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第29話:黒い封筒

「⋯⋯父さんが、帰国したそうだ」


 その言葉の響きは鉛のように重く、そして氷のように冷たかった。

 玲奈さんの顔から血の気が引いているのが、夕暮れの逆光の中でもはっきりと分かってしまう。


 彼女の手が微かに震えていた。

 あの何事にも動じない絶対的な生徒会長である玲奈さんが、たった一通の連絡で怯えている。


「玲奈さん⋯⋯」


 私は思わず彼女の震える手に自分の手を重ねた。

 氷のように冷たい。

 私の体温が伝わると玲奈さんはハッとしたように顔を上げ、強張っていた表情を無理やり笑顔の形に歪めた。


「⋯⋯すまない、陽菜。少し取り乱した」


 その笑顔は胸が痛くなるほど脆いものだった。


「本来の予定より早い帰国だが⋯⋯まあ、いつもの気まぐれだろう。それに父さんは忙しい人だ。すぐにまた海外へ発つに違いない」


 玲奈さんは自分自身に言い聞かせるように早口でまくし立てると、私の手を優しく握り返した。


「さあ、帰ろうか。今日は少し寄り道をして帰ると言ったな? 駅前の新しいカフェに行くんだったか」


「玲奈さん、今日はもう真っ直ぐ帰ったほうが⋯⋯」


「いいや、ダメだ。君との約束だぞ。父さんが帰ってきたくらいで私の大切な時間を曲げるわけにはいかない」


 玲奈さんは頑なだった。

 まるで、いつも通りの日常を演じ続けることで迫りくる恐怖から目を逸らそうとしているかのように。

 私はそれ以上何も言えず、ただ強く握り返された手の痛みに耐えながら頷いた。


 ◇


 昇降口を出て校門へと向かう。

 いつもならこの時間には迎えのリムジンが一台停まっているだけだ。

 しかし今日は校門前の空気が異様だった。


 ズラリと並ぶ、黒塗りの高級セダン。

 その数、三台。


 まるで葬列のような威圧感を放ち、周囲の生徒たちが遠巻きに怯えながら見ている。

 その中心に、いつもの初老の運転手ではなく冷徹な顔立ちをした眼鏡の男性が立っていた。


 玲奈さんの足がピタリと止まる。


「⋯⋯さかきか」


 玲奈さんが苦々しげにその名を呟いた。

 榊と呼ばれた男は玲奈さんの姿を認めると感情の一切ない動作で一礼した。


「お迎えに上がりました、お嬢様」


「⋯⋯私は呼んでいない。それに今日の送迎担当は爺のはずだが」


「旦那様のご命令です。『一刻も早く顔を見せろ』と」


 榊の声は抑揚がなく、まるで機械音声のようだった。

 玲奈さんは私の手を握る力を強めた。ギリギリと骨が軋むほどに。


「断る。私はこれから陽菜を送らなければならない。父さんへの挨拶はその後だ」


 玲奈さんが私を背に隠すように一歩前へ出る。

 しかし、榊は眉一つ動かさず冷ややかな視線を私に向けた。

 その目は私を人間として見ている目ではなかった。

 道端の石ころか、あるいは処理すべきゴミを見るような目。


「小鳥遊 陽菜様、ですね」


 名前を呼ばれただけで背筋に冷たいものが走る。


「⋯⋯こちらの小鳥遊様に関しても、後ほど沙汰があります」


「――ッ!?」


 玲奈さんの肩が大きく跳ねた。

 彼女は鋭い眼光で榊を睨みつけた。


「榊⋯⋯どういう意味だ」


「言葉通りの意味です。旦那様は全てをご存知です。お嬢様がこの夏、どのような『火遊び』に興じていたかも含めて」


「⋯⋯っ」


 玲奈さんが息を呑む。それは私達の関係性を揺るがす一言だった。


「陽菜には指一本触れるな。彼女は関係ない」


「それはお嬢様の態度次第かと」


 榊は恭しく、しかし絶対的な拒絶を含んで車のドアを開けた。


「さあ、お乗りください。これ以上時間を浪費すれば旦那様の機嫌を損ねるだけです。その結果が誰に降りかかるか⋯⋯聡明なお嬢様ならご理解いただけますね?」


 それは明確な脅しだった。

 玲奈さんが拒否すれば、その報復は私に向かう。

 玲奈さんの身体から力が抜けていくのが分かった。

 彼女は悔しげに唇を噛み締め、ゆっくりと私の方を振り返った。


「⋯⋯陽菜」


 その瞳は揺れていた。

 けれど、彼女は必死に気丈な振る舞いを崩さなかった。


「すまない。今日は⋯⋯ここまでだ」


「玲奈さん⋯⋯」


「大丈夫だ。心配はいらない。私が必ず父さんを説得する。君に手出しはさせない。だから⋯⋯」


 玲奈さんは私の頬に手を添え、祈るように囁いた。


「今日は家に帰って、大人しく待っていてくれ。⋯⋯必ず、連絡する」


 そう言い残すと玲奈さんは離れがたいように私の手から指を一本ずつ解き、背を向けた。


 黒いセダンの後部座席に彼女が吸い込まれていく。

 ドアが閉まる直前、玲奈さんが私を見た、あの一瞬の泣き出しそうな表情が脳裏に焼き付いて離れない。


 バタンと重厚な音が響き、車列は滑るように動き出した。

 私はただ呆然と遠ざかっていく赤いテールランプを見送ることしかできなかった。


「⋯⋯なんか、マジでヤバい雰囲気じゃん」


 いつの間にか、隣に美羽が立っていた。

 彼女もまた、走り去った車の方を険しい顔で見つめている。


「⋯⋯うん」


「追いかけなくていいの?」


「⋯⋯私が今行っても、玲奈さんの立場が悪くなるだけだから」


 私は拳を握りしめた。

 無力だ。


 生徒会長とただの生徒、財閥の令嬢と一般庶民。

 これまで意識しないようにしてきた「格差」という壁が、圧倒的な質量を持って目の前に立ちはだかっていた。


 ◇


 その夜、家の中はしんと静まり返っていた。

 両親は共働きで帰りが遅く、私は一人きりのリビングでスマートフォンの画面を見つめ続けていた。


 玲奈さんからの連絡はない。

 私から送った『無事ですか?』というメッセージにも、既読すらつかなかった。

 おそらく、スマートフォンを取り上げられているのだ。


(玲奈さん⋯⋯)


 彼女は今、たった一人で戦っている。

 かつて彼女の心を殺そうとした父親とあの冷たい「氷室家」という牢獄の中で。


 私は部屋の隅に飾ってある「青い絵」に目をやった。

 ゴミ捨て場で拾い、私が修復した玲奈さんの絵。


 複雑な青の中に悲痛な叫びと微かな希望が描かれた抽象画。

 あれが私たちの原点だった。


「⋯⋯支えるって、約束したのに」


 バルコニーであんなに大見得を切ったのに。

 いざという時、私は彼女を守る術を何一つ持っていなかった。

 ただ守られて遠くへ連れ去られる彼女を見ていることしかできなかった自分が、どうしようもなく情けなかった。


 不安で胸が押しつぶされそうになりながら、私は膝を抱えて長い夜を過ごした。


 翌朝、ほとんど眠れないまま私は制服に着替えて玄関を出た。

 玲奈さんからはまだ何の連絡もない。

 学校に行けば会えるだろうか。いや、あの様子だと登校すら許されていないかもしれない。


 重い足取りで郵便受けを確認する。

 いつもならチラシか新聞が入っているだけのそこに異質なものが混ざっていた。


 黒い、上質な和紙の封筒。

 切手は貼られていない。直接、ここに投函されたものだ。


 宛名には達筆な筆文字で『小鳥遊 陽菜 殿』とある。

 そして差出人の名前を見た瞬間、私の心臓が早鐘を打った。


『氷室 玄十郎げんじゅうろう


 玲奈さんのお父様の名前。

 震える指先で封を開けると中に入っていたのは、一枚の厚紙だった。


『本日十八時、神楽坂「料亭 氷室」にて待つ。

 娘の件で話がある。

 単身来られたし』


 簡潔にして絶対的な命令文、拒否権など最初から存在しないかのような筆致。


「⋯⋯⋯⋯」


 私はその招待状を胸に押し当て、深く息を吐いた。

 怖い、足が震えるほどに怖い。

 あの秘書の冷たい目を思い出すだけで胃が縮み上がるようだ。


 行けば、どんな言葉を投げつけられるか分からない。二度と玲奈さんに会えなくなるようなことを言われるかもしれない。


 玲奈さんに相談するべきだが連絡がつかない。

 それにもしこれを無視すれば、玲奈さんはどうなる?

 「沙汰がある」と言ったあの言葉は嘘ではないはずだ。


 私が逃げればその分だけ玲奈さんが傷つくことになる。

 玲奈さんは昨日、私を守るために言いなりになった。

 なら今度は私が守る番だ。


 私は急いで家に戻ると洗面所へ行き、鏡の前に立った。

 寝不足で隈ができ、青ざめた顔の少女がそこにいる。

 私は両手でパンッ! と強く自分の頬を叩いた。


「⋯⋯痛っ」


 ジンジンとする痛みが恐怖で麻痺しかけていた思考を覚醒させる。

 鏡の中の私はまだ少し頼りないけれど、その瞳には確かな光が宿っていた。


「行かなきゃ」


 私はつぶやく。


「私は、玲奈さんの恋人なんだから」


 ただ守られるだけの「お姫様」ごっこは終わりと決めた。私は黒い封筒を鞄の奥にしまい込み、強く唇を引き結んでドアを開けた。


 空は高く晴れ渡っているのに泥濘ぬかるみのような現実が、私たちを飲み込もうと口を開けて待っている。


 それでも私は進むのをやめない。

 大切な人の魂を守り抜くために。

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