4.違和感(フィル目線)
正直に言えば、気が重かった。
出発前の詰所で、装備の最終確認をしていたときのことだ。
革鎧の留め具を締め直し、剣の位置を確かめていると、背後から年上の騎士たちの声が聞こえてきた。
いつもと変わらない、何気ない調子のはずの会話。
けれど、その言葉だけが、やけに耳に残った。
「今回の巡行、大司教が一緒らしいぞ」
「……ああ、あの悪徳って有名な」
「民のことなんて考えない悪魔だろ」
「騎士団長、あの事件で現場の指揮を執っていた騎士だったって聞いたぞ。よく騎士団長が同行を許したもんだ」
あの事件――救済拒否事件のことだろう。
そう思いながら、フィルは無意識に会話へと耳を澄ませていた。
笑い混じりの声。
だがそれは、軽口というより、互いの認識を確かめ合うためのもののように聞こえた。
噂話というより、まるで周知の事実をなぞるかのような語り口。
(悪魔……)
フィルは、手袋をはめた指に力を込める。
革が、きゅっと小さな音を立てた。
騎士たちの会話は続く。
「しかし神聖力は本物らしい」
「俺も一度、使うところを見たってやつに話を聞いたが……まるで神のようだったって騒いでたぞ」
「だから余計にたちが悪いんだよな」
「力があるのに、使わないんだからな」
誰かが、吐き捨てるように言った。
フィルは、その言葉に小さく眉をひそめる。
(力があるのに、使わないのは……どうして?)
考えてみても、答えは出ない。
いや、悪魔の考えることなんて、分からなくて当然だろう。
そう自分に言い聞かせながら、フィルは記憶をたどる。
大司教レイ。
神殿に属しながら、神殿からも距離を置かれた存在。
人を救わず、選り好みをし、
その結果、多くの恨みを買った――そんな噂を、ここ数日で嫌というほど耳にした。
そんな人物と、これから六ヶ月、共に旅をする。
手袋を握る手に、じんわりと汗がにじむ。
二年前の救済拒否事件のことを、フィルは噂でしか知らない。
自分が騎士団に入ったのは最近で、当時の現場を見たこともなかった。
だからこそ、想像だけが勝手に膨らんでいく。
冷酷で。
傲慢で。
神官でありながら、神の名を盾に民を切り捨てるような――
(……怖い人だったら、どうしよう)
鎧の内側で、心臓が一度だけ、強く跳ねた。
出発の日が、一生来なければいいのに。
そんな願いもむなしく、朝は誰にでも公平に、そして残酷に訪れる。
眠りが浅かったのだろうか。
目覚めたとき、身体の奥にいつもより重い疲れが残っていた。
こうして、出発の日を迎えた。
馬車の前に、その人物が現れた瞬間。
フィルは、完全に思考を止めた。
理由は、明確だった。
――あまりにも、噂と違った。
まず目を引いたのは、その容姿だった。
整いすぎている、と感じるほどの顔立ち。
朝の光を受けて、柔らかな色の髪がわずかに揺れる。
白を基調とした装いは決して派手ではないのに、なぜか視線が吸い寄せられる。
(……え)
自分が息を呑んだことが、はっきり分かった。
美しい。
それも、作り物のような美しさではない。
人の中に自然と溶け込むのに、なぜか際立ってしまう種類のものだ。
慌てて視線を逸らす。
(な、何見とれてるんだ……!)
相手はあの悪徳と名高い大司教だ。
そう思い直しても、胸の奥に残る違和感は、消えてくれなかった。
やがて出発の合図がかかり、隊列が動き出す。
フィルの担当位置は、馬車の斜め後ろ。
馬を走らせながらも、あの違和感は、ずっと胸の内に残り続けていた。
そして、休憩時。
水を配る役を、なぜか自分が任されていた。
――いや、正確には。
年上たちが目を合わせずに決めた、と言ったほうが正しい。
(……だよな)
誰もやりたがらない役目。
悪徳大司教に、直接声をかける役だ。
断る理由も見つからず、フィルは水袋を抱えた。
一歩、近づくごとに、心臓がうるさくなる。
――悪徳大司教。
その言葉が、頭の中で何度も反芻される。
怒鳴られるかもしれない。
冷たく突き放されるかもしれない。
あるいは――。
休憩の合図がかかり、フィルは馬車の後方へ回った。
木陰のそばに立つ姿が見える。
思っていたよりも、ずっと静かで、落ち着いた佇まいだった。
「あ……あの」
声が裏返りそうになるのを、必死で抑える。
振り向いたその顔を見て、
フィルは一瞬、完全に言葉を失った。
――近くで見ると、なおさら、噂と一致しない。
「どうしましたか?」
穏やかな声。
その顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。
その声に、フィルは一瞬、言葉を忘れる。
胸が、ひどくうるさい。
水袋を差し出す。
手が震えているのが、自分でも分かる。
「……み、水です。休憩ですので」
次の瞬間、返ってきたのは――
「ありがとうございます」
その一言だった。
(……え?)
思考が、完全に追いつかない。
礼を、言われた。
当然のように。
まるで、同じ立場の人間に向けるみたいに。
フィルは、ただ目を見開いた。
何も言えない。
水袋を受け取られたあとも、自分の手が宙に残ったままだと気づくまでに、少し時間がかかった。
頭の中が、真っ白になる。
騎士が神官に水を渡す。
ただそれだけのことだ。
それなのに、どうしてこんなにも心がざわつくのか。
ふと目の前を見ると、大司教は少し困惑したような笑みを浮かべていた。
それもそうだろう。
目の前の騎士が、水袋を差し出したまま、固まっているのだから。
「あ……その……」
やっと喉から出た声も、言葉にならずただの音となり落ちていく。
僕は何をしているのだろう。
自分が情けなくなり、そのままうつむいてしまう。
「お名前、伺っても?」
頭の上から、木々のせせらぎのような声が落ちてきた。
声だと認識するまでに、少し時間がかかる。
名前。
自分の。
大司教が?
自分に?
疑問が頭の中を支配し、そのあまりの動揺に先ほどの恥じらいを忘れ、顔を上げる。
「……フィル、です」
絞り出すように答える。
「フィル」
名を呼ばれた。
自分の名前のはずなのに、初めて聞く言葉のような、不思議な感覚。
その人は、言葉をつづける。
「ありがとうございます、フィル。助かりました」
その瞬間、胸の奥が、ほんのりと熱くなった。
理由は、うまく言葉にできない。
ただ――
“悪魔”と呼ばれる人が、
自分の名前を呼んだことが、どうしようもなく心に残った。
「……はい」
それだけ言うのが、精一杯だった。
どうやってその場を離れたのか、記憶は曖昧だ。
気づけば、日陰に座り込んでいた。
ふと視線を向けると、大司教が森の奥へ進んでいく姿が見えた。
その少し後ろに、神官が続いている。
なぜ、追いかけてしまったのか。
自分でも分からない。
ただの好奇心か、それとも警戒心か。
――今なら、少しだけ分かる気がする。
確かめたかったのだ。
自分の気持ちを。
物音を立てないよう、少し離れた位置で様子をうかがう。
大司教は森の縁に咲く小さな花に目を留め、腰を落としていた。
次の瞬間、空気が変わった。
眩い光ではない。
戦場で見る、浄化の光とも違う。
神殿で教わった神聖力は、穢れを“外へ流す”ものだ。
だが、今目の前で使われたそれは――
まるで、己の中に引き受けるように見えた。
淡く、柔らかく。
人の体温のような神聖力。
花弁についた露が静かに弾かれ、
しおれかけていた花が、ほんのわずかに息を吹き返す。
フィルは、息を止めていた。
――違う。
神殿で教わった神聖力とは、明らかに、何かが違う。
これが、
――比類なき神聖力。
強く、危うく、
そして、優しい。
「……何をしている」
騎士団長ヴァルドの低い声が響く。
空気が一瞬、張り詰めた。
だが、大司教は穏やかに応じた。
反発もしない。
媚びもしない。
ただ、在る。
フィルは、気づかぬうちに拳を握りしめていた。
悪徳大司教。
民を救わない悪魔。
その言葉が、胸の中で、静かにひび割れていく。
――僕は、何を信じていたんだろう?
答えは、まだ出ない。
騎士たちが次々と休憩を終え、出発の準備を始めている。
フィルは、踏み固められた地面の端を見る。
そこでは、小さな花たちが風に揺れていた。
(……悪徳、なんかじゃ)
その言葉は、まだ声にならない。
けれど確かに、
噂とは違う“何か”が、フィルの中に残ったのと同時に新たな思いが溢れ出す。
噂は信じない。
自分の目で見て、決めるべきだ。
彼が悪徳大司教なのか、それとも――
僕が仕えるべき人なのかを。




