第15話:砂上の城のわがまま娘
翌朝の教室、私が足を踏み入れた瞬間、それまでざわめいていた空気がピタリと止んだ。
クラスメイトたちの視線が一瞬だけ私に向き、そして蜘蛛の子を散らすように逸らされていく。
「⋯⋯来たよ、嘘つき」
「昨日のあれ、聞いた? 録音データがあるって言われて逃げたやつ」
「私見た見た。小鳥遊さんのこともイジメてたらしいよ~」
「えっ、あんなに尽くしてくれてたのに小鳥遊さんカワイソー」
「コワ~、可愛い顔して裏ではヤバいことしてたんだ⋯⋯」
私に聞こえるぐらいのヒソヒソという囁き声が、まるで羽虫の羽音のように耳にまとわりつく。
私は背筋を伸ばし、努めて平静を装って自分の席へと向かった。
キュッ、キュッ、と上履きの音がやけに響く。
私の席の周りだけ、ぽっかりと空間が空いていた。
いつもなら「美羽、おはよー!」と駆け寄ってくる取り巻きたちは誰一人として目を合わせようとしない。
教科書を読んだり、スマホをいじったりして必死に「愛川美羽とは関わりありません」というアピールをしている。
いわゆるドーナツ化現象だ。
(⋯⋯なによ、これ)
私は唇を噛み締めながら、カバンを机に置いた。
昨日の今日で、これ?
あんたたち、昨日は「美羽はいい子だね」「私たちがついてるよ」って言ってたじゃない。
たった一度、言い負かされて逃げただけで、この手のひら返し。
薄っぺらい。どいつもこいつも私の価値をわかってない。
その時、教室の扉が開いた。
部屋の空気がふわりと動く。
「あ、小鳥遊さん。おはよー」
「おはよっ、陽菜ちゃん」
クラスの女子たちが明るい声で挨拶をする。
その中心にいたのは陽菜だった。
ちょっと前までのような、私を警戒して隠れて俯いている陽菜ではない。
少し困ったように、でも柔らかく微笑んで「おはよう」と返している。
陽菜が私の席の横を通る。
私の心臓がドクリと跳ねた。
(こっちを見てよ。陽菜)
(私がこんなに孤立してるの、わかるでしょ? 可哀想だと思わないの?)
(いつもみたいに『美羽、どうしたの?』って駆け寄ってきなさいよ!)
私は視線で訴えかけた。
かつて私が不機嫌な顔をすれば、陽菜はすぐに飛んできた。
私の孤独を埋めるのは、いつだって陽菜の役目だったから。
けれど――陽菜は私を見なかった。まるでそこに誰もいないかのように。
あるいは道端の石ころでも見るかのように、視線を水平に保ったまま、私の横を通り過ぎていった。
フワリと甘い紅茶のような香りが鼻をかすめる。
それは陽菜の家の洗剤の匂いじゃない。
あの生徒会長が纏っているのと同じ、高級で、気品のある香り。
――ズキン。胸の奥が痛んだ。
無視されたことへの怒りよりも、その匂いの変化が、私と陽菜の間に横たわる決定的な断絶を突きつけてきた。
陽菜は自分の席に着き、何事もなかったかのように教科書を開く。
以前なら私たちは一緒に登校して、私の席の周りで予鈴が鳴るまでお喋りしていたのに。
今ではもう、目が合うことすらない。
陽菜の背中が、ひどく遠く感じられた。
◇
午前中の授業は地獄のような長さだった。
休み時間のたびに私はスマホをいじって「忙しいフリ」をした。
誰も話しかけてこない時間をやり過ごすための、惨めな防衛策だ。
そして昼休み。
それまでは私の周りに人が集まり「今日どこで食べるー?」なんて華やかなランチタイムが繰り広げられていた時間。
今は静寂だけが私の周りを支配している。
みんな、そそくさとグループを作って教室を出て行くか、机を寄せて固まっている。
私の席だけが孤島のように取り残されていた。
陽菜はいない。
チャイムと同時に立ち上がって、手にはあの藍色の風呂敷に包まれたお弁当を持って、迷いのない足取りで一目散に教室を出て行った。
行き先なんて聞かなくてもわかる。あの女のところだ。
「⋯⋯ッ」
私はスマホの画面を強くタップした。
無意識のうちに開いていたのは、またしても生徒会の公式インスタグラムだ。
新しいストーリーが更新されている。
『中庭ランチ。今日は特製サンドイッチです♪』
写真にはバスケットに入った色とりどりのサンドイッチと、それを手に持って笑い合う二人の影。
顔は見えないけれど陽菜の手と、会長の手だということは一瞬でわかった。
「イライラする⋯⋯」
私はスマホを伏せた。
お腹が空いた⋯⋯陽菜がお弁当を作ってこなくなってから、まともな食事をしていない気がする。
昨日の夜も、イライラしてスナック菓子しか食べていない。
「⋯⋯パン、買いに行こ」
教室に居続けるのは辛い、私はのろのろと立ち上がって廊下に出る。
――ドンッ。誰かの肩とぶつかった。
「あ、ごめ⋯⋯」
謝ろうとして顔を上げると、そこには見知った顔があった。
佐藤くんだ。
新しい彼女なのか、派手めな女子と腕を組んで歩いている。
「⋯⋯あ」
私が固まっていると佐藤くんは私を見て、あからさまに嫌な顔をした。
「うわ」
その一言が、鋭利な刃物のように刺さる。
「出たよ、ストーカー女」
「え⋯⋯?」
「まだ小鳥遊のこと追い回してんの? 教室でハブられてるってのに懲りねーな」
佐藤くんの声は大きかった。
周囲の生徒たちがクスクスと笑い声を上げる。
隣にいた女子が「え、この人が例の? こわーい」と冷やかすように言った。
「ち、違う⋯⋯!」
「何が違うんだよ。お前、もう終わってんだよ。関わってくんな」
佐藤くんは汚いものを見るように手を払い、女子の肩を抱いて去っていった。
残されたのは、嘲笑の渦の中にいる私だけ。
顔が熱い。
恥ずかしい。
みっともない。
私は逃げるように走り出した。
購買部に行く気力なんて、もう残っていなかった。
◇
たどり着いたのは校舎の端にある、人気のない階段の踊り場だった。
ここは普段、誰も通らない場所だ。
私は手すりに寄りかかり、荒くなった呼吸を整えた。
窓の外には春の日差しが降り注ぐ中庭が広がっている。
芝生の上、大きな桜の木の下。
そこには、まるで絵画のように美しい光景があった。
レジャーシートを広げ、向かい合って座る二人の姿。
氷室玲奈と小鳥遊陽菜。
距離が、近い。
陽菜がバスケットからサンドイッチを取り出し、玲奈に手渡している。
玲奈がそれを一口食べると何かを言ったようで陽菜が嬉しそうに笑った。
そして――陽菜はハンカチを取り出すと、自然な仕草で玲奈の口元を拭ってあげたのだ。
「⋯⋯あ」
その光景を見た瞬間、私の脳裏に古い記憶がフラッシュバックした。
――小学生の頃の運動会。
なにかの競技で転んで最下位になり落ち込んでいた。
そんな私に陽菜はお弁当の唐揚げを差し出して慰めてくれた。
『美羽ちゃん、あーん』
『んぐ⋯⋯おいしー! 陽菜ちゃんの唐揚げ、世界一!』
『口の横、ついてるよ。じっとして』
『えへへ、ありがと陽菜ちゃん! 大好き!』
私は陽菜に抱きついて、陽菜は「もう、甘えん坊なんだから」と照れくさそうに笑っていた。
風邪を引いた時は陽菜が家に来て、りんごを剥いてくれた。
宿題がわからない時は、陽菜がノートを貸してくれた。
喉が渇けばジュースが出てきて、寒ければ上着を貸してくれた。
陽菜は私の手となり、足となり、心となってくれていた。
私は陽菜という揺り籠の中で、守られていただけの赤ん坊だったんだ。
「⋯⋯なによ、あれ」
窓ガラスに爪を立てる。
「そこは、私の場所でしょ」
陽菜に口を拭いてもらうのも。
陽菜の作ったご飯を食べるのも。
陽菜に向けられる、あの無償の愛のこもった笑顔を独り占めするのも。
全部、全部、私の特権だったはずだ。
私が生まれながらにして持っていた、当たり前の権利だったはずだ。
「なんで⋯⋯なんでこうなったのよ」
怒りが湧いてくるはずだった。
「奪われた」という憎しみが燃え上がるはずだった。
けれど、その感情よりも先にもっと根源的で巨大な感覚が私を襲った。
――喪失感。
お腹が空いた。
喉が渇いた。
寒い。
寂しい。
陽菜がいない世界はこんなにも色がなくて、寒くて、味がしないのか。
コンビニのパンはパサパサして美味しくない。
自分で淹れたお茶は渋いだけ。
誰も私の機嫌を取ってくれない時間は、永遠のように長く感じる。
私は気づいてしまった。
陽菜が私に依存していたんじゃない。
私の方が陽菜がいなければ生きていけない身体にされていたんだ。
「⋯⋯やだ」
ポロリと涙がこぼれた。
それは演技の涙ではない。本物の、子供のような恐怖の涙だ。
「やだ、やだ⋯⋯返してよ」
私は女王なんかじゃなかった。
陽菜というパートナーがいて初めて輝ける、ただの着飾った人形だった。
陽菜がいなくなった私は、ただの性格の悪い、何もできない無力な子供だ。
窓の向こうで陽菜が玲奈の肩に頭を預けた。
玲奈が愛おしそうに陽菜の髪を撫でている。
その光景が私の心をえぐり取る。
(陽菜は私の心臓だったんだ)
ドクン、ドクンと脈打つ鼓動。
それが今、私の体から引きずり出されて他人の手に渡ってしまった。
(⋯⋯心臓がなきゃ、生きていけるわけない)
息が苦しい。
立っていられない。
このままじゃ、私は干からびて死んでしまう。
プライド? 世間体? そんなもの、もうどうでもいい。
「取り戻さなきゃ」
私は涙を拭った。
化粧が崩れて、目の周りが黒くなっているかもしれない。
髪も乱れているかもしれない。
でも、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「謝らなきゃ⋯⋯土下座でも何でもして、陽菜に許してもらわなきゃ」
陽菜は優しいから。
私が泣いて、必死に謝れば、きっと許してくれる。
「もう、しょうがないなぁ美羽は」って、また笑って戻ってきてくれるはずだ。
だって私たちは運命の幼馴染なんだから。
あの会長は、ただの一時的な気の迷い。
私が本気を出せば、陽菜は必ず私のところへ帰ってくる。
ゴロゴロ⋯⋯。
遠くで雷の音が聞こえた。
空模様が怪しくなってきている。まるで私の心を映すように黒い雲が空を覆い始めていた。
「待ってて、陽菜」
私は階段を駆け下りた。
靴音が虚しく響く。
なりふり構わず、必死な形相で。
私は、私を生かすための「心臓」を取り戻すために。




