第2話:雨と嘲笑
世界が灰色に染まっていた。
一睡もできなかった瞼は重く、頭の芯がずきずきと痛む。
鏡に映った自分の顔は、まるで幽霊のように血の気が引いていた。目の下にはくっきりとした隈が浮かび、髪もいつものように丁寧に整える気力が湧かなかった。
重い足取りで通学路を歩く。
いつもなら美羽の家へ迎えに行き、彼女のペースに合わせてゆっくりと並んで歩く道だ。
けれど今日はその角を曲がることができなかった。
一人で歩く道がこんなにも広く、そして寒々しいものだとは知らなかった。
カバンの内ポケットには、まだあのペアリングが入っている。
取り出すのも、捨てるのも、見るのも怖くて入れっぱなしにしてある。それが歩くたびに微かな重みを主張し、昨日の屋上での出来事が夢ではなかったと突きつけてくる。
(⋯⋯学校、行きたくないな)
電車を降りて校門が見えてくると、胃のあたりがキリキリと締め付けられた。
それでも真面目な性分が足を止めさせてはくれない。
私は逃げることすら許されないまま、自分の教室へと足を踏み入れた。
「あはは! やだもう、佐藤くんってば!」
教室に入った瞬間、鼓膜を劈いたのは、聞き慣れた、でも今は最も聞きたくない声だった。
視線を向けると窓際の席――美羽の机の周りに人だかりができていた。
その中心で美羽が机に腰掛け、足をぶらぶらさせながら笑っている。
そしてその隣には昨日私の世界を壊した張本人、佐藤がいた。
佐藤は美羽の腰に手を回し、美羽もそれを当然のように受け入れている。
クラスメイトたちがその光景を囃し立てていた。
「ヒューヒュー! 朝からアツいねえ!」
「美羽ちゃん、ついに彼氏持ちかよー。俺らショックだわー」
「お似合いじゃん。美少女とイケメンでお似合いお似合い」
笑い声と祝福の言葉。
その輪の中に私の居場所はどこにもなかった。
ほんの昨日まで美羽の隣は私の特等席だったはずなのに。誰よりも美羽を理解し、守っているのは私だという自負があったのに。
それはまるで波にさらわれた砂の城のように、跡形もなく消え失せていた。
私は息を潜め、誰とも目を合わせないように自分の席へ向かった。
心臓が不快なリズムで脈打つ。
早く席に着いてイヤホンで耳を塞いでしまいたい。
――だけど運命は残酷だった。
「あ、陽菜ー! おはよっ!」
美羽が私を見つけ、パッと顔を輝かせた。
その屈託のない笑顔に私の心臓が凍りつく。
どうして笑えるの?
昨日、あんなに残酷な裏切り方をしたのに。どうして今まで通り、親友のような顔で私の名前を呼べるの?
美羽が手招きをする。
佐藤の腕が美羽の腰にあるままで。
「ねえねえ陽菜、昨日の数学の宿題見せて? やってくるの忘れちゃってさ〜」
教室の空気が一瞬だけ止まった気がした。
美羽は悪びれる様子もなく、小首をかしげて私を見つめている。
「昨日さ、佐藤くんの部活終わりにデートしてたら家に帰るの遅くなっちゃったんだもん。ね? いいでしょ? 陽菜は私のこと助けてくれるよね?」
彼女の口から出る「デート」という単語が、鋭利な刃物となって私の胸を刺す。
私が一人、絶望の中で泣いていた夜に美羽はこの男と笑い合い、楽しい時間を過ごしていたのだ。そしてその尻拭いを、平然と私に求めてくる。
佐藤がニヤニヤと笑いながら口を挟んだ。
「うっわ、美羽ちゃんの幼馴染って便利屋じゃん。すげーな、宿題までやってくれんの?」
「もー、便利屋とか言わないでよぉ。陽菜は優しいの! 私のことが大好きなんだから、ねー?」
便利屋――その言葉にクラスの数人が苦笑いを浮かべたのが見えた。
ああ、そうか。
周りからはずっと、そう見えていたんだ。
美羽が「幼馴染の優しさにつけ込んでいる」と言われていたのは知っていた。でも私は「美羽は不器用なだけ」とかばい続けてきた。
けれど現実は違った。
みっともない。恥ずかしい。惨めだ。
感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、指先が震える。
いつもなら「しょうがないなぁ」と苦笑してノートを渡していただろう。
それが私の役目だと思っていたから。
でも、今日は無理だ。
このノートを渡してしまえば、私の中の何かが完全に死んでしまう気がした。
「⋯⋯ごめん」
絞り出した声は自分でも驚くほど低く、掠れていた。
「え?」
美羽の笑顔が固まる。
私が断るなんて、予想もしていなかったのだろう。
「今日は⋯⋯気分が悪いから。ノート、貸せない」
精一杯の抵抗だった。
美羽の瞳がすっと細められる。一瞬、不機嫌そうな色が走ったのを私は見逃さなかった。
しかし、それはすぐに消え去り代わりに甘ったるい、憐れむような笑みが浮かぶ。
――あーあ、陽菜ったら。嫉妬して拗ねちゃって。
美羽の中で都合のいい解釈が組み上がる。
彼氏ができた私にヤキモチを焼いて、ちょっと意地悪をしているだけ。
そう思えばこの反抗すらも「私への愛の裏返し」に見えてくると言いたげな笑み。
「もー、陽菜ったら。そんな意地悪言わないでよ」
美羽が席を立ち、私の方へと歩み寄ってくる。
香水の甘い香りが鼻をつく。
彼女は私のすぐ側まで来ると肩に手をかけて私の耳元に顔を寄せた。
「⋯⋯安心してよ、陽菜」
吐息が耳にかかる。
ぞわり、と背筋に寒気が走った。
「彼氏とはまだ、キスまでしかしてないからさ」
――え?
頭の中が真っ白になった。
キス?
キスしたの?
その、ぷっくりとした可愛い唇を⋯⋯私が一度も触れることのできなかったものを。
あの男が、奪ったの?
生々しい想像が脳裏に描かれる。
美羽が目を閉じ、佐藤と唇を重ねる姿。
その時の美羽の表情。吐息。体温。
「っ⋯⋯!」
強烈な吐き気が、胃の底からこみ上げてきた。
気持ち悪い。
美羽のその言葉も、笑顔も、触れようとしてくる手も。
そして何より、そんな彼女を今まで「守るべき存在」だと信じ込んでいた自分自身が、どうしようもなく気持ち悪かった。
「⋯⋯っ、う、ぅぅ⋯⋯!」
私は口元を手で押さえると、美羽を突き飛ばすようにして背を向けた。
「あ、ちょっ、陽菜!?」
背後で美羽の驚く声がしたけれど、もう振り返れなかった。
私は教室を飛び出し、廊下を走った。
視界が歪む。涙なのか、眩暈なのか分からない。
ただ、この場から一刻も早く逃げ出したかった。
◇
放課後になると空は私たちの関係をあざ笑うかのように、激しい雨を降らせていた。
窓ガラスを叩く雨音が誰もいない教室に響く。
私は早退することもできず、結局保健室で数時間を過ごし、誰もいなくなった頃を見計らって教室に戻ってきたのだ。
教室にはもう美羽も佐藤もいなかった。
黒板には日直の名前が書かれたままで、美羽の机の上には、誰かの置き手紙のようなゴミが落ちていた。
帰ろう。
誰もいない家に。誰も待っていない場所に。
昇降口へ向かい、下駄箱を開ける。
外は土砂降りだ。傘がないと駅まで辿り着く前にずぶ濡れになるだろう。
私はバッグから折りたたみ傘に手を伸ばし――そして指先が虚空を掴んだ。
「⋯⋯あ」
ない。
私の傘がない。
盗まれた? いや、違う。
記憶の糸が朝の光景を手繰り寄せる。
――今朝、家を出る時に見たニュース番組だ。
お天気お姉さんが『午後は激しい雷雨になるでしょう』と注意を呼びかけていた。
その瞬間、私の脳裏に浮かんだのは自分のことではなく、美羽のことだった。
『美羽、また傘忘れてないかな。あの子、雨に濡れるとすぐ熱出すのに』
昨日の屋上で裏切られたばかりなのに。
心はズタズタに引き裂かれていたはずなのに。
学校に到着し、昇降口で美羽の上履きがないのを見た時、私はまるで呼吸をするように、自分の持っていた折りたたみ傘を美羽の下駄箱に入れてしまったのだ。
「美羽が困るから」
そんな便利屋のような思考回路が染み付いていた。
その直後に教室へ行き、あの「キス発言」を聞かされてトドメを刺されたというのに。
「⋯⋯はは」
乾いた笑いが漏れた。
美羽の下駄箱を覗くと、そこは空っぽだった。
彼女は私の傘を持って帰ったのだ。
おそらく「ラッキー、誰か傘入れてくれてる! 陽菜かな? さすが〜」とでも思いながら。
お礼の一言もメッセージもない。それが当然の権利であるかのように。
「私⋯⋯何やってるんだろ⋯⋯」
自己嫌悪で胸が張り裂けそうだった。
惨めすぎる。
裏切った相手に傘を差し出し、自分はずぶ濡れになって帰るなんて。
私はふらりと外へ出た。
冷たい雨が容赦なく全身を叩きつける。
制服が瞬く間に水を吸い、肌に張り付く。
冷たさが骨まで染みてくるけれど、それがむしろ心地よかった。
この冷たさが私の愚かさを罰してくれているようで。
校門の近くにある屋根のないベンチ。
私はそこに崩れ落ちるように座り込んだ。
もう、歩く気力も残っていなかった。
雨は激しさを増し、視界を白く染め上げていく。
通り過ぎる車が水しぶきを上げていくが、誰も私になんて気付かない。
「⋯⋯都合のいい時だけ頼られて⋯⋯用が済んだら捨てられて」
雨音に紛れて本音が零れ落ちる。
「私は美羽にとって、ただの便利な道具でしかなかったんだ」
カバンの中のペアリング。
朝、渡せなかったノート。
そして今ごろ美羽を雨から守っている私の傘。
すべてが私を嘲笑っている。
「消えたい⋯⋯」
私は膝を抱え、小さく丸まった。
「この雨と一緒に、全部流れてしまえばいいのに」
私の恋も、思い出も、この惨めな自分自身も。
いっそ泥水に溶けて、排水溝に流れてしまえば楽になれるのに。
世界は冷たく、暗く、私を置き去りにして回っていく。
誰も助けてなんてくれない。
私はただの、雨に打たれる哀れな捨て犬だった。
――その時だった。
激しい雨音が、ふと遠のいた。
冷たい雨粒が、私の体に当たらなくなる。
「⋯⋯え?」
雨が止んだ?
いや、違う。足元の水たまりには、まだ激しく波紋が広がっている。
私はゆっくりと顔を上げた。
そこには鮮やかな青色の傘が、私を覆うように差し出されていた。
そしてその傘を持つ主が、冷ややかで、けれどどこか熱を帯びた瞳で私を見下ろしていた。
「⋯⋯風邪を引くぞ。小鳥遊陽菜」
その声は凛としていて、雨音の中でもはっきりと私の耳に届いた。




