第16話:雨、泥濘、そして歪な三角形
空が泣いているようだった。
昼過ぎから降り出した雨は放課後になる頃には視界を白く染めるほどの豪雨へと変わっていた。
アスファルトを叩きつける激しい雨音が、世界中の雑音を掻き消していく。
昇降口には傘を持たない生徒たちが恨めしそうに空を見上げる姿があったけれど、今の私にその心配はない。
「⋯⋯すごい雨だな」
「はい。天気予報、当たりましたね」
私の隣には玲奈会長がいる。
彼女は優雅に大きな傘を広げると当然のように私をその中へ招き入れた。
相合傘――二人の距離は肩が触れ合うほどに近い。会長の纏う上品な香水の香りが、湿った雨の匂いを上書きしていく。
「迎えの車が校門前に待機している。濡れないよう、私の腰に手を回しておけ」
「えっ、あ、はい⋯⋯」
会長のエスコートは完璧で水たまりを避け、雨風から私を庇うように歩幅を合わせてくれる。
その温もりに守られながら私は校門へと向かった。
私たちが校門に差し掛かった、その時だった。
灰色の雨のカーテンの向こうに人影が一つ、揺らめいていた。
傘も差さず、ずぶ濡れの状態で門柱にしがみつくように立っている少女。
一瞬、誰だか分からなかった。
いつも完璧にセットされていた亜麻色の巻き髪は、海藻のように濡れて頬に張り付き、シワだらけの制服は泥水で汚れている。
その姿はまるで捨てられた子犬か、あるいは雨に打たれる幽霊のようだった。
そして――その瞳だけが暗い雨空の下で、異様なほどの執着の光を宿して私を捉えていた。
「⋯⋯陽菜」
雨音に紛れて私の名前が呼ばれた。
鮮明になった亡霊のようなその姿に私は息を呑んだ。
「⋯⋯美羽なの?」
そこにいたのは愛川美羽だった。
私の幼馴染でクラスのアイドル、カースト上位の支配層――かつてふんぞり返っていた彼女の面影は、今のボロボロの姿には微塵もなかった。
美羽は私たちが近づくとふらりと体を揺らす、そして糸が切れた操り人形のように、バシャリと音を立てて泥水の中に膝をついた。
「陽菜⋯⋯ッ、待ってた⋯⋯ずっと、待ってたの⋯⋯」
その声は掠れ、震えていた。
彼女の白い膝が冷たいアスファルトと泥に汚れていく。
私は反射的に駆け寄ろうとした。
幼い頃からの体に染み付いた条件反射――美羽が転んだら助け起こす。美羽が泣いていたら涙を拭く。
「美羽!?」
私が傘から飛び出しそうになった、その瞬間。
ガシッ。
私の左腕が強い力で掴まれた。
振り返ると玲奈会長が氷のような冷徹な瞳で私を見下ろしていた。
「⋯⋯行くな、陽菜」
「で、でも会長! 美羽が⋯⋯!」
「全ては彼女自身の行いが招いたことだ。同情する価値もない」
会長の声には慈悲の欠片もなかった。
彼女は私の腕を引き戻し、再び傘の下に閉じ込めると泥の中にうずくまる美羽へと冷ややかな視線を向けた。
「⋯⋯何の用だ、愛川美羽」
会長が見下ろす先で美羽がゆっくりと顔を上げた。
雨と涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔。
それでも、その視線は会長ではなく私だけに向けられていた。
「陽菜⋯⋯陽菜、ごめんね⋯⋯」
美羽が地面に手をついて頭を下げた。
土下座だ。
あのプライドの高い美羽が雨と泥にまみれて、私の足元にひれ伏している。
「ごめんなさい! 全部、全部嘘だったの!」
美羽の絶叫が雨音を切り裂いた。
「彼氏なんて嘘! 佐藤くんとは手も繋いでないし、キスなんてするわけない! あんなの、陽菜の気を引くための道具だったの!」
「⋯⋯え?」
「陽菜が私に対して尽くしてくれることに甘えてた⋯⋯調子に乗ってたの⋯⋯! 陽菜は絶対に私から離れないって、バカみたいに過信してた⋯⋯!」
美羽は顔を上げ、必死な形相で私に訴えかける。
「ほんの出来心だったの! 最近、陽菜との関係が安定しすぎてて⋯⋯ちょっとだけ不安にさせて、嫉妬して欲しくて⋯⋯もっと私のこと好きになって欲しくて⋯⋯!」
それはあまりにも身勝手で、あまりにも幼い告白だった。
私の心をえぐり、絶望の底に突き落としたあの言葉たちが、すべて彼女の「試し行動」だったなんて。
「好きなの! 陽菜じゃなきゃダメなの!」
美羽が叫ぶ。
「ずっと前から陽菜のことだけが好きだったの! 陽菜がいないと私、息もできない⋯⋯ご飯も美味しくない⋯⋯何もわからないの! お願い、捨てないで⋯⋯戻ってきてよぉ⋯⋯ッ!」
美羽の嗚咽が響く。
その姿はあまりにも惨めで、哀れで、そして痛々しいほどに真実味を帯びていた。
かつての私なら、きっとこの涙を見て許していただろう。すぐに絆されて「しょうがないなぁ」と苦笑して、彼女を抱きしめていただろう。
「――くだらない」
吐き捨てるような、低い声が降ってきた。
玲奈会長だ。
彼女は美羽の懺悔を聞いても眉一つ動かしていなかった。むしろ、その瞳にはさらに濃い軽蔑の色が浮かんでいた。
「嘘をついて相手を試し、傷つけ、それが上手くいかなかったら泣いて謝る。⋯⋯それが君の言う『好き』か? 笑わせるな」
「う⋯⋯ぅぅ⋯⋯」
「君の言葉は信用に値しない。一度裏切った者は何度でも裏切る。自分の保身と欲望のために、また陽菜を傷つけるに決まっている」
会長は一歩前に出て、私を背中に隠すようにして美羽と対峙した。
「大人しく陽菜との縁を切れ。⋯⋯もう陽菜は私の恋人だ。君が入る隙間など1ミリもない」
絶対的な宣告――王の勅命のようなその言葉に美羽がビクリと震えた。
しかし、追い詰められた鼠は最後の牙を剥く。
「⋯⋯ちがう」
美羽が、ゆらりと立ち上がった。
泥だらけのスカートを握りしめ、会長を睨みつける。その目には狂気にも似た暗い炎が燃え上がっていた。
「何が恋人よ! 恋人ごっこの間違いでしょ⋯⋯! 私と陽菜は10年以上前から一緒にいるの! 生まれた時からずっと、お互いがお互いの一部だったの!」
美羽が一歩踏み出す。
「陽菜の好きな食べ物も、寝る時の癖も、不安な時に指をイジイジする癖も、全部私が一番知ってる! あんたなんかに⋯⋯昨日今日出会っただけのあんたなんかに、陽菜の何がわかるっていうのよ!」
「⋯⋯ほう」
会長の目がすっと細められた。
二人の間に目に見えない火花が散る。
「情報の多さが、愛の深さだとでも?」
会長は静かに、しかし鋭利な刃物のように言葉を突き刺した。
「君は10年かけて陽菜を知り尽くしたと言ったな。⋯⋯ではなぜ、その10年もの間、彼女を『都合のいい道具』として扱い続けた?」
「そ、それは⋯⋯!」
「知っていて利用したのなら尚更タチが悪い。君は彼女の優しさを搾取し、彼女の自己肯定感を奪い、自分がいなければ何もできないように洗脳しようとした」
会長の声が熱を帯びる。
「私は違う。私は彼女の魂を愛している。彼女が何を持っていようと何ができなかろうと関係ない。ただそこにいるだけで尊い存在だと、私は知っている」
「うるさい⋯⋯うるさいうるさいうるさいッ!」
美羽が耳を塞いで叫んだ。
「綺麗事言わないでよ! どうせあんたも陽菜の『尽くす才能』が欲しかっただけでしょ!? 私から奪って、優越感に浸りたいだけでしょ!?」
「一緒にす――」
「陽菜は私のなの! 返してよ! 私の心臓を返してよぉッ!!」
美羽が理性を失い、私に向かって手を伸ばしてきた。
その手は泥にまみれ、鋭く尖った爪が私を捕らえようとしている。
「陽菜に触れるな!」
会長が私の前に立ち塞がり、美羽の手を振り払った衝撃で美羽が倒れ込む。
パシャンっと泥が飛び散った。
「⋯⋯二人とも、もうやめて」
静かな、けれど凛とした声。
それが私の口から出たことに私自身が一番驚いていたかもしれない。
私は会長の腕をすり抜け、雨の中へと足を踏み出した。
「陽菜!?」
「陽菜⋯⋯ッ!」
二人の声が重なる。
冷たい雨が容赦なく私の体を打ち据える。一瞬で制服が重くなり、肌に張り付く。
でも不思議と寒くはなかった。
私は美羽の目の前に立ち、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
そして泥だらけで震えている美羽の手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
「陽菜⋯⋯?」
美羽が呆然と私を見つめる。
私はポケットからハンカチを取り出すと、美羽の泥だらけの手を丁寧に拭い始めた。
昔、美羽が転んだ時にいつもそうしていたように。
優しく、丁寧に。
「⋯⋯あぁ陽菜、ありがとう、陽菜はやっぱり優しいね」
美羽が泣き笑いのような顔をする。
「私を許してくれるの⋯⋯? 戻ってきてくれるの⋯⋯?」
その瞳には縋るような期待の光が宿っていた。
このまま私が「うん」と言えば、また元の関係に戻れる。
ある種の共依存――歪んだ、でも安定していたあの場所へ。
私は泥の落ちた美羽の手を握りしめ、静かに首を横に振った。
「ううん。戻れないよ、美羽」
美羽の表情が凍りついた。
「どう、して⋯⋯? だって、好きなんでしょ? 私のこと⋯⋯」
「⋯⋯私ね、気づいたの」
私は美羽の目を見つめ返した。
そこには私の弱さも、狡さも、すべてを映す鏡があった。
「私は美羽のことが好きだった。⋯⋯でも、それは本当の『愛』じゃなかった」
雨音が激しくなる。
私は自分の胸に手を当て言葉を紡いだ。
「昔⋯⋯まだ体が弱くて泣き虫だった美羽を守ってあげた時⋯⋯『陽菜ちゃんすごい!』って頼られた時、すごく嬉しかった」
「⋯⋯うん、覚えてる。ちゃんと覚えてるよ」
「私にも価値があるんだって思えた。必要とされているんだって安心できた。⋯⋯だから私は美羽に尽くすことで自分の空っぽな心を埋めてたんだと思う」
それは認めるのが辛い真実だった。
私が美羽に依存していたのは、美羽という「守るべき存在」がいなければ、自分の存在意義を見出せなかったからだ。
「それは『愛』じゃなくて⋯⋯ただの『承認欲求』だったことに気づいたの」
「そ、そんなことない! 陽菜は私を愛してくれてた! 私も陽菜を愛してた!」
「ううん。⋯⋯だって私、玲奈会長といて初めて知ったの」
私は立ち上がり、傘の下で私を見守る玲奈会長の方を振り返った。
会長は雨に濡れる私を痛ましそうに、けれど誇らしげに見つめてくれていた。
何も言わず、ただそこにいてくれる。
私が何を選択しても、受け止める覚悟をしてくれている。
「『何もしなくても愛される喜び』を、玲奈会長が教えてくれたから」
お弁当を作らなくても機嫌を取らなくても役に立たなくても。
ただ私が私であるだけで「愛している」と言ってくれる人。
その絶対的な安心感が私を「道具」から「人間」へと変えてくれた。
私はもう一度、美羽に向き直った。
「だから私は玲奈会長のことが好き。⋯⋯もう美羽の『道具』には戻れない」
明確な拒絶――決定的な別れ。
美羽の目から光が消え、絶望の色が広がっていく。
口を開けてパクパクと何かを言おうとするが声にならない。
世界が終わったような顔。
「嫌だ⋯⋯嫌だ、陽菜⋯⋯捨てないで⋯⋯お願い、なんでもするから⋯⋯奴隷でもいいから⋯⋯独りにしないで⋯⋯ッ」
美羽が私の足にしがみつこうとする。
その姿を見て私の心は千切れそうに痛んだ。
見捨てるのは簡単で会長の言う通り、突き放して二度と関わらないのが正解なのかもしれない。
でも⋯⋯泥の中で泣きじゃくる幼馴染を、ただ見捨てることなんて私にはできなかった。私はその痛みと辛さをすごく知っているから。
それが私の弱さであり、玲奈会長が愛してくれた「陽菜らしさ」なのだとしたら――。
私は残酷で、そして優しい提案を口にした。
「でもね、美羽」
私は困ったように笑い、美羽の体を起こすように促した。
「美羽を放っておけないのも⋯⋯私の本音だから」
私に支えられ美羽が顔を上げる。
「恋人には、なれないけど」
「ひ、な⋯⋯?」
「『親友』としてなら⋯⋯もう一度、やり直せると思う」
私は右手を差し出した。
かつてのように「従者」としてではなく「対等な友人」として握手をするために。
「美羽さえ良ければ⋯⋯これからも友達として一緒にいてくれる?」
それは美羽にとっては降格人事に他ならない。「唯一無二の所有者」から「その他大勢の友達」への転落。
けれど今の美羽にとって、それは暗闇に垂らされた唯一の蜘蛛の糸だった。
美羽は呆然と私の手を見つめ、やがてボロボロと大粒の涙を流した。
「⋯⋯っ、う、うあぁぁぁ⋯⋯ッ!!」
美羽は私の手を握り返すどころか、勢いよく飛びついてきた。
泥だらけの体で私を強く、強く抱きしめる。
「陽菜ぁ⋯⋯! 陽菜ぁぁ⋯⋯ッ!!」
「よしよし⋯⋯辛かったね、美羽」
私は赤子のように泣く美羽の背中をポンポンと叩いた。
雨の中、私たちは抱き合った。
それは以前のような上下関係ではなく、一度壊れて歪な形で繋ぎ直された、新しい関係の始まりだった。
◇
「⋯⋯はぁ」
その光景を傘の下から見ていた玲奈は盛大に溜息をついた。
(甘い⋯⋯甘すぎるぞ、陽菜。そんな女、切り捨てればいいものを⋯⋯)
苦虫を百匹ほど噛み潰したような、渋い顔だった。
(だがしかし⋯⋯そんな君だからこそ、私が惚れたのもまた事実か)
玲奈の本音を言えば美羽など視界に入れるのも不快だ。
陽菜を傷つけ、道具扱いした罪は万死に値する。
社会的に抹殺して、二度と陽菜に近づけないようにしてやるつもりだった。
だが陽菜がそれを望まないのなら仕方がない。
陽菜の笑顔を守るのが、玲奈の最優先事項なのだから。
玲奈はゆっくりと二人に近づき、美羽を見下ろした。
「⋯⋯おい、いつまで抱きついている。離れろ、汚い」
「うっ、うぐ⋯⋯」
美羽が泣き腫らした顔で陽菜から離れる。
玲奈は冷徹な瞳で美羽を射抜いた。
「勘違いするなよ、愛川美羽」
「⋯⋯?」
「陽菜は許したようだが私は君を許していない。⋯⋯いや、一生許さない」
玲奈の声は低く、地獄の底から響くような威圧感を持っていた。
「陽菜の慈悲に感謝することだ。だが、もしまた陽菜を傷つけるような真似をしてみろ。その時は⋯⋯」
玲奈は美羽の耳元に顔を寄せ、誰にも聞こえない声で囁いた。
「⋯⋯陽菜の記憶から君の存在を完全に消去し、この街からも、社会からも抹殺してやる。肝に銘じておけ」
ゾクリ、と美羽の背筋に悪寒が走る。
本気だ。この人は本気でそれを実行する力と覚悟を持っている。
しかし――陽菜の温もりに触れ、命を拾った美羽の瞳には再び別の光が宿り始めていた。
恐怖よりも強い、執着の光。
一度は消えかけた情熱の炎がドス黒く、そして力強く燃え上がっていた。
「⋯⋯わかってるよ」
美羽は涙を拭うと玲奈を睨み返し、不敵に笑ってみせた。
「友達『から』で、いいよ」
「なんだと?」
「今は、友達でいてあげる。⋯⋯でも」
美羽は宣言した。
それは敗北宣言ではなく、新たな宣戦布告だった。
「会長こそ、気をつけてくださいね? 陽菜は流されやすいんです」
「⋯⋯」
「いつか絶対、私が陽菜を取り戻しますから。⋯⋯覚悟しておいてよね、泥棒猫」
玲奈の眉がピクリと動いた。
泥棒猫――この私に向かって。
「⋯⋯面白い。やれるものならやってみろ、負け犬」
バチバチと二人の視線が火花を散らす。
その真ん中で陽菜は「あはは⋯⋯」と困ったように笑うしかなかった。
いつの間にか雨は小降りになっていた。
厚い雲の切れ間から夕日が差し込んでくる。
雨上がりの空の下で真ん中に、優しすぎて少し抜けている陽菜。
その右手に独占欲の塊のような絶対王者の玲奈。
その左手に執着の権化のような元カノ(?)の美羽。
地獄のような、でもどこか賑やかで騒がしい、歪な三角関係の幕開けだった。
陽菜の平穏な日々は、どうやらまだまだ遠そうである。




