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第19話:鉄壁の生徒会室と窓の外の亡霊

 高校生にとっての試練それは定期的に訪れる。

 中間テストだ。


 放課後の教室で私は数学の教科書と睨めっこをしていた。

 そこに書かれているのは日本語のはずなのに、なぜか私の脳はそれを言語として認識してくれない。サイン、コサイン、タンジェント⋯⋯。呪文か何かなのだろうか。


「うぅ⋯⋯無理。もうダメ。私、数学と絶交したい」


 机に突っ伏して現実逃避をしているとポンと肩を叩かれた。


「だらしないぞー、陽菜! そんなんじゃ赤点取って補習地獄だよ?」


 見上げると、そこには自信満々の笑みを浮かべた愛川美羽がいた。

 腰に手を当て勝ち誇ったようなポーズを決めている。


「美羽⋯⋯そういう美羽こそ大丈夫なの? 前回の小テスト、七点だったよね?」


「うっ! そ、それはたまたま鉛筆が転がる方向が悪かっただけで⋯⋯!」


 美羽が泳いだ目で言い訳をする。

 そう、この幼馴染は私以上に勉強ができない。いや、できないというより「勘」だけで生きているところがあるので、論理的思考を要する数学とは致命的に相性が悪いのだ。


「で、でもっ! 二人で協力すれば怖くないよ! ねっ、これからファミレス行って勉強しよ!」


 美羽が私の手を取る。


「ドリンクバーで粘りながら陽菜の綺麗なノートを見せてもらいつつ、私が精神的サポートをする! 完璧な作戦でしょ?」


(⋯⋯それ、私のノートを丸写ししたいだけだよね?)


 美羽の魂胆は見え見えだった。

 でも一人で煮詰まっているよりはマシかもしれない。美羽の珍回答を見て笑えば、少しは気も紛れるだろうし。


「うん、わかった。じゃあ――」


「――却下だ」


 私の言葉を遮るように絶対零度の声が降ってきた。

 教室の温度が一度下がる。


「れ、玲奈会長」


 いつの間にか背後に玲奈会長が立っていた。

 今日も今日とて麗しいけれど、その瞳は私の手を握っている美羽の手首にロックオンされている。


「陽菜。君の成績は生徒会にとっても重要事項だ。私の恋人である君が赤点など取れば生徒会の、ひいては私の指導力が疑われる」


「はい、ごもっともです」

 

「よって、ファミレスなどという騒がしい場所での勉強は認めない。⋯⋯君は今日、生徒会室に来い」


 玲奈会長が私のもう片方の手を掴む。


「私が直々に指導してやる。マンツーマンで、みっちりとな」


「えっ!? か、会長の個人授業ですか!?」


 それは魅力的だが同時に恐怖でもある。

 天下の氷室玲奈の個人授業だなんてスパルタに決まっている。「なぜこの公式が理解できない? 脳のシワが足りないのか?」とか言われたら泣いてしまうかもしれない。


「ちょ、ちょっと勝手に決めないでよ!」


 美羽が私の腕を引っ張り対抗する。


「陽菜は私と勉強するって約束したの! 部外者は引っ込んでて!」


「部外者は君の方だ愛川美羽。⋯⋯それに君の偏差値で陽菜に何を教えられるというのだ? 『正しい鉛筆の転がし方』か?」


「ぐぬぬ⋯⋯っ! い、いいもん! 私も行く! 私も生徒会室で勉強する!」


 美羽が強引についてこようとする。

 しかし会長は冷ややかに鼻を鳴らし、パチンと指を鳴らした。


 その瞬間――どこからともなく黒服の屈強な男たちが二名、現れた。


「え? え?」


「連れて行け。⋯⋯不法侵入者は排除だ」


「イエッサー」


「は!? ちょ、離して! 何これ!? どっから出てきたのよ! ドナドナ!? 私は子牛かーーっ!?」


 美羽の両脇を黒服たちが抱え上げ、軽々と連行していく。

 廊下の向こうへ消えていく美羽の「陽菜ぁぁぁー! 助けてぇぇぇー!」という声が、哀愁を誘うように響き渡った。


「あはは⋯⋯」


 もはやツッコミを入れる気力もなく、私は玲奈会長に手を引かれて歩き出した。


 ◇


 放課後の生徒会室。

 そこは学校内で最も静寂と格調高さに満ちた空間だった。


 淹れたての紅茶の香りが漂う中、私は長テーブルに向かい、玲奈会長はその横に椅子を寄せて座っていた。


「⋯⋯陽菜、ここの計算が間違っている」


 会長が私のノートを指差す。

 今日の玲奈会長は普段とは少し違っていて、細い銀縁の眼鏡をかけている。その姿がまた似合っていて。


(か、かっこいい⋯⋯)


 知的な雰囲気が増し、冷徹な女教師のような色気がある。

 私はその横顔に見惚れてしまい、肝心の説明が右から左へと抜けていっていた。


「陽菜、聞いているのか?」


「は、はいっ! 聞いてます!」


「嘘をつけ。⋯⋯視線が私の唇に釘付けだったぞ」


「ひゃうっ!?」


 バレていた。

 会長が眼鏡のブリッジを中指でクイッと上げる。


「まったく⋯⋯集中力のない生徒だ。これでは特別な教育が必要だな」


 会長が椅子ごと私に近づいてきた⋯⋯膝と膝が触れ合う距離から、さらに彼女は私の背後から覆いかぶさるようにして、シャーペンを持つ私の手を握りしめた。


「いいか、ここの数式は⋯⋯こう解くんだ」


 耳元で囁かれる吐息、背中に感じる柔らかな感触と体温。

 玲奈会長の髪から漂う高級なシャンプーの香りが私の脳内を完全に支配する。


「⋯⋯わかったか?」


「あ、ぅ⋯⋯」


 わかるわけがない。

 心臓の音がうるさすぎて、数式どころではないのだ。

 会長は絶対にわざとやっている。私の耳が赤くなっているのを見て、楽しそうに目を細めているのがその証拠だ。


「か、顔が近いです、会長⋯⋯」


「不満か?」


「不満じゃないですけど⋯⋯内容が頭に入ってきません⋯⋯」


「ふふ、可愛い奴め」


 玲奈会長はクスクスと笑い、私の頬にちゅっとキスをした。


「頑張ったらご褒美をやる。あと五ページだ」


「ご、ご褒美⋯⋯?」


「ああ。君が一番欲しがっているものをやろう。出来なかったら⋯⋯お仕置きだな?」


「っ!?」


 バクバクと心臓が鳴るのを必死に抑えながら、その言葉に釣られ(または脅され)て私は死に物狂いでペンを走らせた。


 ◇


 一時間後、私は燃え尽きた灰のように机に突っ伏していた。


「⋯⋯お、終わった⋯⋯」


 ノルマ達成だ。脳みそが沸騰しそうだが、なんとか全問正解までたどり着いた。


「よくやった。偉いぞ、陽菜」


 会長が眼鏡を外し私の頭を優しく撫でてくれる。

 その手つきは頑張ったペットを労う飼い主のようでもあり、子どもを褒める母親のような優しさ。


「さて⋯⋯約束のご褒美だ」


 会長はソファに移動するとポンポンと自分の太腿を叩いた。


「こっちに来い」


「え?」


「休憩だ。⋯⋯膝を貸してやる」


 ひ、膝枕!?

 天下の氷室玲奈会長の太腿を枕にするなんて、そんな恐れ多いこと、許されないのではないか? 


「そ、そんな! 悪いですよ!」


「悪くない。命令だ。⋯⋯それに」


 玲奈会長が少し顔を赤らめ、視線を逸らす。


「⋯⋯私が、君の顔を上から見たいんだ」


「うぅ⋯⋯」


 そんな可愛いことを言われたら断れるはずがない。

 私はおずおずとソファに近づき、意を決して会長の膝に頭を預けた。


「⋯⋯失礼します」


 柔らかくて温かい。

 制服のスカート越しの感触と玲奈会長の体温が後頭部に伝わり、緊張の糸が解けていくのを感じる。


「⋯⋯どうだ?」


「⋯⋯なんだか天国みたいです」


「そうか。なら、ずっとこうしていろ」


 会長の細い指が私の前髪を梳いていく、視界いっぱいに広がる会長の美しい顔。下から見上げても一切の死角がないのはどういう造形なのだろうか。


「陽菜⋯⋯」


 会長の顔がゆっくりと近づいてきた。

 サファイア色の瞳が甘くとろけるような熱を帯びている。


「⋯⋯いい匂いだ」


 彼女は私の髪に鼻を埋めるようにして、スゥーッと息を吸い込んだ。


「陽菜の匂いを嗅ぐと⋯⋯落ち着く」


「く⋯⋯くすぐったいですよ⋯⋯」


「黙っていろ。⋯⋯これは私の栄養補給だ」


 玲奈会長の独占欲と少しの変態性(?)が垣間見えるけれど、それが心地よかった。


 誰にも邪魔されない密室。静かな時間。

 窓の外はもう夕暮れで、オレンジ色の光が差し込んでいる。


 私は幸せな微睡みの中で、ぼんやりと窓の方へ視線を向けた。


 生徒会室は校舎の三階にある。

 窓の外には空しか見えないはずだ。


 ――はずだった。


「⋯⋯え?」


 私の思考が凍りついた。


 窓ガラスに。

 何かが張り付いていた。


 長い髪に汚れた制服――そして、ガラスに押し付けられて変形した頬と血走った二つの目玉。


 それは重力という物理法則を無視して、三階の窓の外側に「へばりついて」いた。


『⋯⋯る⋯⋯な⋯⋯』


 ガラス越しに、怨念のこもった声が聞こえた気がした。

 その唇が動く。


『ズ ル イ ぞ ヒ ム ロ ォ ォ ォ ⋯⋯!!』


「ひっ、ひいいいいいいっ!!!」


 私は悲鳴を上げて飛び起きた。

 あまりの恐怖に会長の膝から転がり落ちる。


「お、お化け! 窓の外に怨霊が!!」


「ん? ⋯⋯チッ」


 玲奈会長が不機嫌そうに窓を一瞥し、盛大に舌打ちをした。

 驚く様子は一切ない。むしろ「害虫を見つけた」という反応だ。


「あのストーカー猿め⋯⋯。また警備の網をかいくぐったか」


「えっ、あれ美羽!? ここ三階ですよ!?」


「執念だけで壁を登ってきたのだろう。⋯⋯ヤモリ並みの身体能力だ」


「そんなバカな!」


 会長は立ち上がると窓辺に歩み寄った。

 窓の外では美羽が必死にガラスを叩いている。


『開けろ! そこ代われ! 陽菜への膝枕は私の特等席だろーが! 独占すんな泥棒猫!』


 声は聞こえないが口の動きで完全に理解できた。

 必死すぎて顔がホラー映画のクリーチャーになっている。


 会長は冷酷な笑みを浮かべ、美羽に向かって中指を立てる⋯⋯ような真似はさすがにしなかったが、代わりにカーテンのタッセルに手をかけた。


「見苦しい。消えろ負け犬」


 シャッ!!


 無慈悲な音と共に分厚い遮光カーテンが引かれた。

 美羽の姿が完全に視界から消える。


『閉めんなあああ!! 開けろぉぉぉ!! 私も混ぜろぉぉぉ!!』


 ドンドン! と窓を叩く音が虚しく響くが、玲奈会長は完全に無視を決め込んだ。


「さあ陽菜、邪魔者は消えた」


 会長は何事もなかったかのように微笑み、再びソファに座ってポンと膝を叩いた。


「続きをしようか」


「⋯⋯め、メンタル強すぎませんか、会長」


 私は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。

 窓の外からはまだ断末魔のような美羽の叫び声が聞こえている。


 私のテスト勉強は終わったが、この「鉄壁の要塞」を巡る攻防戦は、まだまだ続きそうだった。


 とりあえず美羽が落下しないことだけを祈りつつ、私は再び甘い檻(膝枕)の中へと戻っていくのだった。

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