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第27話:ファーストキスはレモンの味じゃなくて

 二つの魂が溶け合うような抱擁。

 互いの体温が衣服越しにじんわりと伝わってくる。

 それは今まで感じたどんな温もりよりも確かなもので私の冷え切っていた心の隙間を余すことなく埋めてくれた。


 どれくらいの時間、そうしていただろう。

 波の音だけが時を刻む夜の世界で、私たちはゆっくりと体を離した。


「⋯⋯陽菜」


 目の前に玲奈さんがいる。

 月明かりに照らされたその顔は、涙で濡れていたけれど雨上がりの空のように晴れやかで、そしてとろけるほどに優しかった。


 サファイア色の瞳が、熱っぽい光を宿して私を捉えている。

 その視線だけで肌が焼けつきそうだ。


 玲奈さんの指先が私の頬をそっと撫でる。

 触れられた場所から甘い痺れが広がっていく。


「⋯⋯許可をくれ」


 玲奈さんが吐息混じりの声で囁いた。


「きょ、許可⋯⋯ですか?」


「君の唇に触れる許可だ。⋯⋯君の全てを愛したいが、勝手にするわけにはいかないだろう?」


 玲奈さんの顔が少しずつ近づいてくる。

 その瞳の奥には隠しきれない情熱とわずかな焦燥が見え隠れしていた。


「もう⋯⋯我慢の限界なんだ」


 その言葉に私の心臓が大きく跳ねた。

 今まで「契約」という鎖で繋ぎ止めていた彼女の理性が、今にも切れそうになっている。


 でも、それは怖いことじゃない。

 だって私も同じ気持ちだから。


 私はカァッと顔が熱くなるのを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。

 そして、小さく、けれど確かな意思を込めて頷いた。


「⋯⋯はい」


 波の音が一瞬遠のいた気がした。


 顎に、冷たくて熱い指先が触れる。

 クイ、と顔を上向かせられる。


 鼻先が触れ合う距離――玲奈さんの甘い香水の香りと潮風の匂いが混ざり合う。


 そしてふわりと花びらが舞い降りるような優しさで、唇が重なった。


「⋯⋯ん」


 柔らかい感触。


 ファーストキスはレモンの味がするとか、鐘の音が聞こえるとか、少女漫画ではよく言うけれど。


 私のファーストキスは、ほんの少しの涙の塩気と、そして頭がクラクラするほどの甘い味がした。


 触れるだけの挨拶のようなキス。

 玲奈さんが一度、唇を離す。


 私が安堵と名残惜しさでほぅ、と吐息を漏らした、その瞬間だった。


「⋯⋯愛してる」


 玲奈さんが掠れた声で呟き、今度は逃がさないと言わんばかりに、私の後頭部に手を回した。


「んっ⋯⋯!?」


 二度目のキスは先ほどとは全く違っていた。

 深く、熱く、貪るような口づけ。

 唇を啄まれ、角度を変え、何度も何度も確かめ合うように押し付けられる。


「ん、ぁ⋯⋯れ、な⋯⋯さん⋯⋯」


 息ができない。

 思考が溶ける。

 玲奈さんの体温が、鼓動が、全てが私の中に流れ込んでくるようだ。


 膝の力が抜けて、崩れ落ちそうになる私を、玲奈さんの強い腕が腰を抱いて支えてくれる。

 その力強さが私を現実に繋ぎ止める唯一のいかりだった。


 月と海だけが見ているバルコニーで、私たちは世界から切り離されたように、ただひたすらに愛を確かめ合っていた。


 ◇


 その様子を数メートル離れた場所から見つめる影があった。


 バルコニーへと続くリビングの窓際。

 遮光カーテンのわずかな隙間から、愛川美羽がじっと外を覗いていた。


 その右手には派手な音と共に紙テープが飛び出す「パーティー用クラッカー」が握りしめられている。


「⋯⋯チッ」


 美羽は小さく舌打ちをした。

 本当なら二人がいい雰囲気になった瞬間に飛び出し「パーン!」と音を鳴らして邪魔をするつもりだった。

 『不純異性交遊反対!』と叫んで、二人の間に割り込んでやるつもりだった。


 なのに。


 美羽の手から力が抜けた。

 クラッカーの紐にかけられていた指が離れる。


「⋯⋯はぁ」


 美羽は深いため息をつき、カーテンをそっと閉じた。


「あんな顔されたら⋯⋯入り込めないじゃん」


 最後に見た陽菜の表情は、美羽が十年間隣にいても、一度も見ることのできなかった顔だった。

 全幅の信頼と溢れんばかりの愛に満ちた、とろけるような笑顔。


 そして、あの氷室玲奈という鉄仮面の女が見せた必死で、不器用で、どうしようもないほどの愛おしさに溢れた涙。


 完敗だ。

 少なくとも、今のこの瞬間だけは。


「⋯⋯悔しいけど、お似合いだよ」


 美羽はクラッカーをテーブルの上に放り投げた。

 胸の奥がチクリと痛む。でも不思議と嫌な痛みではなかった。

 陽菜が本当に幸せになれる場所を見つけたのだという安堵にも似た感情。


「ま、貸しといてあげるよ」


 美羽はニヤリと負け惜しみのような、でもどこか清々しい笑みを浮かべた。


「⋯⋯今のところは、ね」


 彼女はソファに寝転がり、天井を見上げた。

 耳を澄ませば波の音に混じって、まだ二人の甘い気配が微かに感じられる気がした。


 ◇


 バルコニーにて永遠にも思えるようなキスが終わり、ようやく唇が離れた。


 銀の糸が引くような名残惜しさの中で、私は玲奈さんの腕の中で荒い息を整えていた。


「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯」


 顔が熱い。耳まで真っ赤になっている自覚がある。

 玲奈さんの胸に顔を埋めたまま、顔を上げられない。


「⋯⋯陽菜」


 玲奈さんが愛おしそうに私の髪を撫でる。


「⋯⋯甘いな」


「ぇ⋯⋯」


「君の唇は、最高だ。⋯⋯中毒になりそうだ」


 そんな恥ずかしいことを真顔で言われ、私はさらに小さくなった。

 心臓が早鐘を打って、肋骨が折れそうだ。


「れ、玲奈さん⋯⋯もう⋯⋯心臓、止まっちゃいます⋯⋯」


「ダメだ」


 玲奈さんが私の顔を覗き込み、悪戯っぽく微笑んだ。


「止めるな。⋯⋯これからもっと君を愛するんだから」


「~~~っ!!」


 この人は本当に加減というものを知らない。

 でも、その独占欲も重たい愛も今は全てが心地よかった。


 私は玲奈さんの胸に再び顔を埋め、幸せなため息をついた。

 もう、逃げない。

 この甘くて重い愛に、溺れる覚悟はとっくにできていた。


 ◇


 翌朝、昨夜の湿った空気とは打って変わって、爽やかな朝の光がダイニングルームに降り注いでいた。


「おはよう」


「おはようございます」


 私と玲奈さんがテーブルにつくと先に席についていた美羽が、ジトッとした目でこちらを見た。


 私と玲奈さんは当然のように手を繋いでいる。

 座席も隣同士、距離感がおかしい、もはやゼロ距離だ。

 玲奈さんが甲斐甲斐しく私のさらにサラダを取り分け、私は玲奈さんのコーヒーにミルクを入れる。


 その一挙手一投足から滲み出る空気感は、もはや「恋人」を超越して「新婚夫婦」のそれだった。


「⋯⋯あー、はいはい。ごちそうさま」


 美羽がトーストを齧りながら、わざとらしく大きな音を立ててコーヒーカップを置いた。


「朝から砂糖吐きそう。⋯⋯甘すぎて虫歯になるわ」


「ふん。嫉妬か? 愛川美羽」


 玲奈さんが余裕の笑みで返す。

 以前のようなピリピリとした殺気はない。勝者の余裕というか、満たされた者の慈愛すら感じる。


「うるさいなー。⋯⋯で?」


 美羽が頬杖をつき、ニヤニヤと意地悪な質問を投げかけた。


「いつ結婚すんの?」


「ぶっ!!」


 私は飲んでいたオレンジジュースを吹き出しそうになった。


「け、結婚って! まだ高校生だよ美羽!?」


「えー? だってその雰囲気、もう籍入れたあとじゃん」


「陽菜」


 玲奈さんが真剣な顔で私に向き直った。


「法が許せば、今すぐにでも」


「ちょ、会長!?」


「別荘の裏に教会を建てるか? それとも海外に移住するか? ハネムーンは世界一周がいいか?」


「気が早すぎます!!」


 私のツッコミに玲奈さんが楽しそうに笑う。

 それにつられて美羽も「あはは、バッカじゃないの」と笑い出した。

 私も、つられて笑ってしまった。


 窓の外には突き抜けるような青空。

 テーブルを囲む三人の笑い声が夏の空へと吸い込まれていく。


 契約から始まった歪で嘘だらけの関係。

 雨と泥にまみれて、笑い合って、すれ違って。

 それでも私たちはようやく「本当の場所」に辿り着いた。


 これから先も、きっと美羽は邪魔をしてくるだろうし玲奈さんの愛は重くなる一方だろう。


 でも、大丈夫。

 私にはもう、確かな宝物があるから。


 私は繋がれた玲奈さんの手を、ぎゅっと握り返した。

 

 ――雨は上がり、私たちの新しい季節がここから始まる。

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