え、一歩踏み出した。


「ちょ、ちょっと陽菜!? マジで行くの!? 警察呼んだほうがよくない!?」


 美羽が慌てて私の袖を掴む。

 その手は震えていた。彼女も怖いのだ。

 氷室家という得体の知れない巨大な権力を前にして。


「大丈夫だよ、美羽」


 私は美羽の手に自分の手を重ね、ゆっくりと外した。

 そして精一杯の笑顔を作る。鏡の前で練習した、強がりの笑顔を。


「ただのお話だから。すぐ戻ってくるよ」


「でも⋯⋯!」


「ありがとう。行ってくるね」


 私は美羽の制止を振り切り、黒いセダンへと乗り込んだ。

 重厚な音と共にドアが閉められる。

 窓ガラス越しに見える美羽の不安げな顔が、車が動き出すと共に遠ざかっていった。


 ◇


 都心を走り抜けた車は静かな一角へと滑り込んだ。

 石畳の路地に面した風格ある黒塀の建物、その看板には控えめな文字で『料亭 氷室』とだけ記されている。


「こちらでございます」


 榊に案内され、私は手入れの行き届いた日本庭園を横目に廊下を進んだ。

 砂利を踏む音さえ憚られるような静謐せいひつさ、すれ違う和服の店員たちが、榊の姿を見るなり深々と頭を下げる。


 ここが玲奈さんの家が支配する世界なのだと肌で感じる。


 通されたのは庭園を一望できる奥の個室、榊が襖を開けるとそこには一人の男性が座っていた。


 広すぎる部屋の中央、上座に鎮座する恰幅の良い男性。

 玲奈さんによく似た切れ長の目。しかしその瞳には彼女のような情熱や揺らぎは一切ない。


 ただただ冷たく、研ぎ澄まされた日本刀のような鋭さだけがあった。


 氷室 玄十郎――玲奈さんの父親であり、氷室グループの総帥。


「⋯⋯失礼いたします」


 私が震える声で挨拶をしても、彼は手元の書類から目を離さなかった。

 数秒、あるいは数分にも感じられる沈黙の後、彼はゆっくりと顔を上げた。


「座りなさい。小鳥遊 陽菜君」


 ――低く、重い声。

 それだけで室内の気圧が下がったような錯覚を覚える。

 私は促されるまま、彼と向かい合う席に正座した。


 膝が笑っているのを悟られないよう、スカートの布地をぎゅっと握りしめる。


「単刀直入に言おう」


 玄十郎は挨拶も世間話も挟まなかった。

 彼にとって私は客ではなく処理すべきタスクの一つに過ぎないのだ。


「玲奈と別れてくれ」


 予想していた言葉だった。

 けれど実際にその口から放たれると胸を抉られるような衝撃がある。


「君のような一般人が氷室の跡取りに関わるのは迷惑だ。住む世界が違う」


「⋯⋯玲奈さんは」


 私は勇気を振り絞って口を開いた。


「玲奈さんは跡取りである以前に、一人の人間です」


 玄十郎の眉がピクリと動く。


 彼は鼻で笑うように息を吐き、懐から一冊の小切手帳を取り出した。

 そして万年筆でサラサラと何かを書き込んでいくと一枚の紙片を切り離し、テーブルの上を滑らせて私の前に差し出した。


「手切れ金だ」


 そこには『10,000,000』という数字が躍っていた。

 一千万――高校生の私にとっては、見たこともないような大金だ。


「君の家庭環境は調べさせてもらった。ご両親は共働きで決して裕福とは言えない。大学進学の費用にも頭を悩ませているようだね」


「⋯⋯ッ」


「これがあれば君の人生は変わる。好きな大学に行き、好きなものを買い、親孝行もできるだろう。一般家庭なら喉から手が出るほど欲しい額のはずだ」


 玄十郎は淡々と、まるで商品の値段交渉でもするかのように告げた。


「これで新しい人生を歩みなさい。玲奈のことは一時の火遊びとして忘れてくれ。⋯⋯どうせ子供の戯れだ。傷が浅いうちに終わらせるのが互いのためだよ」


 火遊び。戯れ。

 彼は私と玲奈さんが過ごした時間を、涙を流して抱き合ったあの夜を、そう呼んだ。


 小切手を見つめる。

 この紙切れ一枚で私の生活は楽になるかもしれない。

 「賢い選択」をするなら、これを受け取って引き下がるべきなのかもしれない。


 ⋯⋯でも。


 脳裏に浮かぶのは一千万円の札束ではなく、あのゴミ捨て場の光景だった。

 ゴミの上で泥だらけになって拾い集めた、青い絵の欠片。

 そしてバルコニーで私にしがみついて泣いた、玲奈さんの温もり。


『――君が見つけてくれた瞬間、私の止まっていた心臓が動き出した音がした』


『――私はただ、君のそばにいたかっただけだ!』


 あんなに弱くて、寂しがり屋で、愛おしい人を。

 「火遊び」だなんて言葉で切り捨てて欲しくない。


 ふつふつと熱いものが腹の底から湧き上がってくる。

 恐怖よりも先に怒りが、そして譲れない想いが溢れ出す。


 私は小切手に指を置いた。

 そして、ゆっくりと彼の元へ押し返した。


「⋯⋯いりません」


 玄十郎の動きが止まる。

 彼は怪訝そうに眉をひそめた。


「足りないか? なら、いくらなら納得する?」


「お金の問題じゃありません!」


 私は顔を上げ、声を張り上げた。

 自分でも驚くほど大きな声が出た。


「玲奈さんの心はお金じゃ買えません! 玲奈さんはモノじゃないんです!」


 私は震える膝を叩いて立ち上がった。

 座ったままでは、この人の威圧感に押し潰されてしまいそうだったからだ。


「お父様は⋯⋯玲奈さんが描いた『絵』を見たことがありますか?」


「⋯⋯絵?」


 玄十郎の顔に明らかな不快感が滲む。


「あのガラクタの話か。くだらん弱者の戯れ、時間の無駄だからやめろと命じたはずだが、まだ描いていたのか」


「ガラクタじゃありません!」


 私は叫んだ。

 この人が玲奈さんの魂を否定する元凶なのだ。


「あの絵は玲奈さんが心を削って描いた、私の宝物です! あの絵がどれほど綺麗で、寂しそうで輝いているか⋯⋯私の心を救ってくれたことか⋯⋯」


 玲奈さんの孤独を作ったのはこの父親だ。

 完璧を求め、心を殺し、人形のように扱ってきたこの人が玲奈さんをあんなにも追い詰めていたのだ。


「私は玲奈さんが好きです。一時の感情なんかじゃありません」


 私は真っ直ぐに玄十郎の目を見据えた。

 射殺されそうなほど鋭い眼光。

 でも、もう怖くなかった。

 玲奈さんを守るためなら私は何だってできる。


「お金も地位もいりません。ただ玲奈さんが隣で笑っていてくれるなら⋯⋯私はあなたとだって戦います!」


 言い切った。

 息が切れている。心臓が破裂しそうだ。

 でも言葉は喉に詰まることなく、すべて吐き出せた。


 部屋に重苦しい沈黙が降りる。

 玄十郎は押し返された小切手をじっと見つめ、それからゆっくりと私に視線を戻した。


 怒鳴られるかと思った。

 あるいは即座につまみ出されるかと。


 しかし、彼の反応は意外なものだった。


「⋯⋯⋯⋯ほう」


 彼は僅かに口角を上げた。

 それは嘲笑のようでもあり、あるいは奇妙な動物を見るような、冷ややかな興味のようでもあった。


「ただの田舎娘かと思っていたが⋯⋯意外と吠える犬のようだな」


 彼は小切手を懐にしまい、組んでいた足を解いた。


「よかろう。金で動かぬなら、それもまた一つの答えだ」


 彼は扇子をパチンと鳴らし、出口を指した。


「今日のところは帰りなさい。話は終わりだ」


「⋯⋯失礼しました」


 私は深く一礼した。

 これ以上ここにいても、話が進展するわけではない。


 ただ、私の意志だけは伝えた。

 私は逃げるように、けれど背筋だけは伸ばしてその部屋を後にした。


 私が去った後の部屋で玄十郎が一人、湯呑みを傾けながら呟く声は、誰にも届かなかった。


「⋯⋯愚か者だが骨はあるか。血は争えんな」


 ◇


 料亭の重い引き戸を開け、外の空気を吸い込んだ瞬間だった。


「⋯⋯っ、ふぅぅぅ⋯⋯!」


 張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れた。

 途端に足の力が抜け、私はその場にへたり込んでしまった。


 石畳の冷たさが膝に伝わる。

 手が、ガタガタと震えて止まらない。

 心臓が痛いほど脈打っている。


 怖かった。

 本当に怖かった。

 一歩間違えば何をされるか分からない恐怖。

 自分の人生ごと握り潰されそうな圧倒的な強者のオーラ。


 それでも私は言えた。

 玲奈さんが大切だと。

 一千万円よりも玲奈さんの笑顔のほうが価値があるのだと。


「⋯⋯会いたいよ、玲奈さん」


 涙が滲んで視界が歪む。

 今すぐ玲奈さんに会って、抱きしめてもらいたかった。

 「よく頑張ったな」って、あの優しい声で褒めてほしかった。


 私は震える手でスマートフォンを取り出した。

 画面をタップする。


 しかし、通知欄は空っぽのまま⋯⋯玲奈さんからの連絡は、まだない。


 見上げると茜色の空が、だんだんと群青色に塗り潰されていく。

 まるで私たちの前途を暗示するかのように、夜が近づいていた。


 私は涙を拭い立ち上がった。

 戦いはまだ始まったばかりだ。


 今日、宣戦布告はした。

 でも玲奈さんを取り戻すための具体的な方法は、まだ何一つ見つかっていない。


 翌日も、その翌日も。

 玲奈さんは姿を見せなかった。

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