2.出発の時
神殿の朝は早い。
それは勤勉さゆえというより、祈りが生活と切り離されていないからだ。
夜明けと同時に鳴らされる小さな鐘の音が、神殿の奥深くまで染み渡る。完全な静寂ではない。だが、ざわめきとも違う。祈り終えた者の吐息、衣擦れの音、石床を踏む足音――それらが溶け合い、ひとつの「朝」を形作っていた。この時間帯の神殿は、まだ人に見せる顔をしていない。飾り立てられる前の、素のままの聖域だった。白い石床に朝の光が差し込み、静かな祈りの残滓が空気に溶けている。
レイ=アルヴァスティアは、出立前の最後の確認を終え、回廊を歩いていた。
回廊は長く、白い柱が規則正しく並んでいる。その隙間から射し込む光が、床に淡い影を落とし、時間の流れをゆっくりと刻んでいた。歩く速度は一定で、急ぐ様子はない。だが、立ち止まることもない。その歩みには迷いがなく、目的地を疑っていない者の足取りだった。
純白の神官服が風をはらみ、金糸で縫われた刺繍が日の光を受けて淡く輝く。少し眠たげな瞳にはわずかに潤みが残り、長い銀白の髪は緩くまとめられ、歩みに合わせて柔らかく揺れていた。
――視線を感じる。
それは一方向からではない。
すれ違う者、少し離れた場所にいる者、あえて目を伏せている者。好意、敬意、警戒、そして噂。それらが混じり合った視線が、無意識のうちに彼へと集まっていた。
だが、レイ自身はそれを特別なことだとは思っていない。幼い頃からそうだった、というだけの話だ。
「……やっぱり、目立ちますね」
隣を歩くエリオが、ため息混じりに言う。
「そうですか?」
レイは首を傾げ、穏やかに微笑んだ。それだけで、通りすがりの若い神官が思わず足を止め、視線を逸らせなくなる。
「自覚がないのが一番厄介なんです」
「褒め言葉として受け取っておきます」
軽く返すと、エリオは苦笑した。彼の手には、肌身離さず持ち歩いている鞄がある。必要なものはすでにそこに揃っているし、その他の荷はすべて積み込み済みだ。
やがて二人は、小さな祈祷室の前で足を止めた。神殿から離れる際、レイが必ず立ち寄る場所だ。
「少しだけ、待っていてくださいね」
そう言って部屋の外にエリオを残し、レイが一人、部屋の中に歩みを進めた。
祈祷室は、神殿の中でもひときわ小さな空間だった。大聖堂の荘厳さとは正反対に、飾り気はほとんどなく、声を出せば響きすぎてしまいそうなほど静かだ。
祭壇の前で膝をつくと、石床の冷たさが衣越しにも伝わってくる。
指先を組み、息を整える。
祈りの言葉は、声にはしなかった。
誰かの顔が浮かびかけて、すぐに消える。
名前を呼べば、何かが壊れてしまう気がして、胸の奥に押し戻した。
祈り。
彼の祈りは、民のための祈りでもあり、
――同時に、自分自身の償いのためでもあった。
途中、呼吸がわずかに乱れる。
胸の奥に重たいものが沈み込む感覚に、レイは組んだ両手の指先を強く握りしめた。
少しの時間が過ぎた。
「……行きましょうか」
立ち上がり、何事もなかったように微笑む。
エリオは何も聞かず、ただ頷いた。
神殿の正門が近づくにつれ、空気が変わる。
柔らかかった朝の気配が、少しずつ引き締まり、祈りの場から、現実の場へ。境界線を越える感覚が、足元から伝わってきた。やがて、神殿の正門前に停められた馬車が見えてきた。
――そこには、すでに騎士団の一団が待機している。
祈りではなく剣を携えた者たち。
守る者であり、同時に裁く者でもある存在。
濃色の制服に身を包んだ騎士たちが数人並ぶ中、彼だけは明らかに違っていた。
背の高さだけではない。動かずに立っているにもかかわらず、周囲の空気を制している。視線が集まるのは、意図したものではなく、自然な結果だった。
ヴァルド=クロイツ。
王国騎士団長。
その名に相応しい緊張感が、彼の周囲にだけ張り付いている。
(相変わらず、分かりやすく警戒されていますね)
レイは内心で苦笑しつつ、表情には出さない。
一歩近づくだけで、周囲の騎士たちの空気がわずかに張り詰める。
好奇、不信、そして噂。
――悪徳大司教。
その言葉は、誰かが口に出さずとも、確かにそこにあった。空気の底に沈殿し、容易には消えない。
噂とは、便利なものだ。真実を知ろうとせずとも、理解したつもりになれる。
その呼び名は、場の底に沈殿していた。
「大司教殿」
ヴァルドは最低限の礼だけを取る。
背筋は伸び、鎧ではなく動きやすさを重視した正装に身を包んでいるが、その佇まいは武人そのものだ。
向けられる視線は、剣の切っ先のように鋭い。
「今回の巡行、貧困街を通ると聞いている」
一拍、間を置く。その眼には鋭さが宿っていた。
「確認しておくが……民を危険に晒すような真似は、しないだろうな」
疑念を隠す気もない、率直すぎる物言いだった。
周囲の空気が、わずかに張り詰める。
騎士たちの視線が一斉に集まり、好奇と警戒、そして噂が滲む。
エリオが反射的に口を開きかけた。
だが、レイはそれをそっと手で制する。
柔らかく。
まるで子どもを宥めるような仕草で。
「もちろんです」
レイは穏やかに微笑んだ。
長い睫毛が伏せられ、愛しいものを思い出すように目を細める。
「私はいつ何時も、民を第一に考えています」
声音は静かで、誇張も虚勢もない。
だが、その“疑われることすら想定済み”の余裕が、かえって鼻につく。
ヴァルドの眉が、わずかに動いた。
一瞬。
何かを言いかけて、飲み込んだようにも見えた。
「……ハッ」
短く鼻を鳴らす。
「口では、な」
吐き捨てるように言い残し、ヴァルドは踵を返した。
これ以上、言葉を交わすつもりはないらしい。
ヴァルドが背を向けたあとも、緊張はすぐには解けなかった。騎士たちの間に、小さなざわめきが走る。見てはいけないものを見たような顔、聞いてはいけない会話を聞いたような沈黙。
エリオは何か言いたげに口を開きかけ、結局、何も言わなかった。
その間も、レイの歩調は変わらない。
いつも通りの速度で、いつも通りに馬車へ向かう。
それが、かえって周囲の視線を集めていた。
誘導されるまま馬車に乗り込んだ。
馬車にはレイとエリオが乗り込み、騎士団員たちは馬で馬車の前後を固める配置だ。
「なんなんですか、あの言い方……!」
馬車に乗り込むなり、エリオが声を荒げた。天井に頭をぶつけないよう気をつけながら立ち上がるその様子に、レイは小さく微笑む。
「お行儀が悪いですよ」
そう静かに咎めると、エリオはしぶしぶ席に戻った。
「国民のためを思っての忠告でしょう……彼は正しい。」
それは、レイの本心だった。騎士たちが動き出し、馬のいななきが朝の空気を震わせる。風に揺れた木々たちの奏でるメロディーを楽しむように、そっとレイは瞼を閉じる。
一つ、また一つと過去の断片が浮かび上がる。
神殿の門前で叫んでいた声。
怒りに歪んだ顔。
絶望の底で、縋るように伸ばされた手。
「救済拒否」という言葉だけが独り歩きし、その裏側を知ろうとする者はいなかった。
だが、あの時――
レイの胸にあったのは、決意というほど強い感情ではない。
もっと静かな、諦観に近い理解だった。
誰かが、この役を引き受けなければならない。
それが自分であるなら、それでいい、と。
――レイが“悪徳大司教”と呼ばれるようになったのは、二年前の事件がきっかけだった。
救済拒否事件。
地方都市で発生した、原因不明の感染症。
神殿の門前には、確かに救いを求める声が集まった。
祈り、叫び、縋る者たち。
だが、大司教の判断で神殿は門を閉ざした。
公式な救済は行われず、祈りも捧げられなかった。
それが、今も語られる“事実”だ。
しかし――真実は、違う。
疫病の正体は、滞留した原因不明の瘴気による魔力汚染性の疾患――邪気病。
善意の浄化は、瘴気を共鳴させ、かえって拡散を招く。
選択肢は、少なかった。
隔離。
進行の抑制。
症状の重い者のみを、密かに救う。
そして――
レイ自身が、瘴気を引き受ける。
自らの内に取り込み、時間をかけて削ぎ落とす。
拡散させないための、最も確実な方法。
胸の奥が、微かに疼いた。
取り込んだ瘴気が残した痣は、今もなお、深く刻み込まれ、レイの体を蝕み続けている。
(……被害者が出たのも、事実です)
それを悔やまないわけがない。
(……あれが、最もリスクの少ない選択でした)
正しく説明すれば、大司教である私の名誉は守られただろう。
だが、その代わりに
国民の不安は、必ず次の矛先を探し始める。
それは、どこへ向かうのか。
誰の責任として処理されるのか。
滞留した瘴気に気づくことができなかった土地の教会か。
管理が行き届かなかった神殿か。
それとも――国家そのものか。
そうなれば、被害は終わらない。
だから、引き受けた。
悪徳大司教という役を。
彼にとってこの世界は、どこか演劇と似ていた。
(…悪徳大司教を演じる私は、演劇でいうと悪役大司教といったところでしょうか。)
悪徳大司教という役を引き受けることは、逃げではなかった。
むしろ、最も目立つ場所に立つ選択だった。
矢面に立てば、他は守られる。
その単純な構図を、彼は理解していた。
誰かが憎まれるなら、自分でいい。
その覚悟だけは、最初から揺らいでいない。
馬車が一度大きく揺れた。
目を開けると、馬車はゆっくりと動き始めていた。
「……出発するようですね」
窓の外、ヴァルドの鋭い視線がこちらを捉える。
(嫌われているのは、承知の上ですよ)
そう思いながら、レイはにこやかに手を振った。




