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第12話:教室の壁と差し出された一冊

 喧騒に包まれる2時間目おわりの休み時間――私は自分の席から、教室の後方にある扉へと視線を送った。


 陽菜が小走りでトイレに向かっていくのが見えた。


「⋯⋯チャンス」


 口元を歪め、スッと立ち上がる。周囲のクラスメイトたちは談笑に夢中で誰もこちらを見ていない。


 私は迷うことなく陽菜の席へと近づき、机の中を覗き込んだ。


 あった⋯⋯次の3時間目、数学の教科書。

 私はそれを抜き取ると素早く自分のカーディガンの下に隠した。


 そして教室の隅にある掃除用具入れの裏側へ滑り込ませる。埃っぽい隙間に教科書を押し込み、私は何食わぬ顔で自分の席へと戻った。


(これでよし)


 私は頬杖をつき、ニヤニヤと笑いを噛み殺した。

 これは、ちょっとした「愛のムチ」だ。


 最近の陽菜は生意気すぎる。お弁当を作ってこなかったり、屋上への呼びつけをすっぽかしたり。


 反抗期が長引いているなら、私が助け舟を出してあげようというのだ。


 次の数学担当の石田先生は生活指導も兼任している鬼教師で有名、教科書忘れなんて見つかったら、立たされるだけじゃ済まない。内申点にも響くし、あのネチネチとした説教は精神を削り取ってくる。


 真面目な陽菜にとって、それは死ぬほど怖いことのはずだ。

 陽菜はきっと青ざめて、パニックになる。


 そして泣きそうな顔で周りを見渡して⋯⋯私と目が合うのだ。

 私は教科書を机の真ん中に広げて、優しく微笑んであげるつもりだ。


 『こっちおいで。見せてあげるから』って。


 私の隣の席は空いているから陽菜は私の隣に戻ってこざるを得ない。

 机をくっつけて肩を並べて授業を受ける。


 『ありがとう美羽、やっぱり美羽だけだね』

 そう言って感謝する陽菜の姿が容易に想像できた。


(ほら私は優しいから。仲直りのチャンスをあげるよ陽菜)


 これはイジメじゃない。

 迷子のペットを温かいわたしのとなりに誘導してあげるための、教育的指導なのだから。


 ◇


 予鈴が鳴り、陽菜が教室に戻ってきた。

 私は横目でその様子を観察する。

 陽菜は席に着き、次の授業の準備を始め――そして手が止まった。


「⋯⋯あれ?」


 机の中をゴソゴソと探る音の後にカバンを引き寄せ、中身を確認する仕草。

 背中からでも、陽菜の焦りっぷりが伝わってくる。


(ふふ、気づいた気づいた)


 キーンコーン、カーンコーン⋯⋯。

 無慈悲な本鈴が鳴り響く。


 同時にガラッと教室のドアが開き、厳つい顔をした石田先生が入ってきた。


「席に着け。静かにしろ、チャイムと同時に黙想だ」


 教室が一瞬で静まり返る中で陽菜の肩がビクリと震えた。

 教科書はまだ見つかっていない。当然だ、私が隠したんだから。


 陽菜はおろおろと視線を彷徨わせる。

 そして、吸い寄せられるように――私の方を見た。


 目が合う。


 私は頬杖をついたまま、口角を上げてニッコリと微笑んだ。

 そして自分の机の上に広げた数学の教科書を、トントンと人差し指で叩いてみせた。


(ほら、おいで。ここにあるよ)


(頭を下げてお願いすれば、助けてあげる)


 そのサインは陽菜に確実に伝わったはずだ。

 陽菜の顔色が変わる。


 安堵? 感謝?

 ⋯⋯いいや、違う。


 陽菜の瞳に宿ったのは恐怖と――諦めのような色だった。



(⋯⋯あ、美羽が持ってるんだ)


 そのとき陽菜は一瞬で悟った。

 私が忘れたんじゃない。美羽が隠したんだ、と。


 美羽のあの笑顔は「助けてあげる」という善意じゃない。「私がいないと困るでしょ?」という脅迫だ。


 ここで私が美羽の席に行けば私はまた、あの子の支配下に戻ることになる。


 「教科書を返してあげる代わり」として、また何かを要求されるかもしれない。お弁当作りを再開しろ、とか。屋上の件を謝れ、とか。


「⋯⋯っ」


 陽菜はギュッと唇を噛んだ。

 行きたくない。

 怒られるのは怖い。先生に怒鳴られるのは嫌だ。

 でも美羽に屈するのはもっと嫌だ。


「教科書、42ページを開け」


 先生の太い声が響く――周囲の生徒たちがパラパラとページをめくる音が、陽菜を追い詰める。


 どうしよう。どうしよう。


 その時、ふとポケットの中のスマートフォンの重みを感じた。

 そして玲奈会長の言葉が蘇る。


『困ったら私を呼べ。どんな些細なことでも構わない』


『君を惑わすノイズはいらない』


『今の君の主は私だ』


 ⋯⋯呼んで、いいのかな。


 こんな授業中のトラブルなんて来てくれるわけがない。迷惑だ。

 でも――。


(美羽に頼りたくない⋯⋯!)


 陽菜は意を決して机の下でそっとスマホを取り出した。

 先生が黒板に板書を始めている、今しかない。


 震える指でラインを開く。

 一番上にピン留めされた「氷室玲奈」の名前。


『ごめんなさい、数学の教科書がないの』


 送信ボタンを押した瞬間、心臓が口から飛び出しそうだった。

 既読はつかない。当然だ、会長だって授業中のはずだから。

 私はスマホをしまい、俯いて処刑を待つ罪人のように身を縮めた。


「――おい、小鳥遊、聞こえないのか」


 気がつくと名前を呼ばれていた。

 ビクッとして顔を上げると石田先生が、チョークを持ったまま私を睨んでいた。


「教科書はどうした。開いてないようだが」


「あ、あの⋯⋯それは⋯⋯」


「忘れたのか?」


 教室中の視線が私に集まる。

 美羽の視線も感じる。


「ほら、早くこっちに来て謝りなよ」という圧を感じる。

 私は膝の上でスカートを握りしめた。


「す、すみませ⋯⋯」


 私が謝ろうとした、その瞬間だった。


 ガララッ――!!!


 教室のドアが、勢いよく開け放たれた。

 全員が驚いて入口を見る。

 そこには一人の女子生徒が立っていた。


 整った呼吸。乱れのない制服。

 そして教室内を圧倒する冷ややかで美しいオーラ。


「⋯⋯失礼します」


 氷室玲奈会長だった。


「ひ、氷室?」


 石田先生も驚いて目を丸くしている。


「なんだ、お前も授業中じゃないのか? 何の用だ」


 玲奈会長は教室に入ると悠然と教壇の前まで歩み寄った。


 息一つ切らしていないけど、その額にはうっすらと汗が滲んでいるのを、私だけが見逃さなかった。


 メッセージを見た瞬間に走ってきてくれたんだ。私のところここまで。


「先生、授業中に申し訳ありません。少しよろしいでしょうか」


「⋯⋯あ、ああ、どうした」


「実は生徒会の資料作成において手違いがありまして」


 会長は涼しい顔で、スラスラと嘘を紡ぎ始めた。


「昨日、2年2組の小鳥遊陽菜の教材を、私が誤って回収してしまっていたのです。先ほどカバンの中に入っていることに気づき、次の授業に差し支えると思い、急いで届けに参りました」


「は? 回収?」


「はい。彼女には生徒会の仕事を手伝ってもらっていますので。⋯⋯こちらの不手際で、小鳥遊が叱責を受けるようなことがあっては申し訳が立ちませんから」


 会長は丁寧にお辞儀をした。

 その態度は完璧でつけ入る隙がない。


 石田先生も「氷室が言うならそうなのだろう」という顔で毒気を抜かれている。普段から成績優秀、品行方正な会長への信頼は絶大だ。


「⋯⋯そうか。氷室のミスなら仕方があるまい」


「寛大なご配慮、感謝いたします」


 会長は顔を上げると真っ直ぐに私の席へと歩いてきた。

 クラスメイトたちの視線をいっぺんに集めた会長が近づいてくる。

 そのサファイア色の瞳が私だけを映していた。


 会長は私の机の前に立つと手に持っていた教科書をそっと置いた。


「すまなかったな、陽菜。私が間違えて持って行ってしまったようだ」


 それは会長自身の教科書だった。

 表紙の名前の欄には可愛らしい付箋が貼られ、その上に『小鳥遊』と丁寧な字で書かれている。


「あ⋯⋯」


「これを使ってくれ」


 会長は私の目を見て、誰にも聞こえないほどの小声で囁いた。


「⋯⋯よく連絡した。偉いぞ」


 その声の優しさに涙が出そうになった。


 会長は私の頭に手を伸ばし――みんなが見ていることに気づいてか、ポン、と軽く触れるだけに留めた。


「では、失礼しました」


 会長は踵を返し、風のように教室を去っていく、残された教室には嵐が過ぎ去った後のような静寂と会長の良い匂いだけが漂っていた。


「⋯⋯小鳥遊の教科書があるなら問題ない。授業を続けるぞ」


「は、はい!」


 私は慌てて教科書を開いた。

 そこには会長の几帳面な字で数式の解法が書き込まれていた。


 そしてページの右端、その余白の部分に鉛筆で薄く、小さなメッセージが書かれていた。


『困ったらまた私を呼べ。君の涙を見るくらいなら、校則の一つや二つ、喜んで破ろう』


 その文字を見た瞬間、私の視界が一気に潤んだ。


 美羽の悪意が作った教室の壁を、この人はルール度外視で飛び越えてきてくれた。


 私は教科書の端をぎゅっと握りしめた。

 この一冊はどんな宝石よりも重く、温かかった。


 ◇


 一方で――教室の中ほどにある席で、愛川美羽は口をポカンと開けたまま固まっていた。


「はぁ⋯⋯?」


 意味がわからなかった。

 なんで? なんで会長が来るの? 


 授業中だよ? ここに来るには廊下をダッシュしないと間に合わないはずだ。


 あのお堅い会長が授業を抜けて廊下を走ってまで、教科書を一冊届けに来た? いや、そもそもなんで分かった?


(⋯⋯まさか、陽菜が連絡したっていうの?)


 彼女は陽菜の背中を睨みつけた。


 ありえない。


 陽菜は私に助けを求めてくるはずだった。それなのに私を無視して、わざわざ来るかも分からない会長を呼んだ?


 私よりも会長を選んだ?


「⋯⋯頭おかしいんじゃないの」


 美羽は小さく吐き捨てた。


 完璧だったシナリオが音を立てて崩れ去っていく。


 陽菜が困って、泣きそうな顔で私の机に来て、私が優しく教科書を見せてあげて「やっぱり美羽ちゃん優しいね」って仲直りするはずだったのに。


 会長の残り香に包まれて安堵した背中を見せている陽菜。

 それがどうしようもなく腹立たしい。


「なんで私が助けるチャンスを奪うわけ? せっかく用意してあげたのに」


 美羽は掃除用具入れの裏に隠した教科書のことを思い出した。

 

 あれ、どうしよう。後でこっそり戻しておかないと、私が隠したってバレるかもしれない。


 いや、それよりも。


(会長が間違えて持っていったことになっちゃったじゃん!)


 これでは陽菜に「私が仲直りするチャンスをあげた」というメッセージすら伝わらない。


 美羽の悪意は玲奈の圧倒的な「愛」と「権力」の前に、ただの徒労へと変えられてしまったのだ。


 誰にも気づかれないまま、美羽の企みは不発に終わった。


 彼女は黒板の文字を睨みつけながら、シャーペンの芯をボキボキと折り続けた。


 その苛立ちが自分自身の首を絞めていることにも気づかずに。

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