6.人参
夜明け前、野営地はまだ深い静けさに包まれていた。
焚火はすでに落とされ、残り火だけが灰の中で赤く瞬いている。鳥の声もまだ遠く、聞こえるのは風が草を撫でる音と、どこかで馬が鼻を鳴らす気配だけだった。
レイは、誰にも気づかれぬよう静かに目を覚ました。
仕切りの向こう、隣の寝袋にはすでに人の気配がない。
ヴァルドは毎朝、誰よりも早く起きて剣を振る。
起床前にはすでにテントを出ていることが多く、今日も例外ではなかった。
音を立てぬよう身を起こし、レイは外套を羽織ってテントを出る。
野営地にはまだ人影は少なく、夜番の騎士が焚火のそばの簡易椅子に腰を下ろしていた。
見覚えのある顔に、レイは小さく声をかける。
「おはようございます。フィル」
夜番の騎士が振り返る。
白み始めた空を背に、そばかすの浮いた頬がわずかに緩んだ。
「おはようございます、レイ様。よくお休みになられましたか?」
「はい。フィルが見張りをしてくれたおかげで、安心して眠れました。
ありがとうございます」
その言葉に、フィルは照れたように視線を逸らす。
「今日は今回の巡行で初めて村に訪問をする日ですが、ご準備は…」
続けて話を進めるフィルの目線が、ふと、レイの手元で止まった。
目線の先には厚手のタオルが一枚、畳まれている。
フィルは一瞬動きをとめ、その後タオルとレイの顔を、交互に見つめた。
「……まさかとは思いますが」
フィルが恐る恐る声を出すより早く、レイが穏やかに答えた。
「川で身を清めようかと」
「やっぱり…!」
野営はたいてい、川場の近くに設けられる。
馬への給水、炊事、そして身体を清めるため――利点は多い。
「朝は体が冷えやすいので、水浴びは危険です。夕方にされた方がいいのではないですか」
少し言い淀みながら、フィルはそう告げた。
「一度夕方にしようとしたのですが、団員の方と鉢合わせしてしまって」
その返答に、フィルは一瞬きょとんとし――すぐに息を呑んだ。
「あ…」
それ以上、言葉は続かなかった。
むしろ、すべてを理解してしまったからこそ、何も言えなくなったのだ。
ただでさえ、まるで神のようだと噂されるその容姿。
もし水に濡れ、夕陽を受けて佇む姿などを目にしたら――
想像しただけで、フィルは自分がその場に立っていられる自信がなかった。
(……鉢合わせた騎士が、今も無事でいますように)
心の中で、真剣に祈る。
「……お気をつけてください。何かあったら、すぐ呼んでくださいね」
「ありがとうございます。」
レイは静かにそう答えると、踵を返し、野営地から少し離れた川へと歩みを向けた。
⸻⸻
川は夜明けの光を受け、淡く白く霞んでいた。
水面には薄く霧が立ち、流れは驚くほど穏やかだ。
石と石の間を縫うように、水が低く、控えめな音を立てている。
レイは川縁に膝をつき、そっと手を浸した。
冷たい。
だが、その冷たさは、身を強張らせるものではなかった。
むしろ、意識を澄ませるような感覚があった。
外套を脱ぎ、衣を外す。
朝の光の中に、白い肌が静かに晒される。
ゆっくりと水の中へ足を進める。
一番深い場所に来ても、水位は腰ほどに過ぎない。
レイは目を閉じ、両手ですくった水で顔を清めた。
祈るような所作だった。
指の隙間から零れ落ちる水滴が、朝の光を受けてきらめく。
川面に映るその姿は、どこか現実から切り離されたように見えた。
濡れた髪が頬に貼りつき、静かな呼吸に合わせて肩がわずかに上下する。
そのたび、周囲の空気までが澄んでいくようだった。
濡れた髪先から、一滴の雫が落ちる。
顎を伝い、首をなぞり、胸元へと滑り落ちていく。
そこには、不自然な黒い痣があった。
形を定めぬそれは、まるで闇の中に咲く黒薔薇のようにも見える。
レイは静かに瞳を閉じ、呼吸を整えた。
正式な祈りではないが、手を組み、わずかに頭を下げる。
やがて川から上がり、静かに衣を整えた。
⸻⸻
野営地へ戻る頃には、騎士たちも、少しずつ目を覚まし始めていた。
鎧の留め具が擦れる乾いた音。
薪を組み直す低い物音。
鍋に水を張る、澄んだ音。
夜の名残を払い落とすように、野営地に朝の支度が広がっていく。
レイは迷うことなく、その輪に加わった。
誰に指示されるでもなく、自然な所作で配膳の準備に取りかかる。
「おはようございます」
短く声をかけると、何人かの騎士が一瞬、驚いたようにこちらを見た。
だがすぐに、曖昧な頷きや、少し遅れた返事が返ってくる。
朝食は、いつものパンとスープ。
干し野菜と麦を煮込んだだけの、決して豪華とは言えないものだ。
それでも、鍋から立ち上る湯気には確かな温もりがあり、
朝の冷えた空気の中では、それだけで十分だった。
レイはスープを静かにかき混ぜ、具材の偏りが出ないよう気を配りながら、一杯ずつ器に注いでいく。手渡し、受け取られなければ声をかけ、視線が合えば、ほんのわずかに微笑む。
やがて自分の分を取り、先に腰を下ろしていたエリオの隣に座る。
一口、スープを含む。
控えめな塩気。
素朴な味。
だが、冷えた体にじんわりと染み渡り、内側からゆっくりと温めていく。
――美味しい。
そんな感想が、自然と胸に浮かんだ。
騎士たちも、言葉少なに食事を進めている。
今日はリーネ村へ向かう。
巡行で、最初に訪れる村だ。
レイは器を両手で包みながら、朝の光の中で静かに思考を巡らせていた。
ふと、隣の器に視線を落とす。
半分ほど残った汁の中に、鮮やかな橙色が浮いている。
「好き嫌いはいけませんよ、エリオ。人参も立派な栄養源です」
エリオは、珍しく少しだけ眉をひそめた。
「……これは、野ウサギが食べるものです」
基本的にレイの言うことなら何でも受け入れるエリオが、唯一、首を縦に振らないのが人参だった。
フォークで人参をつつくその様子に、少し遅れて食事に加わったルーカスが、笑いながら腰を下ろす。
「食べないと大きくなれないっスよ~」
「……他の野菜は、きちんと食べています」
「そんなんじゃ、すぐフィルに背を越されるっスね」
「適当なこと言わないでください」
二人のやり取りを横目に、レイは最後の一口を飲み干した。
結局、エリオはルーカスに言いくるめられ、渋々ながらも人参をすべて口に運んだ。
目元が少し潤んでいたが。
⸻⸻⸻⸻
朝食を終える頃には、野営地はすっかり動き出していた。
鍋は片づけられ、荷は手際よくまとめられていく。
騎士たちは鎧を整え、馬に鞍を載せ、いつもの巡行の隊列を形作っていった。
レイは一度テントへ戻り、小さな布包みを手に取る。
中に収められていたのは、薄手の淡い色のベールだった。
白に近い淡色で、光を柔らかく透かす。
顔の輪郭を隠しながらも、完全には遮らない。
――神官として村を訪れるとき、いつも身に着けているものだ。
村へ向かう道中は、人と出会う可能性も高い。そのため、馬車の中にいる間も、これを外すことはない。レイは純白の神官衣の上に整え、静かに顔を覆った。
視界がわずかに霞む。
顔を覆えば、そこには
名も、立場も、権威も――
何ひとつ、持たない。
ただ、神に仕える者としての自分だけが残る。
馬車のそばへ向かうと、すでにヴァルドが立っていた。
身に着けているのは、騎士団の常装。戦闘用の鎧ではないが、背筋の伸びた立ち姿と、周囲に走らせる鋭い視線が、場の緊張を引き締めている。彼は馬の配置、騎士の位置、馬車との距離を順に確認しながら、無駄のない動きで隊列を整えていた。
レイの姿を認めた瞬間、ヴァルドの表情がわずかに歪む。
「……顔を隠すのか」
低く、抑えた声。
「はい。巡行の際には、いつも身に着けています」
淡々と答えると、ヴァルドは一歩分の距離を保ったまま、レイを見据えた。
その視線は、個人を見るというより、危険因子を測るものに近い。
「厄介事を招かないなら、それでいい。ただし――」
言葉が切れ、目が細められる。
「余計なことはするな。不審な行動を取れば、その足はなくなると思え」
その言葉には、警戒と同時に、過去の経験に裏打ちされた重みがあった。
「分かりました」
レイは、いつもと変わらぬ穏やかな微笑みを返す。
それ以上、言葉は交わされなかった。
やがて合図が出され、隊列が動き出す。
騎士たちは馬にまたがり、馬車はその中央へと収まる。
進み始めてしばらくすると、馬車の揺れが目立ち始めた。
石に乗り上げ、地面の凹凸を拾い、時折大きく体が浮かされる。
リーネ村へ続く道は、決して整っているとは言えなかった。
土は硬く締まり、砂利が多い。
轍は浅く、農地として踏み固められた形跡も乏しい。
この土地が、作物を選び、人を選ぶ場所であることは、一目でわかる。
道の脇には、乾いた草と痩せた低木が続いている。
肥えた畑も、張り巡らされた水路もない。
馬車が揺れるたび、レイは静かに外の景色へと視線を向けていた。
――リーネ村は、かつて。
数年前、初めて訪れた日の光景が、断片的によみがえる。
荒れた畑。
道の脇に座り込む人影。
病に伏した者、動かなくなった老人。
忘れてはならない景色。
馬車の外では、ヴァルドが何度も手信号を送り、周囲の警戒を細かく調整している。
視線は常に前方と周囲。
村が近づくにつれ、その緊張はさらに強まっていた。
やがて、遠くに建物の影が見え始める。
低い屋根。
石と木を組み合わせた、簡素な家々。
「……見えてきましたね」
隣でエリオが小さく呟く。
「ええ、久しぶりですね」
レイは、ベールの奥で静かに頷いた。
リーネ村。
今回の巡行で初めて足を踏み入れる村。
馬車は速度を落とし、騎士たちの隊列が、自然と引き締まった。
村への到着は、もうすぐだった。
――――
村の入り口を越えた瞬間、隊列の空気がわずかに変わった。
土の匂いがする。
乾ききった埃ではなく、踏み固められ、何度も耕された土の匂いだった。
「……おかしいな」
低く呟いたのは、先頭を進んでいたヴァルドだった。
馬を止めることはない。だが、手綱を握る指に、わずかな力がこもる。
その視線は、明らかに周囲を探るものへと変わっている。
「聞いていた話と違う」
その言葉に、騎士たちも周囲を見回す。
道の脇には、整えられた畑が広がっている。
決して豊かとは言えないが、荒れ果ててもいない。
土地の癖に合わせて畝が切られ、乾きやすい土を逃がすための溝も掘られている。
人の手が、定期的に入っている畑だった。
さらに奥――村の中央を横切るように、細い川が流れていた。
山から下りてきた水だろう。
量は多くない。だが、途切れることなく、一定の速さで流れている。
水面は澄み、陽を反射して小さく揺れていた。
その川沿いには、水を引くための簡素な樋と、石で補強された井戸がある。
新しいものではない。
だが、使われ続けてきた痕跡が、そこかしこに残っていた。
――貧困村。
そう聞かされていたはずだった。
レイは馬車の中から静かにその光景を見ていた。
顔は、いつものように淡い色のベールで覆われている。
視線は揺れない。
そのとき、家々の間から人影が現れた。
「……あら?」
「もしかして――」
村の奥から、人が駆け寄ってくる。年老いた女、畑帰りの男、子どもを連れた母親。皆、警戒よりも先に、懐かしさを顔に浮かべていた。
「久しぶりだねえ!」
「また来てくれたのかい」
「元気にしてたか?」
彼らの視線は、馬車の中央に立つ、顔を覆った神官に向けられている。
その声は警戒も、遠慮もなく、顔見知りと再会したときの、ごく自然な温度だけがある。
レイは馬車を降り、一歩前に出る。
風に揺れて、ベールがわずかに肩口をかすめた。
「ご無沙汰しております。皆さま、お変わりありませんか」
柔らかな声に、村人たちはほっと息をついたように笑った。
「相変わらず丁寧だねえ」
「こんな辺境まで、若い神官さんも大変だ」
――若い神官。
その言葉を聞いた瞬間、ヴァルドはレイを見た。
顔はベールに隠れている。だが、村人たちの態度には、恐れも、畏怖もない。
そこにあるのは、ただの信頼だった。
大司教に向けられるそれとは、まるで違う。
村人たちにとって、彼はただの神官だ。
――悪徳大司教レイ。
その名を、ここで知る者はいない。
ヴァルドはその様子を、無言で眺める。
村人の反応と、村の様子。
そして、顔を覆ったまま自然に輪の中に立つレイ。
「……説明してもらえるか」
レイの後ろにたち、ヴァルドは小さく、低く問いかける。
「この村は、作物も育たず、人が倒れていると聞いていた」
レイは振り返らずに答えた。
「数年前までは、その通りでした」
それだけ告げて、再び村人へ向き直る。
「畑の具合はいかがですか」
「ええ、おかげさまで」
男の一人が、少し誇らしげに笑う。
「この土地じゃ麦は無理だって諦めてたけど、教えてもらった豆と根菜なら育つんでね。川の水も、少しずつ回せるようになりました」
豆類と、乾燥に強い根菜。
水を必要としすぎず、土地を疲弊させにくい作物。
そして、流れを止めない川の使い方。
「井戸も、問題なく使えていますか」
「ええ。前よりずっと楽になりました」
かつて使えなくなっていた井戸は整備され、
石組みは補強され、汲み上げの手間も減っている。
どれも、以前レイが、この村に残していった助言だった。
ヴァルドは黙ったまま、拳を握る。
指先に、無意識の力が入っていた。
――この村は、誰かに手を入れられている。
だが、その手が誰のものかを、村人は知らない。
「それは、何よりです」
ベールの奥で、レイは静かに微笑んだ。
「では……」
一拍置いて、穏やかに言葉を続ける。
「今、なにかお困りのことはありませんか?」
レイの問いかけに、村人たちは顔を見合わせた。
すぐには答えが出ない。
それが、今のこの村の今の状態だった。
やがて、ひとりの男が、意を決したように一歩前へ出た。
年の頃は三十を少し過ぎたあたりだろうか。
畑仕事で鍛えられた腕が、わずかに強張っている。
「……実は」
短く息を吸い、言葉を選ぶようにして続ける。
「病が、村で流行ってしまっていてな」
その声は低く、落ち着いている。
深刻さは滲んでいるが、絶望ではない。
男の瞳には、決して消えない光があった。
――きっと助かる
その希望が、どこから生まれたものなのか。
まだ、騎士団は知らない。
ただ一人。
レイだけが、その瞳を静かに見つめ返していた。
まるで、すでに答えの一端を掴んでいるかのように。




