第23話:太陽と日焼け止めと殺意
翌朝――カーテンの隙間から差し込む強烈な陽光で私は目を覚ました。
窓を開けると、そこには絵に描いたような夏が広がっていた。
コバルトブルーの海、白い砂浜、そして入道雲。
蝉の声と波の音が混ざり合い、私の鼓膜を心地よく震わせる。
「⋯⋯ん、おはよう陽菜」
隣のベッドで玲奈会長が身じろぎした。寝起きの少し掠れた声と乱れた黒髪が妙に色っぽい。
一方、反対側のベッドからは⋯⋯。
「⋯⋯ぐぅ⋯⋯むにゃ⋯⋯カニ⋯⋯カニ食べ放題⋯⋯」
美羽が布団を蹴飛ばし、大の字になって涎を垂らしていた。
昨日の自転車百キロ走破が相当こたえているらしい。ドロのように眠っている。
「⋯⋯あの猿は放っておいて、支度をしようか」
会長が冷ややかな視線を美羽に向けた後、私に向き直って優しく微笑んだ。
「今日は海だ。⋯⋯君の水着姿、楽しみにしているぞ」
その言葉に私はカッと顔が熱くなるのを感じた。
◇
氷室家のプライベートビーチは楽園そのものだった。
一般客は一人もおらず、視界に入るのは白いパラソルとデッキチェア、そして用意された冷たいドリンクだけ。
どこまでも続く水平線を私たちだけで独占している。
「⋯⋯ど、どうでしょうか」
私はモジモジしながら体に巻いていたバスタオルを外した。
先日、会長に買ってもらった白のホルターネックビキニだ。パレオを巻いているとはいえ太陽の下で肌を晒すのは恥ずかしい。
パラソルの下で優雅にトロピカルジュースを飲んでいた会長が、私の姿を見た瞬間、凍りついた。
「⋯⋯⋯⋯」
持っていたグラスが少し傾き、オレンジ色の液体がこぼれそうになる。
会長は無言で胸元からサングラスを取り出し、スッとかけた。
「⋯⋯か、会長?」
「⋯⋯眩しい」
会長が呻くように言った。
「太陽ではない。⋯⋯君がだ。白い肌に白い水着⋯⋯反射率が高すぎて網膜が焼けるかと思った」
「そ、そんな大袈裟な⋯⋯」
「よく似合っている。⋯⋯まばゆいほどにな」
会長はサングラス越しに私の全身をじっくりと――本当に舐めるように――観察している。その視線の熱量だけで日焼けしそうだ。
「陽菜ーっ!! 一緒に泳ごーっ!!」
そこへ空気を読まない叫び声が飛んできた。
愛川美羽だ。彼女は意外にもスポーティーで露出度の高い黄色いビキニを着て、ビーチサンダルを飛ばしながら走ってきた。復活が早い。
「見て見て陽菜! 私の水着、どう!? セクシーでしょ!?」
美羽が私の前でクルリと回ってポーズを決める。
「⋯⋯おい」
地獄の底から響くような低い声。
会長がサングラスをずらし、美羽を睨みつけた。
「誰が来ていいと言った? 下がれ。陽菜の視界に入るな」
「ひどっ! 私だって海を楽しみたいの! ここは自由の海だー!」
「ここは私の私有地だ。不法侵入で沈めるぞ」
会長と美羽のいつものプロレスが始まった。
やれやれ、今日も賑やかになりそうだ。
◇
海に入る前に重要な儀式がある。
日焼け止めだ。
「陽菜、座ってくれ」
会長に促され私はデッキチェアに座り背中を向けた。
日差しはジリジリと強く、すでに肌が熱を持っているのがわかる。
「はいはい! 私が塗ってあげる!」
美羽がサンオイルのボトルを持って割り込んできた。
「陽菜の背中は私の特等席なんだからねー! 隅々まで塗ってやるー!」
美羽の手が私の肩に伸びてくる。
――バチンッ!!
「あひぃんッ!?」
乾いた音が響き、美羽が吹き飛んだ。
会長による渾身のデコピン――美羽は砂浜に頭から突っ込み、ピクリとも動かなくなった。
「⋯⋯汚らわしい手で陽菜に触れるな」
会長は美羽を一瞥もしないまま、自分の手に最高級の日焼け止めクリームをたっぷりと出した。
「陽菜の肌を守るのは私の役目だ」
「は、はい⋯⋯お願いします」
私は緊張して身を固くした。
会長の手のひらが、私の背中に触れる。
ひやり。
冷たいクリームの感触。
けれど、それを塗り広げる会長の手のひらは驚くほど熱かった。
「⋯⋯んッ」
思わず変な声が出てしまった。
会長の指が肩甲骨のくぼみをなぞるように滑る。優しく、慈しむように、ゆっくりと。
「⋯⋯陽菜の肌は、滑らかだな」
耳元で、会長の吐息がかかる。
「まるでシルクだ。⋯⋯傷ひとつつけたくない」
「か、会長⋯⋯くすぐったいです⋯⋯」
「じっとしていろ。⋯⋯塗り残しがあったら大変だ。紫外線は敵だからな」
会長の言葉は建前だ。絶対に楽しんでいる。
指先が背骨に沿って下へと降りていく。腰のくびれ、そしてパレオの紐のギリギリのラインまで。
「あっ、ん⋯⋯っ」
会長の手つきは、マッサージというより愛撫に近い。
ヌルヌルとしたクリームの音と会長のわずかに荒くなった呼吸音が聞こえる。
「⋯⋯そこ、は⋯⋯」
「ここか? ここは焼けやすい場所だ。念入りに塗らなくては」
会長が私の二の腕の内側、柔らかい部分を揉むように塗る。
ゾクゾクとした感覚が背筋を駆け上がった。
恥ずかしい。誰かに見られたらどうしよう。
ふと視線を向けると砂浜に突き刺さっていた美羽が復活し、ハンカチを噛み締めながらこちらを睨んでいた。
「⋯⋯ぐぬぬ⋯⋯エロい⋯⋯エロすぎる⋯⋯! 私がやりたかったのにぃぃ⋯⋯!」
美羽の殺気を感じたのか、会長はようやく手を止めた。
「⋯⋯ふぅ。とりあえず、こんなところか」
会長が名残惜しそうに指を離す。
私は茹でダコのように顔を赤くして、小さく頷くことしかできなかった。
◇
その後、私たちは海に入った。
透明度は抜群で足元の白い砂まではっきりと見える。
「冷たくて気持ちいいですね!」
「ああ。陽菜、こっちに来い。浮き輪を用意した」
会長がフラミンゴ型の巨大な浮き輪を持ってきた。
二人でプカプカと波に揺られる。水面がキラキラと輝き、会長の黒髪が濡れて肌に張り付く様は、映画のワンシーンのように美しかった。
「陽菜、水をかけてやろう」
「わっ、冷たい! やりましたねー!」
パシャパシャと水をかけ合う。
キャッキャと笑い合う私たち。完全に青春ラブストーリーの世界だ。
しかし、その美しい世界の端っこで、パニック映画を撮影している人物がいた。
「ぎゃあああああ!!」
美羽の絶叫だ。
「な、なになに!? 足! 足になんか巻き付いた!?」
見ると美羽だけが少し沖の方で溺れかけている。
「⋯⋯海藻だろう。放っておけ」
会長が冷たく切り捨てる。
美羽がバシャバシャと暴れるたびに、なぜか彼女の周りだけ波が高くなる。
「ぶべらっ!!」
突如発生した高波がピンポイントで美羽の頭上から叩きつけられ――美羽の姿が消える。
「⋯⋯あ、美羽!」
「大丈夫だ。あれは『海に愛されない女』の末路だ」
数秒後、美羽がザバァッと海面に顔を出したが、その頭にはワカメが乗っており、水着の肩紐がずれている。
「⋯⋯し、死ぬかと思った⋯⋯」
美羽が岸へ逃げ帰ろうとした、その時。
「痛っ!! 痛い痛い痛い!!」
今度は足を押さえて跳ね回る。
「刺された! クラゲ!? なんで私だけ!?」
さらに砂浜に倒れ込めば、そこには運悪くカニが歩いており、美羽のお尻をハサミで挟んだ。
「あだだだだッ!! お尻! 私のお尻がぁぁぁ!!」
クラゲに刺され、カニに挟まれ、波に飲まれる。
美羽の周りだけ不幸のバーゲンセールが開催されていた。
「⋯⋯ふっ」
会長が口元に手を当てて笑った。
「素晴らしいエンターテインメントだな。チップを弾んでやりたいくらいだ」
「か、会長⋯⋯助けてあげましょうよぉ⋯⋯」
結局、私が美羽の元へ駆け寄り、お酢をかけたり絆創膏を貼ったりする羽目になった。
美羽は「陽菜ぁ~、痛いよぉ~」と甘えてきたが、その目は会長への復讐心でギラギラと燃えていた。
◇
遊び疲れた後はテラスでのバーベキュー、沈みゆく夕日を眺めながらシェフが焼いてくれた最高級の肉や魚介類がテーブルに並ぶ。
「さあ陽菜、肉だ。口を開けろ」
会長が私のお皿ではなく自分の箸で松阪牛のカルビを口元へ差し出してくる。
「えっ、でも自分で⋯⋯」
「いいから。⋯⋯君に食べさせたいんだ」
会長の瞳は真剣だ。拒否権はない。
私が口を開けるとジューシーな肉の旨味が広がった。
「美味しい⋯⋯!」
「そうか。なら次はこの野菜もどうだ」
「待ったぁぁぁ!!」
全身傷だらけの美羽が右側から割り込んできた。
その箸には少し焦げたソーセージが掴まれている。
「陽菜! こっちのソーセージも美味しいよ! 私が焼いたの!」
「いや、美羽、お肉入ってるから⋯⋯」
「ダメ! 食べて! 私の愛を受け取って!」
「黙れ雑草。⋯⋯陽菜、こっちのアワビを食べろ」
「こっちはトウモロコシ!」
右から高級食材。左から焦げた食品。
私の口元で二つの箸がカチカチとぶつかり合う。
「ふぐぅ⋯⋯」
結局、両方突っ込まれた。
リスのように頬を膨らませて咀嚼する私を見て、二人は「可愛い⋯⋯」と同時に呟き、そして互いに「チッ」と舌打ちをした。
胃袋が破裂しそうだ。
幸せだけど、このトライアングルは私の消化器官に優しくない。
◇
食後、満腹と疲労でダウンした美羽はリビングのソファで「う〜⋯⋯食べ過ぎた⋯⋯」と唸っていた。
それを尻目に会長が私を手招きする。
「陽菜。⋯⋯少し、風に当たらないか」
連れて行かれたのは二階の広いバルコニーだった。
そこからは息を呑むような満天の星空が見えた。
「うわぁ⋯⋯すごい⋯⋯!」
都会では絶対に見られない、宝石箱をひっくり返したような星屑たち。天の川まではっきりと見える。
波の音だけが響く静寂の中、私たちは手すりに寄りかかり、夜空を見上げた。
「⋯⋯綺麗ですね」
「ああ。⋯⋯君の瞳のようにな」
会長のキザな台詞も、このロケーションなら許されてしまう。
私は星を見上げながら、ふと弱音を漏らしてしまった。
「⋯⋯夢みたいです」
「ん?」
「私なんかが、こんな素敵な場所に連れてきてもらって、美味しいもの食べて、会長に優しくしてもらって⋯⋯。こんなに幸せで、いいのかなって」
私は自分の手を見つめた。
何も持っていない、ただの小鳥遊陽菜の手。
今は「恋人契約」のおかげで魔法にかかっているけれど、いつか鐘が鳴れば、また灰かぶりの私に戻るんじゃないか。
「⋯⋯バチが当たらないか、怖いくらいです」
そう呟いた瞬間。
会長の温かい手が私の手を包み込んだ。
「陽菜」
名前を呼ばれて顔を上げる。
星明かりの下、会長のサファイア色の瞳が真剣な光を湛えて私を見つめていた。
「君だから、いいんだ」
「え⋯⋯?」
「他の誰でもない。陽菜、君だから⋯⋯私は全てを与えたいと思うんだ」
会長の手が私の頬に触れる。
その指先は震えてはいなかったけれど、どこか切実な熱を帯びていた。
「君は自分を卑下するが⋯⋯君が思っている以上に、君は私にとってかけがえのない存在だ」
「か、会長⋯⋯」
「⋯⋯陽菜。明日、君に見せたいものがある」
会長の表情が、ふと真剣なものに変わった。
迷いを断ち切ったような、強い意志を感じる目。
「見せたいもの、ですか?」
「ああ。この敷地の裏手に古いアトリエがあるんだ」
「アトリエ⋯⋯?」
「そこで⋯⋯私の『秘密』を、君に話したい」
秘密――その言葉の響きに私の胸がドクンと跳ねた。
会長の言う「秘密」が何なのか、私には見当もつかない。けれど、それが私たちの関係を大きく変える何かであることだけは、直感的に理解できた。
「⋯⋯はい。聞かせてください」
私が頷くと会長は安堵したように微笑み、そっと私の額にキスをした。
「ありがとう。⋯⋯今夜はいい夢が見られそうだ」
星空の下、私たちは寄り添った。
リビングからはまだ美羽の唸り声が聞こえてくるけれど、今の私には、会長の鼓動の音だけが大きく響いていた。
明日、アトリエで何が明かされるのか。
私は期待とほんの少しの不安を抱きながら、会長の肩に頭を預けた。




