第3話:冷たい雨と熱を帯びた青
視界を覆っていた絶望的な灰色が鮮烈な「青」によって切り裂かれた。
叩きつけるような雨音が、ふつりと遠のく。
私の世界を守るように差し出されたのは一本の傘だった。
濡れた前髪の隙間から、ぼやけた視線をゆっくりと上げる。
そこに立っていたのは、この学園で知らぬ者はいない有名人だった。
腰まで届く艶やかな黒髪、宝石のように冷たくけれど吸い込まれそうなほど深いサファイア色の瞳。
すらりと伸びた長身と制服を着崩すことなく纏う凛とした佇まい。
生徒会長――氷室玲奈。
大企業の令嬢であり文武両道の才女。人を寄せ付けないその冷徹な雰囲気から陰で『氷の女王』と呼ばれている人だ。
私とは住む世界が違う雲の上の存在。接点なんて一度もなかったはずの彼女が、なぜか今、泥にまみれた私を見下ろしている。
「⋯⋯会長⋯⋯?」
掠れた声で名を呼ぶと彼女の眉がわずかに動いた。
怒っているようにも悲しんでいるようにも見える、複雑な表情。
彼女は傘を握る手に力を込め、低い声で告げた。
「⋯⋯風邪を引くといっている。小鳥遊陽菜」
なぜ、私の名前を?
思考がうまく働かない。寒さで感覚が麻痺しているのか、それとも事態が飲み込めないせいなのか。
私は反射的に彼女から距離を取ろうと濡れたベンチの上で体を縮こまらせた。
「す、すみません⋯⋯私、汚くて⋯⋯会長の制服まで濡れちゃい、ます⋯⋯」
泥水と涙でぐしゃぐしゃの私なんかが、こんな高潔な人の近くにいていいはずがない。
美羽に捨てられた、価値のないゴミ。それが今の私だ。
それでも玲奈会長は退かなかった。
それどころか、彼女は持っていたハンカチを取り出し、躊躇なく私の涙で濡れた頬に触れた。
「ひっ⋯⋯!?」
ビクリと肩を震わせる私を彼女は逃がさない。
冷え切った肌に触れる指先は驚くほど温かかった。
高級な石鹸の香りがふわりと漂い、雨と泥の臭いを打ち消していく。
「こんなになるまで何をしていた」
問いかける声は厳しかったものの、私の頬を拭う手つきは、まるで壊れ物を扱うように慎重で母親のように優しい。
「自分をいじめるのが趣味か?」
その言葉に胸の奥がチクリと痛んだ。
自分を虐める⋯⋯そうかもしれない。
裏切られた相手に尽くし続け、勝手に傷ついて雨の中でうずくまっているなんて、マゾヒズム以外の何物でもない。
「⋯⋯私なんて、どうでもいいんです」
口をついて出たのは諦めの言葉だった。
「傘も⋯⋯あの子が忘れたから、勝手にあげちゃったし⋯⋯。私なんかが持ってても、意味ないから⋯⋯」
自嘲気味に笑おうとした、その時だった。
玲奈会長の瞳にゆらりと暗い炎が宿った。
「――馬鹿な奴だ」
それは切り捨てるような拒絶の言葉ではなかった。
どこまでも悔しそうで、それでいて愛おしむような、切実な響きを持っていた。
「だが、そこが君らしい」
「え⋯⋯?」
彼女が何を言っているのか理解する間もなく、視界がぐるりと反転した。
「わっ!?」
体が宙に浮く浮遊感。
次の瞬間、私は玲奈会長の腕の中に収まっていた。
いわゆる、お姫様抱っこだ。
170センチの長身である彼女にとって、小柄な私は羽根のように軽いのかもしれないけれど今は状況が違う。
「えっ、ちょっ、待ってください! 汚れます! 会長の制服が!」
私は泥だらけだ。ブレザーもスカートも雨水と泥ハネで見るも無惨な状態になっている。
そんな私を抱き上げれば、彼女の仕立ての良い制服も台無しになってしまう。
慌てて暴れようとする私を彼女は強い力で抱きしめ、封じ込めた。
「黙っていろ」
耳元で響く声には絶対的な強制力があった。
でもそれは恐怖を感じさせるものではなく、むしろ安心感を与えるような低音で心が落ち着く。
「君が震えているのに服の汚れなど気にするか」
「⋯⋯っ」
言葉が出なかった。
服よりも私を。
物よりも私の体を。
そんなふうに優先順位をつけられたことが、今まであっただろうか。
美羽はいつだって「私の服が濡れちゃうから」と私に傘を持たせた。荷物を持たせた。
それが当たり前だった私の世界に、この人の言葉はあまりにも強烈な劇薬だった。
「爺! 傘を!」
校門の向こうから黒いスーツを着た初老の男性が慌てて駆け寄ってきた。
玲奈会長は私を抱いたまま、自分の持っていた青い傘をその男性――運転手の方へ放るように渡した。
「お嬢様! そのような泥だらけの生徒を⋯⋯!」
「傘をさせ。屋敷へ戻る」
「は、はい! ただちに!」
有無を言わせぬ迫力に運転手の方は一瞬で居住まいを正し、会長の傘をさしながら黒塗りのリムジンへ先導する。
下校中の数人の生徒たちが、遠巻きにこちらを見ているのが気配でわかった。
「え、あれ氷室会長?」「抱えられてるの誰?」「泥だらけじゃん⋯⋯」
好奇の視線が突き刺さる。いつもの私なら恥ずかしさで死にたくなっていただろう。
でも今は玲奈会長の腕の中があまりにも温かくて、外界のノイズが遠い世界の出来事のように感じられた。
運転手がリムジンにたどり着くやいなや後部座席のドアを開けると彼女は一切の躊躇なく、革張りのシートへと私を運び込んだ。
重厚なドアが閉まる音と共に激しい雨音と冷たい空気が遮断される。
車内は微かに暖房が効いていて静寂に包まれていた。
「出せ」
「承知いたしました」
滑るように車が動き出す。
広い後部座席で玲奈会長は私を自分の隣に座らせると、備え付けのキャビネットから真っ白なバスタオルを取り出した。
「ほら、髪を拭け。風邪が悪化する」
「あ、ありがとうございます⋯⋯でも、シートが濡れて⋯⋯」
「まだそんなことを気にしているのか」
呆れたように溜息をつくと彼女は私の頭にバスタオルを被せ、わしゃわしゃと乱暴に、しかし優しく拭き始めた。
視界がタオルで遮られる。
その暗闇の中で私は彼女の体温と優しい手の感触だけを感じていた。
「⋯⋯すみません。私なんかのために」
「謝るな」
「でも、汚いし、迷惑だし⋯⋯」
「謝るなと言っている」
少し強い口調に私は口をつぐんだ。
タオルが取り払われると目の前には玲奈会長の整った顔があった。
サファイア色の瞳が真剣な光を宿して私を射抜いている。
「君はもっと自分を大切にしろ。⋯⋯見ていて、腹が立つ」
「腹が⋯⋯立つ?」
「ああ。君ほど価値のある人間が、あんなふうに自分を粗末に扱っているのが許せない」
彼女はそう言うと震えの止まらない私の背中に手を回し、ゆっくりと、一定のリズムでさすり始めた。
トントン、スースーと。
まるで怯える子供をあやすような手つき。
誰かに「無条件で守られる」という経験がなさすぎて、私はどう反応していいか分からず、借りてきた猫のように縮こまる。
美羽と一緒にいる時は、常にアンテナを張っていた。
『美羽は寒くないかな』
『喉乾いてないかな』
『機嫌悪くないかな』
私がしっかりしなきゃ。私が支えなきゃ。私がやってあげなきゃ。
それが私の存在意義だと信じ込んでいたから。
この人は私に何も求めない。
ただ震える私を温めることだけを考えてくれている。
「今はただ、温まれ。何も考えなくていい」
その低く落ち着いた声が強張っていた私の心の琴線に触れた。
張り詰めていた糸がぷつりと音を立てて緩んでいく。
(どうしてだろう⋯⋯)
背中をさする彼女の手の温もりが、冷え切った芯まで染み渡ってくる。
(この人の隣では、息をするのがこんなに楽だ)
涙が出そうになった。
悲しいからじゃない。惨めだからじゃない。
冷たい雨の中で凍えていた心が、あまりにも温かい場所に触れてしまったから。
私は無意識のうちに彼女のブレザーの裾をぎゅっと掴んでいた。
玲奈会長は何も言わず、ただ強く、私を抱き寄せたまま窓の外を流れる景色を見つめていた。
窓ガラスに打ち付ける雨粒はまだ激しいけれど、この「熱を帯びた青」に守られた空間には、もう冷たさは届かなかった。




