第21話:美術室の片隅で
夏合宿を目前に控えたある日の放課後。
梅雨明けの湿った風が廊下の窓から吹き込んでいた。
「よいしょ、っと⋯⋯」
私は段ボール箱を抱えて特別棟の三階にある美術室へと向かっていた。
箱の中身は生徒会で使用したポスターカラーや画用紙の残りもの、美術部に寄付するために所要で忙しい会長から運搬を頼まれたのだ。
「ねえ陽菜ー、重くない? 半分持ってあげよっか?」
私の隣には、いつものように美羽が張り付いている。
彼女は手ぶらで私の周りを衛星のようにうろちょろとしていた。
「ううん、大丈夫だよ。これくらい軽いし」
「えー、またそれ? 陽菜ってば、すぐ『大丈夫』って言うんだから。もっと私を頼ってよー」
美羽が頬を膨らませる。
口ではそう言いながらも彼女が私の荷物を奪い取ろうとはしないのを私は知っている。彼女にとって「手伝うと言葉にすること」が重要で、実際に労力を提供するかどうかは別なのだ。
⋯⋯まあ、以前の「持たせる」関係よりはマシだし、この軽さが美羽らしいとも言える。
「じゃあ、ドア開けてくれる?」
「了解! 開けゴマ!」
美羽が勢いよく美術室の引き戸を開けた。
ガララッ――。
その瞬間、鼻腔をくすぐる独特の匂いが漂ってきた。
油絵具のツンとする油の匂い、古びたキャンバスの埃っぽさ、そして微かに残るテレビン油の香り。
「うわ、くっさー。なんか独特な匂いするね」
美羽が鼻をつまんで顔をしかめる。
「そうかな? 私、この匂い結構好きだよ。⋯⋯なんか、落ち着くっていうか」
私は箱を教卓の上に置き、ふと部屋の中を見渡した。
放課後の美術室には誰もいなかった。
西日が差し込み、石膏像の影が長く伸びている。窓際に置かれたイーゼルには、誰かの描きかけの油絵が置かれていた。
色彩の洪水と無言の情熱。
私は吸い寄せられるようにそのキャンバスの前で足を止めた。
「⋯⋯綺麗」
それは夕焼けを描いた風景画だったけれど、ただの風景画ではなかった。燃えるような赤と沈みゆく夜の青が混ざり合い、筆致は荒々しくも繊細で、描いた人の「叫び」が聞こえてくるようだった。
「ふーん? 陽菜ってさー、昔からそういう『よくわかんない絵』とか好きだよね」
美羽が私の背後からひょっこりと顔を出す。
彼女はキャンバスを一瞥し、興味なさそうに肩を竦めた。
「私にはさっぱり。写真の方が綺麗じゃんって思っちゃう」
「ふふ、美羽らしいね」
「ていうかさ、陽菜。まだ持ってるの? あの⋯⋯ゴミ捨て場から拾ってきたっていうボロボロの絵」
ドキリ、と心臓が跳ねた。
美羽の言葉は何の悪気もない、ただの茶化しだった。
彼女にとっては「陽菜の変わった収集癖」の一つに過ぎないのだろう。
けれど私にとっては違う。
あの絵は私の原点だから。
「⋯⋯うん。持ってるよ」
私は静かに答えた。
「うわー、物持ちいいねー! あんなの、ただの落書きじゃん。誰が描いたかもわかんないしツギハギだらけだったし。捨てちゃえばいいのに」
美羽の言葉は軽い。
でも今日だけは、私はその言葉を笑って流せなかった。
美術室の空気が私を少しだけ正直にさせたのかもしれない。
◇
ちょうどその時だった。
氷室玲奈は生徒会長として寄付が滞りなく果たされたかの確認のため美術室に足を運んでいた。
「――美羽らしいね」
美術室の前まで来た時、中から聞こえてきた会話に玲奈の足が止まった。
「――まだ持ってるの? あのゴミ捨て場から拾ってきたっていうボロボロの絵」
その言葉が玲奈の心臓を鋭く突き刺した。
呼吸が止まるかと思った。
(⋯⋯あの、絵⋯⋯)
忘れるはずがない。
一年前の雨の日、誰からも理解されず親からは「時間の無駄」「不愉快」と否定され、ビリビリに破かれたキャンパス。そして自らゴミ捨て場に置いてきた自分自身の分身。
青一色で塗りたくられた、混沌とした抽象画。
当時の玲奈の、出口のない苦悩と孤独をぶちまけただけの、呪いのような絵。
それを拾ったのが陽菜であることは知っていた。
だからこそ玲奈は陽菜に興味を持ち、執着したのだ。
けれど、まさか一年経った今でもまだ持っているなんて。
玲奈は壁に背を預け、息を殺して耳を澄ませた。
怖い――陽菜がなんと答えるのか聞くのが怖い。
「――あんなの、ただの落書きじゃん」
美羽の声が鼓膜を打つ。
そう、それが世間の評価だ。愛川美羽がおかしいんじゃない。誰もがあの絵を気味悪がり、ゴミ扱いしていた。
陽菜だって今は私という「素敵な恋人」がいる。あんな汚い過去の遺物など、もう思い入れなんてないはず――。
しかし、美術室から響いてきたのは予想を裏切るほどに穏やかで、温かい声だった。
「⋯⋯そんなことないよ」
陽菜の声だ。
「あれはね、私の宝物だから」
「宝物ぉ? あんな暗い絵が?」
「うん。⋯⋯すごく、綺麗な『青』だったから」
陽菜が窓の外の空を見上げるように言葉を紡ぐ。
「私ね、あの絵を拾った時⋯⋯多分、すごく辛かったんだ」
「え? 辛かったって⋯⋯いつの話?」
「美羽に嘘の彼氏ができる、ずっと前。⋯⋯毎日美羽のお世話をして、自分の時間がなくて、でもそれは私がしたくてしているんだって言い聞かせて⋯⋯。本当は自分が何のために生きてるのか、わからなくなってた時」
美羽が「うっ」と言葉に詰まる気配がした。
「そんな時にね、あの絵を見つけたの。⋯⋯ビリビリになって、泥にまみれて、捨てられてて」
陽菜の声が少し震える。
「最初はね、可哀想だなって思ったの。私と同じで誰にも必要とされてないのかなって。でもそれだけじゃないってすぐに気づいた。⋯⋯家に持ち帰って1つ1つくっつけて、泥を拭いてじっと見ていたら分かったんだ」
「⋯⋯分かった?」
「うん。あの絵は泣いてなんかいなかった」
陽菜は自分の胸に手を当てて、その感触を確かめるように語った。
「あの深い青色はね、絶望の底にいる色に見えたけど⋯⋯でもその奥に、すごく小さな光があったの。⋯⋯『まだ終わらない』って。『私はここにいる』って」
陽菜の脳裏にあの絵が鮮明に浮かび上がる。
嵐のような筆致。キャンバスを叩きつけたような絵の具の盛り上がり。
それは悲鳴ではなく、咆哮だった。
「あの絵を見たとき胸が苦しくて、押しつぶされそうになった。⋯⋯でも同時に『ひとりじゃない』って思えたの」
「⋯⋯」
「この絵を描いた人も、きっと世界のどこかで、たった一人で戦ってるんだって。⋯⋯こんなに激しくて、気高くて、壊れそうなくらい優しい心を抱えて必死に立ってるんだって」
陽菜はふわりと微笑んだ。
「だから、あの絵は私の唯一の理解者だったの、誰が描いたか分からないけど、どこかで繋がっているような⋯⋯、あの絵が部屋にいてくれたから、私は今日まで頑張ってこれたんだよ」
静寂が満ちる。
美羽はポカンとしているようだった。
「⋯⋯ふ、ふーん。やっぱり陽菜は感性が変わってるね。私には、ただの暗い色にしか見えないけど」
「ふふ、それでいいよ。私が勝手に分かった気になってるだけ、それでいいから」
陽菜は愛おしそうに、窓辺のキャンバスを撫でた。
「いつか描いた人に会えたらいいな。⋯⋯『ありがとう』って伝えたい。あなたは私のヒーローです、って」
◇
廊下の陰で氷室玲奈は、崩れ落ちそうになる体を必死に壁で支えていた。
口元を手で覆い、漏れ出しそうになる嗚咽を必死に押し殺す。
(⋯⋯ああ、駄目だ)
視界が滲んで、どうしようもない。
胸の奥が熱くて痛くて、甘くて、張り裂けそうだ。
玲奈は心のどこかでずっと自分の絵を「恥部」だと思っていた。
完璧な「氷室玲奈」という仮面の下に隠された、未熟で醜いエゴの塊。
だからこそ、自分が作者であることを陽菜に言えずにいた。そもそも、あの絵のことなんて覚えてすらいないだろうと思っていた。
けれど陽菜は、その「醜いエゴ」すらも「気高くて優しい」と言ってくれた。
誰にも顧みられずに、自分自身でゴミ捨て場に葬り去った「本当の魂」を拾い上げ、抱きしめてくれた。
破かれた1つ1つを繋げ合わせ宝物として守ってくれていたのだ。
(ああ⋯⋯ほんとうに敵わないな)
玲奈は天井を仰ぎ、涙をこらえるようにまばたきをした。
(君は私の容姿を愛したわけでも、氷室家の権力を愛したわけでもない。⋯⋯君は何者でもない、ボロボロだった私自身を見つけて愛してくれている)
それは玲奈がこれまで求めても得られなかったもの。
親からの承認でも周囲からの羨望でもない。
魂の共鳴。
無条件の肯定。
――陽菜。
君だけだ。この世界で私を本当の意味で見つけてくれたのは君だけなんだ。
玲奈の中で、くすぶっていた最後の迷いが消え失せた。
(⋯⋯言おう)
契約なんていう曖昧な関係はもういらない。
「魔除けの恋人」なんていう建前も、もう必要ない。
玲奈は濡れた瞳で決意の光を宿した。
今度の合宿で全てを打ち明けよう。
私が、あの絵の作者だと。
そして――君のことが誰よりも好きだと。
玲奈は一度深呼吸をして涙を拭うと、いつもの「完璧な生徒会長」の仮面を被り直した。
「⋯⋯お勤めご苦労」
けれどその声は、いつもより少しだけ震えていて隠しきれない優しさが滲んでいた。
「あ、会長! 遅いですよー!」
「ふふ、すまない。⋯⋯少し、いい風に当たっていたんだ」
美術室の扉を越えた先には夕日を浴びて黄金色に輝く陽菜がいた。
その笑顔を見た瞬間、玲奈の胸に再び温かいものが溢れ出した。
もう、離さない。
絶対に、この手を離さない。
玲奈は心の中でそう誓い、陽菜に向かって静かに歩み寄った。
「さあ帰ろうか、陽菜。⋯⋯私たちには準備しなければならない未来がある」
差し出された玲奈の手を陽菜が「はいっ!」と握り返す。
その手の温もりが玲奈にとっての何よりの宝物だった。
美羽が「えー、なんかいい雰囲気になってるんですけど! 私も混ぜてよー!」と騒ぐ声すら、今の玲奈には心地よい音楽にしか聞こえなかった。




