第10話:色彩のない世界で、君だけが
時計の針の音だけが静寂の中に響いていた。
生徒会室のソファの上、私の視線の先には小さな身体を丸めて眠る小鳥遊陽菜の姿があった。
緊張の糸が切れたのだろう。温かい紅茶と甘いタルトでお腹を満たした彼女は、まるで赤子のような寝息を立てていた。
私は万年筆を置き、音を立てないように彼女のそばへ歩み寄った。
無防備な寝顔――少し開いた唇に、長い睫毛が頬に影を落としている。
彼女は知らないだろう。私が今、どんな気持ちで見つめているのかを。
「⋯⋯無防備すぎる。私が狼なら、とっくに食べられているぞ陽菜」
苦笑交じりに呟き、私はそっと彼女の頬に触れた。
指先から伝わる体温が愛おしい。
この温もりだけが私の凍りついた世界を溶かしてくれる唯一の熱源のようだ。
ふと、記憶の蓋が開く。
あれはちょうど一年前――世界がまだ、色彩を失った灰色だった頃の記憶。
◇
私、氷室玲奈の人生は生まれた時から「完璧」であることだけを義務付けられていた。
氷室家の跡取りとして成績は常にトップ、品行方正、容姿端麗。周囲が期待する「氷室玲奈」という偶像を演じ続けること。それが私の生きる意味だった。
息が詰まるような毎日の中で唯一の逃げ場が「絵を描くこと」だった。
キャンバスに向かっている時だけは、私は「氷室家」という呪縛から解放された。
言葉にできない孤独も押し殺した叫びも、筆に乗せて色に変えることができた。それだけが生きがいだった。
だが、その些細な救いさえもある日唐突に奪われた。
『⋯⋯なんだこの絵は、気味の悪い』
父の書斎に呼び出された時、床には私が隠して描いていた絵が転がっていた。
深く、暗い青色を塗り重ねた、海の底のような抽象画。
情念のこもった私の心をそのまま映し出した一枚だった。
『勉強の合間の気晴らし程度なら黙認していたが⋯⋯これほど没頭しているとはな』
父の声には怒りすらこもっていなかった。あるのは絶対的な「冷徹」と「侮蔑」。
『氷室の当主となる者に、このような感傷的な趣味は不要だ。時間の無駄でしかない』
ビリッ、という乾いた音が部屋に響いた。
父の手によって、キャンバスが無造作に引き裂かれた音だった。
それは私の心臓が裂ける音と重なった。
『捨てておけ。家にあるだけで不愉快だ』
父は細切れになったキャンバスをゴミのように放り投げ、興味を失ったように背を向けた。
私は泣かなかった。抗議もしなかった。
ただ「はい」と短く答え、散らばった自分の分身を拾い集めた。
使用人に任せれば燃えるゴミとして焼却炉行きになるだろう。
せめて、自分の手で葬りたかった。
これは私の魂の残骸なのだから。
◇
その日の放課後、私は制服のまま駅の裏手にあるゴミ集積所の前に立っていた。
空は低く垂れ込めていて今にも雨が降り出しそうな曇天だった。
コンクリートの壁、アスファルトの道、錆びたフェンス⋯⋯ 目に映るものすべてが色あせて灰色に見えた。
私は鞄から引き裂かれたキャンバスの破片たちを取り出した。
青い絵の具が乗ったそれは、もはや何を描いたものかも分からないガラクタだ。
「⋯⋯さようなら」
私はそれを溢れかけたゴミ箱の上にそっと置いた。
これで終わりだ。私という人間の「個」は死んだ。これからはただの、父の望む人形として生きていくだけ。
そうして立ち去ろうとした、その時――。
「あー、もう! ここ通ったほうが近道だよね!」
パタパタという慌ただしい足音が聞こえてきた。
角を曲がって現れたのは小柄な女子生徒だった。
制服のリボンが少し曲がっていて額には汗が滲んでいる。
彼女は私の存在になど気づいていないようで、独り言を呟きながら走ってきた。
「急がないと⋯⋯限定スイーツ売り切れちゃう。美羽に怒られるぅ⋯⋯」
誰かの使い走りだろうか。
滑稽だ、と思った。自分のためですらなく他人のために必死になって走るなんて。
関わりたくない。私は気配を消すように電柱の陰に身を引いた。
彼女はゴミ集積所の前を駆け抜けようとして――不意に足を止めた。
視線がゴミ箱の上に釘付けになっている。
私が捨てたばかりの、あの絵の残骸に。
「⋯⋯え」
彼女が近寄っていく。
やめろ、と思った。見ないでくれ。その汚いゴミは私の惨めで醜い心の塊であり敗北の証だ。
どうせ彼女も「何これゴミじゃん」と笑うのだろう。それとも見なかったことにして通り過ぎるのか。
私の予想は彼女の行動によって裏切られた。
彼女は汚れることも厭わず、そのキャンバスの切れ端を、そっと両手で拾い上げたのだ。
「⋯⋯ゴミだぞ」
思わず声が出ていた。私は電柱の陰で身を隠したまま冷たい声で告げた。
「汚い。触るな」
彼女が驚いて振り返る。わずかに身を乗り出した方の片目が彼女の視線を捉えた――怯えるかと思った。あるいは不審者を見るような目を向けるかと思った。
でも彼女は⋯⋯その破れた絵を胸に抱きしめたまま、困ったように、けれど優しく微笑んだのだ。
「ゴミじゃ、ないです」
彼女の口から零れた言葉は、澄んだ鈴の音のように響いた。
「だって、すごく伝わってくる色だから」
「⋯⋯は?」
「見てください、この深い青色。⋯⋯すごく悲しくて、寂しくて、でも透き通るみたいに美しい」
彼女は愛おしそうに、絵の具の凹凸を指でなぞった。
「描いた人はきっと、すごく心が美しい人だと思います。⋯⋯こんな素直に心の内をさらけ出せるなんて⋯⋯でもなんだか泣いているみたいで、放っておけないっていうか」
時が、止まった気がした。
父には「気味が悪い」と切り捨てられた絵。
誰にも理解されず、自分ですら無価値だと思って捨てた絵。
それをこの見知らぬ少女は「美しい」と言った。
「私、この絵好きだなあ。なんか、抱きしめたくなる」
彼女はハンカチを取り出すと絵についた埃を丁寧に拭い取って再び抱きしめた。
「これ、もらって帰ってもいいですか? 繋ぎ合わせたら、まだ元に戻るかもしれないし」
正気か、と思った。
ゴミを拾って帰るなんて。
でも、その瞳は真剣そのもので一点の曇りもなかった。
「⋯⋯好きにしろ」
私が絞り出すように言うと彼女はパッと顔を輝かせた。
「ありがとうございます! 大切にしますね!」
彼女は破れたキャンバスを集めて、壊れ物を扱うように鞄にしまうと「あ、いけない! スイーツ!」と思い出したように走り出した。
去り際、彼女は一度だけ振り返り、私に向かってぺこりと頭を下げた。
「あの絵を描いた人に会えたら、伝えてください。『素敵な色を見せてくれてありがとう』って!」
彼女の背中が遠ざかっていく。
私はその場から動けなかった。
灰色の世界に突如として鮮烈な色彩が溢れ出した。
息ができる。喉の奥につかえていた鉛が溶けて、肺いっぱいに空気が入ってくる。
――ああ、見つかってしまった。
親ですら見ようとしなかった「本当の私」を。
私の魂の色を。あの子だけが見つけてくれた。
(君が、私を救ったんだ)
名前も知らない少女。
あの瞬間に私の世界は彼女を中心に回り始めた。
彼女が笑うなら私も笑えるかもしれない。
彼女が生きる世界なら私もまだ生きていたいと思えるかもしれない。
私は涙を流しながら遠くなる彼女の背中に誓った。
いつか必ず、君を見つけ出すと。
そして君が私を愛してくれたように私が君を愛し抜くと。
◇
それから私は彼女を探し続けて一年――ようやく手に入れた小鳥遊陽菜。
彼女があの愛川美羽という愚かな女に搾取されていることも知っていた。
悔しかった。歯痒かった。
私の宝物をあんなふうに雑に扱うなんて。
私がどれほど焦がれ、求めても手に入らなかった「陽菜の献身」をあの女は当たり前のように享受し、踏みにじっていた。
私は辛抱強く待った。
陽菜が傷つき、美羽に見切りをつけられるその瞬間を。
虎視眈々と彼女が堕ちてくるのを待ち構えていたのだ。
そして今、彼女はここにいる。
「⋯⋯ん、⋯⋯あったかい⋯⋯」
眠りながら陽菜が小さく寝言を漏らした。
私の手に彼女の頬が無意識に擦り寄せられる。
あの時、ゴミ捨て場で君が私の絵を「抱きしめたくなる」と言ったように。
今、君は私を求めてくれている。
「⋯⋯陽菜」
私は彼女の手を取り、その手の甲に唇を寄せた。
敬虔な祈りのように。
そして決して解けない呪いのように。
「君は、あの時のことを忘れているかもしれない。私があの絵の作者だということも、気づいていないだろう」
それでも構わない。
君が私を忘れていても私が覚えている。
君が自分を無価値だと思っても私が君の価値を知っている。
「今度は私が君を拾い上げる番だ」
私は彼女の額に長く、深い口づけを落とした。
「愛している、陽菜」
君が私に執着しなくてもいい。
君が私を「ただの避難場所」だと思っていてもいい。
私が君の分まで執着するから。
君の逃げ場をすべて塞ぎ、私の腕の中だけが世界のすべてになるまで甘く、優しく、愛し殺してあげる。
「⋯⋯もう、どこへも行かせない」
眠る陽菜を見下ろす私の瞳は、かつて彼女が「美しい」と褒めてくれた、あの絵と同じ色をしていたはずだ。
深く、重く、底のない青色に。
静かな生徒会室で私は彼女の手を握りしめたまま、満ち足りた時を過ごしていた。
色彩のない私の世界に陽菜という光が在り続ける限り、私は最強でいられるのだから。




