第11話:空っぽの弁当箱
キーンコーン、カーンコーン⋯⋯。
4時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、2年2組の教室は一気に喧騒に包まれた。
教科書を閉じる音、椅子を引く音「腹減ったー」という男子の声、そんな日常の風景の中で私、小鳥遊陽菜は自分の席で小さく身を硬くしていた。
今日は久しぶりに自分の教室に登校している。
朝、玲奈会長が「無理はしなくていい」と言ってくれたけれど私は首を横に振った。
会長と契約を交わしたのだ。私が逃げ続けていては「魔除け」の役目は果たせない。それにあの人がくれた「安心」というお守りが私の背中を押してくれていたから。
机の上には朝、会長から渡されたお弁当包みが置かれている。
藍色のシックな風呂敷に包まれたそれはずっしりと重い。
『うちの料理長が張り切ってしまってな。少し量が多いかもしれないが、残しても構わないぞ』
そう言って微笑んだ会長の顔を思い出すと緊張で冷えた指先が少しだけ温まる気がした。
その温もりをかき消すように聞き慣れた足音が近づいてくる。
パタパタという軽快で遠慮のない足音。
「陽菜ー!」
背後から明るい声がかかった。
愛川美羽だ。
私はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
そこにはいつも通りの――いや、いつも以上に「親友」の仮面を被った美羽が立っていた。
昨日の屋上すっぽかし事件など、まるでなかったかのような笑顔だ。
「ちょっと逃げないでよー。昨日は大変だったねぇ。生徒会の仕事、終わるの遅かったんでしょ?」
美羽は私の机の縁に手を突き覗き込んでくる。
その目には一点の曇りもない。「私が許してあげたんだから、感謝しなさいよ」という傲慢な光が宿っている。
(⋯⋯そっか。美羽の中では私が『行かなかった』んじゃなくて『行けなかった』ことになってるんだ)
ラインの返信がなかったことも、彼女の都合のいい脳内変換で処理されているのだろう。
「返信できないくらいこき使われていた」と。その誤解は今の私にとってはありがたかった。正面から衝突せずに済むからだ。
美羽はお腹をさすりながら、甘ったるい声を出した。
「もー、私お腹ペコペコ! 昨日の分までいっぱい喋りたいことあるし、早くお昼にしよっ?」
彼女の視線が私の机の上のお弁当包みに吸い寄せられる。
「あ、今日はお弁当あるんだ! よかった〜。購買混んでるから嫌だったんだよね」
美羽は当然のように手を伸ばし、私の机の上のスペースを空けようとする。そして不思議そうに首をかしげた。
「⋯⋯あれ? これ陽菜の分だよね? 私の分は?」
美羽はキョロキョロと私のカバンや机の中を覗き込もうとする。
ない。あるわけがない。
私の手元にあるのは玲奈会長が持たせてくれた、私のためだけのお弁当ひとつだけだ。
「⋯⋯ないよ」
私の口から出た声は、蚊の鳴くように小さかった。
「え? ごめん聞こえない。なに?」
「⋯⋯ないの。美羽の分は、ない」
私は膝の上で拳を握りしめ、もう一度はっきりと言った。
その瞬間、教室の空気が少しだけ止まった気がした。
美羽の笑顔が凍りつき、徐々に不機嫌な色へと変わっていく。
「は? ないって何? 作り忘れ?」
「ううん」
「じゃあ何? 材料なかったとか? それならそうと朝言ってよ、パン買っておいたのに」
「違う」
私は顔を上げて美羽の目を真っ直ぐに見つめた。
心臓が早鐘を打っている。怖い。すごく怖い。
でも会長が言ってくれた言葉が私を支えていた。
『君の価値は、誰かに奉仕することで決まるものじゃない』
「もう、作らないって決めたの」
私の言葉に美羽はポカンと口を開けた。
意味が理解できない、という顔だ。
数秒の沈黙の後、彼女の顔が真っ赤に染まった。怒りだ。
「はあ!? なんで!?」
美羽の甲高い声が教室に響き渡り、クラスメイトたちが一斉にこちらを見た。
「私お腹空いてるんだけど! それに今日、佐藤くんにも『陽菜の弁当あるから』って言っちゃったんだよ!? 彼氏に恥かかせる気!?」
彼氏――佐藤くん。
その名前が出た瞬間、私の中で何かが冷めた。
ああ、そうなんだ。
美羽は私の作ったお弁当を自分だけじゃなく、あの彼氏にも食べさせるつもりだったんだ。
私の労働力もお金も時間も。すべて美羽たちの「恋のスパイス」として消費されるだけのものだったんだ。
「⋯⋯ねぇ陽菜。私への当てつけで、わざとやってるわけ?」
美羽が私の机をドン、と叩いた。
「性格悪くない? 昨日来なかったこと、私が許してあげたのに。なんでそんな意地悪すんの?」
「いじわる⋯⋯?」
「そうでしょ! 私が困るってわかってて作らなかったんでしょ!?」
違う。
私はただ、もうあなたの「便利屋」をやりたくないだけなのに。
どうして私が悪者にされなきゃいけないの?
言い返したいのに喉が詰まって言葉が出てこない。
周囲の視線が痛い。
「小鳥遊さん、ひどくない?」「美羽ちゃん可哀想」という空気になりかけた、その時だった。
ガラッ――!!
教室のドアが乱暴に、けれど優雅に開け放たれた。
「⋯⋯騒がしいな」
凛とした、よく通る声に一瞬で教室の空気が凍りついた。
そこに立っていたのは氷室玲奈会長だった。
彼女は教室に入ってくるだけで場の支配者となった。
美しい黒髪をなびかせコツ、コツと足音を響かせて歩いてくる。
その視線の先には私しかいない。
私の目の前で仁王立ちしていた美羽のことなど、まるで道端の小石か、透明人間であるかのように無視して通り過ぎた。
「か、会長⋯⋯?」
「迎えに来たぞ、陽菜」
会長は私の机の前で止まると、藍色の包みを指差してふわりと微笑んだ。
「今日は中庭で一緒に食べよう。天気がいいからな。それに、うちのシェフが張り切って作りすぎたらしいんだ。手伝ってくれるか?」
それは私を救い出すための最高の口実だった。
私は張り詰めていた緊張が解け、大きく息を吐き出した。
「⋯⋯はい! 喜んで!」
私はお弁当を抱えて立ち上がった。
会長の手が差し出され、私はその手を取ろうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
無視されたことに気づいた美羽が、金切り声を上げて割り込んできた。
「会長! まだ話終わってないんですけど! 陽菜、私の分のお弁当どうすんの!?」
美羽は涙目になって私を睨みつけている。
空腹とプライドを傷つけられた怒りで状況が見えていないようだった。
会長が、ゆっくりと美羽の方へ首を巡らせた。
その瞳は私に向けるものとは真逆の、絶対零度の冷たさを宿していた。
「⋯⋯どうする、とは?」
「だ、だから! 陽菜が作ってこなかったせいで、私のお昼ごはんがないんです! 責任取ってよ!」
「責任?」
会長は鼻で笑った。
それは明確な侮蔑だった。
「君は高校生にもなって、自分の食事の用意すら他人に依存しなければ生きていけないのか?」
「えっ⋯⋯い、いや、いつも陽菜が⋯⋯」
「『いつも』がどうした。陽菜は君の母親でもなければ、専属シェフでもない」
会長の言葉が、グサグサと美羽に突き刺さる。
クラス中が静まり返り、誰もが会長の言葉に聞き入っていた。
「自分で買いに行けばいいだろう。購買部もコンビニもある。⋯⋯それとも君は、一人でパンも買えない赤ちゃんか?」
ぷっ、と誰かが吹き出す音がした。
それを皮切りに、クスクスという失笑が教室のあちこちから漏れ始めた。
「あ、赤ちゃんって⋯⋯!」
美羽の顔が怒りで真っ赤になる。
学園のアイドル気取りだった彼女にとって、これ以上の屈辱はないだろう。
会長はもう興味を失ったように視線を切り、私の肩を抱いた。
「行くぞ、陽菜。お腹が空いただろう」
「あ、はい⋯⋯」
私は一歩踏み出し、そして立ち止まった。
まだ呆然としている美羽に向かって私は初めて、自分の意志で言葉を紡いだ。
「⋯⋯美羽」
「⋯⋯!」
「もう、期待しないで。⋯⋯自分のごはんは、自分でどうにかして」
それだけ言うと私は逃げるように、けれど確かな足取りで会長の後ろをついていった。
教室を出る瞬間、会長が優しく囁いてくれた。
「よく言った。偉いぞ」
その一言だけで、私は泣きそうになるほど救われた気がした。
◇
取り残された教室で愛川美羽は震えていた。
屈辱。怒り。そして空腹。
「⋯⋯なによ。なんなのよ!」
美羽は机を蹴り飛ばしたい衝動を必死に抑えた。
周囲の視線が痛い。「美羽ちゃん、実は相当ワガママなんじゃ⋯⋯」というヒソヒソ話が聞こえてくる。
「おい、美羽ー」
そこへ、最悪のタイミングで佐藤がやってきた。空気の読めない男だ。
「弁当、マジでねーの? うっわ、ハズレだわー」
「⋯⋯佐藤くん」
「俺、腹減って死にそうだから購買行ってくるわ。じゃーな」
「え、ちょっ⋯⋯私も⋯⋯!」
「悪い、お前走るの遅いし。売り切れんの嫌だから先行くわ」
佐藤は冷たく言い放ち、さっさと教室を出て行ってしまった。
美羽はその場に立ち尽くす。
彼氏にすら見捨てられた。
グゥ〜⋯⋯。
お腹の虫が、虚しく鳴った。
「⋯⋯最悪」
美羽は財布を鷲掴みにすると廊下へと飛び出した。
購買部はもう戦場だろう。
汗臭い男子生徒たちの波に揉まれ、長い行列に並び、残り物の硬いパンを買う。
今までなら陽菜が笑顔で差し出してくれた彩り豊かなお弁当を、優雅に食べていた時間に。
廊下を走りながら美羽の心の中にどす黒い感情が渦巻いていく。
「陽菜のくせに⋯⋯陽菜のくせに⋯⋯!」
優しくしてやろうと思ったのに。
許してやろうと思ったのに。
あんな風に、皆の前で私に恥をかかせて。
「⋯⋯絶対、許さない」
美羽の目からポロポロと悔し涙が溢れた。
それは反省の涙ではない。
思い通りにならない「道具」への、歪んだ執着の涙だった。
購買部の人だかりの後ろで美羽は一人、惨めに立ち尽くすことになった。
手には千円札が一枚。
空っぽになったのはお腹だけではなかった。彼女のプライドも、そして陽菜との関係も、もう修復不可能なほど空っぽになっていたのだ。




