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第1話:私の世界が壊れた日

「──ごめん! お願い、通して!」


 昼休みの購買部は、さながら戦場だった。


 空腹に飢えた男子生徒たちの怒号と熱気が渦巻く人波を、私は必死になってかき分ける。小柄な体格はこういう時、不利でしかない。けれど諦めるわけにはいかなかった。


「あった⋯⋯ラスト一個⋯⋯!」


 ショーケースの片隅に鎮座する、ピンク色の紙パック。

 『期間限定・あまおう苺ミルク』――美羽みうが今朝「あれ飲みたいなぁ。売り切れちゃうかなぁ」と寂しそうに呟いていた商品だ。


 震える手でそれを鷲掴みにし、お釣りを待つのも惜しい早さで会計を済ませる。

 乱れた制服の襟を直す余裕もなく、私は廊下を走った。


 肺がヒューヒューと鳴る⋯⋯昔から体力には自信がない。それでも足は軽かった。

 これを渡した時の、あの子の笑顔を想像するだけで元気が湧いてくる。


(美羽は体が弱いから。私が守ってあげなきゃ)


 それが私の世界の絶対的なルールだった。


 幼い頃に病弱で少し内気だった幼馴染の愛川美羽。彼女を守り、支え、笑顔にすること。それが私――小鳥遊たかなし陽菜ひなという人間の存在意義そのものだったから。


「美羽! 買えたよ、いちごミルク!」


 教室の扉を開け、息を切らして彼女の席へ向かう。


 窓際の席で友人たちと談笑していた美羽が、ふわりとこちらを向いた。ゆるく巻かれた亜麻あま色の髪が、午後の陽射しを透かして輝く。


 クラスの男子たちが「天使」と呼ぶその容姿は、今日も完璧に可愛い。


「あ、陽菜。おかえりー」


「はい、これ。ラスト一個だったんだよ」


「えー、すごぉい! さすが陽菜! ありがとっ」


 美羽は花が咲くような笑顔でパックを受け取るとストローを挿してちゅーっと吸い込んだ。


 ありがとう。その一言だけで戦場での苦労も呼吸の苦しさも、すべて報われた気がした。


「⋯⋯ん、美味しい。ねえ陽菜も飲む?」


「え、いいの?」


「うん。あーん」


 美羽が咥えていたストローを、そのまま私の方へ向けてくる。

 周囲の視線を感じて少し恥ずかしくなるけれど、これは私たちにとっての日常だ。


 私は屈みこんで、美羽が口づけたストローをくわえ、一口だけ甘い液体を飲み込んだ。


「間接キスだねー」


「ちょ、美羽⋯⋯声大きいよ」


「何照れてんの? いつものことじゃん。あ、そうだ陽菜」


 美羽は苺ミルクを机に置くと上目遣いで私を見上げた。その瞳が、とろりと甘く潤んでいる。


「放課後、ちょっと話があるの。屋上に来てくれない?」


「え⋯⋯? うん、いいけど」


 美羽の頬がほんのりと赤い。

 何かのおねだりだろうか。それとも来週末のデート(という名の買い物)の相談だろうか。


 私は胸の奥が温かくなるのを感じながら、深く考えずに頷いた。


 だって私たちは特別だから。

 言葉なんていらない。誰が見ても明らかなほどに私たちは繋がっているのだから。


 ◇


 放課後のチャイムが鳴り、私が逸る気持ちを抑えて屋上へと向かう途中、ふと踊り場の自販機が目に入った。


(美羽、話してるとすぐ喉乾くって言うし⋯⋯買っていってあげようかな)


 昼休みには限定品をあげたけど今度は、いつもの紙パックのいちごミルクを一本購入する。


 冷たいパックを手に握りしめると、私は少しにやけてしまった。


 これを渡したら、また「やっぱり陽菜は私のことわかってる!」って抱きついてくれるかもしれない。


 階段を上る一歩一歩が、期待で弾む。


 カバンの内ポケットには小さな小箱が隠されていた。


 来週の美羽の誕生日に渡そうと思って用意したシルバーのペアリング、学生の私には少し背伸びをした値段だったけれど、バイト代をつぎ込んで買った。


 ――つい数時間前、昼休みに美羽は言ったのだ。

 私の膝枕で微睡みながら、私の指に自分の指を絡ませて。


『ん~、陽菜の匂い落ち着く。私、陽菜以外の人とか無理だわ~』


『⋯⋯また大げさなこと言って』


『大げさじゃないもん。陽菜がいれば私、一生結婚しなくていいかも~』


 その言葉が私の背中を押していた。


 「付き合おう」という明確な言葉はまだ交わしていない。

 けれど毎週末お泊まりをして同じベッドで眠り、こうして触れ合い、未来の話をする。


 これはもう実質的なパートナーと言っていいはず⋯⋯女の子同士だし、形式ばった告白なんて野暮なだけ。私たちはお互いの空気感で分かり合えている。


 もしかしたら、今日の呼び出しは美羽の方からそういう「確証」を求めてくれるのかもしれない。


 カバンのペアリング、彼女の好物のいちごミルク⋯⋯準備は完璧だ。


 そんな淡い期待を抱いて、私は重い鉄扉を開けた。


 ◇


 茜色の夕陽が視界いっぱいに広がった。

 風が少し強くスカートの裾が揺れる。

 フェンスにもたれかかっていた美羽が、私に気づいて振り返った。


「陽菜、来てくれたんだ」


 逆光で表情が見えにくいが、声は弾んでいる。

 私はドキドキと早鐘を打つ心臓を抑えながら、彼女に歩み寄った。


「どうしたの、改まって」


「えへへ、あのね。陽菜には一番に報告したくて」


 美羽が、はにかむように両手を後ろで組んで体を揺らす。

 その仕草のあまりの可愛らしさに私は思わず目尻を下げた。


「なあに?」


「私ね、彼氏ができたの!」


 ――え?


 世界から音が消えた。

 風の音も遠くから聞こえる吹奏楽部の練習音も、自分の心臓の音さえも。


 カレシ?

 誰に?

 美羽に?


 ⋯⋯どういう、こと?


「え⋯⋯?」


 口から漏れたのは、ひどく間の抜けた音だった。

 言葉の意味を脳が処理することを拒絶している。


 冗談だ。そう、これは美羽特有の、ちょっと意地悪な冗談に違いない。

 私が慌てる姿を見て「うっそー!」って笑うための。


「またまた⋯⋯美羽ったら、そんな冗談──」


「冗談じゃねーよ、小鳥遊」


 聞き覚えのない、低い男の声――隠れていた貯水タンクの陰から一人の男子生徒が現れた。


 クラスの⋯⋯名前は確か、佐藤とか言ったか。髪をワックスで遊ばせた、少しチャラついた雰囲気の男子だ。


 彼は馴れ馴れしく美羽の肩に腕を回すと勝ち誇ったような笑みを私に向けた。


 そして美羽もそれを拒絶しない。

 むしろ甘えるように彼の胸に頭を預けた。


「⋯⋯え?」


 現実が鈍器のような質量を持って殴りかかってくる。

 目の前の光景が信じられない。


 美羽が男の人に触れられている。

 私以外の誰かに、あんなにも無防備な顔を見せている。


 美羽は私の蒼白になった顔をチラリと見て、くすりと笑ったように見えた。


 そして残酷なほど無邪気な声で、決定的な言葉を放った。


「佐藤くんね、ずっと私にアプローチしてくれてたの。でね、今日のお昼休みに『どうしても』って言われて、OKしちゃった!」


 今日のお昼休み?

 さっき、私の膝の上で「陽菜以外無理」って言っていた、あの直後に?


「だ、だって⋯⋯美羽、さっき⋯⋯私のこと⋯⋯」


「ん? あー、あれ? あれはほら、女の子同士のスキンシップっていうか、ね?」


 ね? と同意を求められても、私は頷くことなんてできない。

 喉が張り付いて、呼吸ができない。


 美羽の瞳には一切の悪気がないように見えた。それが余計に私の心をえぐり取る。


「だからね陽菜、これからは一緒に帰れないの。佐藤くんとデートあるから!」


 デート。

 私との時間は、ただの「暇つぶし」で。

 彼との時間が「デート」なのか。


「あ、でも心配しないで? 陽菜は私の特別だから」


 美羽が彼氏の腕の中から抜け出し、私の手を取った。

 その温もりはいつもと同じなのに、今は氷のように冷たく感じる。


「陽菜はずーっと私の世話係だもんね。彼氏ができても、私のこと一番に考えてくれるよね?」


「え⋯⋯」


「だって私たち、世界一の『親友』だもんね?」


 ――親友。


 そのたった二文字が、引導だった。

 私たちの築き上げてきた数年間を、一瞬でなかったことにする魔法の言葉。


 手を握りあった夜も、愛を囁き合った(ように思えた)日々も、抱きしめ合って体温を分け合ったあの冬の日も。


 美羽にとっては全部、全部⋯⋯「親友」という便利なカテゴリの中での出来事だったというのか。


「好きです、付き合ってください」――その一言を交わしていなかった。契約書にサインをしていなかった。


 ただそれだけのことで私の恋は「存在しなかったこと」にされた。


「⋯⋯陽菜? おーい、聞いてる?」


「あ、悪い愛川。俺もう部活行かなきゃ」


「えー、もう? じゃあ送ってってよ」


 美羽はあっさりと私の手を離し、彼氏の方へ駆け寄っていく。

 その背中は一度も振り返らなかった。


 まるで、使い古したおもちゃを部屋の隅に置き去りにするかのように。


 ポロ、と。

 私の手から力が抜けた。


 バシャッ。


 気を利かせて買ってきたばかりのいちごミルクのパックが、地面に落ちる。


 衝撃で中身が弾け飛び、コンクリートにどろりとしたピンク色の染みを作った。


 甘ったるい匂いが、夕暮れの風に乗って漂う。

 それはまるで、潰された私の心そのものだった。


 渡されることのなかった「優しさ」の残骸。


「あーあ、もったいなーい」


 遠くで美羽の無神経な笑い声が聞こえた気がしたけれど、もう何も見えなかった。


 視界が涙で歪んで、茜色の空が溶け出していく。


(私は、何だったの?)


 カバンの中のペアリングが、熱を持った鉛のように重く感じる。

 渡す相手を失ったそれは、ただの金属の塊だ。


 私は勝手に恋をして、勝手に尽くして、勝手に振られた。

 最初から「恋人」ですらなかった。


 ただの、都合のいい「親友」兼「世話係」。

 美羽というお姫様を引き立てるための、惨めで滑稽なピエロ。


「⋯⋯バカみたい」


 呟いた声は、風にかき消された。


 私の世界は美羽を中心に回っていた。

 彼女の笑顔が太陽で、彼女の言葉が法律だった。

 だから太陽を失った私は、息の仕方さえもわからなくなってしまった。


 足元に広がる甘いピンク色の染みを、私はただ呆然と見つめ続けることしかできなかった。


 そこには私が信じていた「愛」の残骸だけが転がっていた。

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