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悪役大司教は今日も静かに微笑む。  作者:


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1.王命を受ける

 磨き上げられた石床に、足音が遅れて返ってくる。高い天井に吸い込まれた音が、わずかな残響となって追いかけてきた。


 王宮へと続く長い回廊を歩くたび、レイはいつも同じ空気を吸うことになる。


「……おい、あれが噂の()()()()だろ?」

「人の心などない()()の間違いだろう?

 民がどうなろうと、あの方の聖衣は汚れないらしい」


 囁き声は、決して小さくはない。むしろ、わざと聞こえるように調整されているとすら思えるほどだ。声は背後から、あるいは柱の陰から、方向を定めないまま流れてくる。誰が言ったのかは分からないが、確かに“向けられて”いた。


 向けられた声の先には、一人の神官が歩みを進めていた。

 その整った顔立ちは、均整が取れており、装飾の少ない神官服でさえ、彼が纏うと特別な意味を持つように見える。彼が身にまとう埃一つ許されない純白の神官服、その裾は長く、磨き上げられた床をなぞるたび、かすかな衣擦れの音を立てた。儀礼のための衣装。動きやすさより、象徴性を優先したものだろう。


 大司教レイ=アルヴァスティアは、歩みを止めない。


 腰まで届く銀白の髪は、後ろでひとつに結われている。回廊の採光を受けるたび、淡く光を反射してきらりと揺れた。その一瞬一瞬が、彼の持つ神々しい美しさをいっそう際立たせている。


 若くして大司教の位に選ばれた理由は、疑うまでもない。比類なき神聖力――それは確かに大きな要因だろう。だが同時に、誰もが認めるその神殿にふさわしい美貌もまた、選定の理由に含まれているのだと、人々は皆思っていた。

 

 彼は、微笑んでいた。誰かに向けたものではない。誰かを意識したものでもない。ただ、いつも通りの、穏やかな微笑。その表情を真正面から向けられた王宮勤めの若い文官が、あまりの美しさに思わず足を止め、息を詰める。だがレイは気づかない。あるいは、気づいていても、気にしなかった。


 レイの隣に駆け寄る青年――大司教補佐のエリオだけが、ぎゅっと唇を噛みしめていた。


「……失礼すぎます」


 声は低く抑えられているが、怒りは隠せていない。眉間に寄せられたしわも、その感情を物語っている。ただ、身長はレイより一回り小さく、加えてまだ少年の面影を残した顔立ちのせいで、鋭さよりも悔しさの方が前に出ていた。エリオの神官服は、レイのものより装飾が少なく、実務向けだった。腰には小さな鞄を下げ、歩幅は無意識に主に合わせられている。


「いつものことですよ」


 レイは、エリオの方へほんの少しだけ顔を向け、苦笑するように言った。その動きに合わせて、銀色の髪が静かに揺れる。


「それに……元はと言えば、私があまり表に出ないのが原因ですから」


「そんな言い方……!」


「事実です」


 責める調子はない。かといって、自嘲でもなかった。


 まるで天気の話でもしているかのような、淡々とした声。エリオはそれ以上言葉を続けられず、視線を落とした。怒りと悔しさと、主を尊敬する気持ちが、ないまぜになる。


 今日、レイが神殿を出て王宮内を歩いている理由は明確だった。王からの呼び出しである。


 神殿と王宮は同じ敷地内に存在しているとはいえ、その広さは一つの街に等しい。移動には常に馬車を使う。レイとエリオも例に漏れず、王宮の正門まで馬車で訪れ、そこからは案内役の侍従に導かれて回廊を進んでいた。


 やがて、侍従が立ち止まり、恭しく頭を下げる。


「大司教様。こちらでございます」


 重厚な扉が、静かに開かれた。


 レイは一度だけエリオに視線を送り、その意図を察したエリオは扉の外で立ち止まり、軽く頭を下げる。


 レイは一人、部屋の中へと足を踏み入れた。


 謁見室は、想像していたよりも静かだった。高くせり上がった天井には、歴代の王と神々の逸話が描かれた壁画が連なっている。だが、その壮麗さを見上げる者はいない。視線は自然と正面、王座へと集められていた。床は磨き上げられた大理石で、足を踏み出すたび、音がわずかに反響する。声も同じだった。発した言葉は、天井へと吸い上げられるように広がり、意味だけを残して消えていく。柱には王家の紋章が刻まれ、その影が床に濃く落ちている。光は高窓から差し込んでいるはずなのに、室内はどこか薄暗く、時間の感覚が曖昧だった。


 沈黙は、重さを持ってそこにあった。誰かが息を吸うだけで、空気が揺れるのが分かる。言葉を選ばなければならない場所だと、否応なく理解させられる。


 この場では、感情も、個人も、不要だ。求められるのは、ただ「役割」だけだった。


 レイが立たされたのは、玉座へと続く空間の中央。床が一段低く沈み、自然と視線が集まる場所。まるで劇場の舞台に立たされた役者のように、どこからでも見下ろされ、見上げられる位置。


 左右には半円状に設えられた段上の席があり、宰相や重臣たちが腰を下ろしていた。

 その視線が、レイが部屋に入るのと同時に一斉に向けられる。露骨な感情は読み取れない。ただ、嫌悪、警戒、いくつもの感情が重なり、空気がわずかに張り詰めた。


 そして、正面――さらに高く設えられた壇上には、薄いレースの帳が垂らされている。その向こうに、王の影があった。姿形は曖昧だが、そこに“王がいる”という事実だけが、場の空気を支配している。


 その空間に、すでに一人、立っている者がいた。


 正装を身にまとった男。

 王国騎士団長、ヴァルド=クロイツ。


 背は高く、体格は良い。荒削りな顔立ちだが、よく見れば整っており、立ち姿だけで歴戦の気配が伝わってくる。微動だにせず立つ姿は、彫像のようだった。呼吸すら、意識しなければ気づかないほど静かだ。


 レイは、ヴァルドに視線を向ける。その気配を察したのか、ヴァルドは視線をこちらに向けることなく、低い音で舌打ちをした。少し見つめすぎてしまったかもしれない。一人で反省しながら、レイは視線を目の前の壇上に戻した。


 扉が閉まる音が響き、形式的な挨拶が交わされる。続いて、宰相と思しき男が一歩前に出た。


「結界の核が、魔物の瘴気による執拗な侵食によって機能不全に陥った」


 場がざわめく。


 結界の核――国を守る要。魔物の発生を抑制するための“楔”。


(……魔物が?)


 レイは内心で思考を巡らせる。

 結界の核は、ただの魔石ではない。

 それを汚染できる魔物の存在に、心当たりはない。


 宰相は一拍だけ間を置き、続けた。


「もっとも――完全に破壊されたわけではない」


 ざわめきが、わずかに沈む。


「核に残された神聖力が、辛うじて結界を保っている。だがそれは、恒久的なものではない」


 言葉が、重く落ちる。


「残滓のように留まった力が尽きれば、結界は失われる。魔物の侵入が始まるのは、その後だ」


 つまり――

 まだ被害が出ていないのは、時間を前借りしているに過ぎない。


 レイは静かに理解した。


 すでに壊れたのではない。

 壊れ()()()()()のだ。


 だからこそ、猶予は短い。


 帳の向こうから、王の声が響いた。


「浄化に赴ける者は限られる。

 大司教レイ=アルヴァスティア、そなたが向かえ」


 名を呼ばれた瞬間、左右からの視線が一斉に集まる。レイは気にした様子もなく微笑み、そして静かに一礼した。


「承りました」 


 拒否権などはもちろんない。最初から決められていた()()を告げる。高い天井と重厚な壁が、言葉の一つ一つを飲み込み、余韻だけを残していく。


 浄化のための巡行は、往復でおよそ六ヶ月。

 結界の核は、王都から遠く離れた場所にある。国境に近い、深い森の奥。街道は途中で途切れ、人の手が入らなくなって久しい土地だ。

 その森は、古くからこう呼ばれていた。


 ――竜哭の森。


 理由を正確に語れる者は、もういない。

 ただ一つ、共通して伝えられていることがある。


 古の竜が、眠っている。


 討たれたのか、封じられたのか。

 あるいは、ただ眠りについただけなのか。


 真実を知る者はいないが、ひとつだけ確かなことがあった。あの森は、結界の核を置くには、あまりにも危険な場所だということ。


 だが同時に――

 強大な存在の近くでなければ、あれほどの神聖力を安定して保てなかったのも、また事実だった。


 宰相の視線が、自然とヴァルドへ向く。


「ゆえに、護衛は通常の随行騎士では足りぬ」


 王国騎士団長。

 剣と判断力、その両方を備えた者。

 王の声が部屋にとどろく。


「護衛として――

 王国騎士団長ヴァルド=クロイツ。ならびに、選抜された随行騎士を伴うことを命ずる」


 それは命令であり、同時に――責務の確認でもあった。


 「――出立は三日後とする」


 淡々と告げられた宰相の声に、室内の空気がわずかに張り詰めた。


「結界の核に生じた穢れの滞留は、これ以上放置できぬ段階にある。

 大司教殿には、早急な巡行と浄化を命じる」


 謁見は、それ以上の発言を許さず幕を閉じた。


 退出の許可が下りると、ヴァルドは一礼し、振り返ることなく踵を返した。その足取りは迷いがなく、扉の向こうへとあっという間に消えた。挨拶の一つも交わせなかったなと少し残念に思いながら、レイもそのあとに続き部屋を出る。扉を離れるにつれ、人の気配が薄れていく。張り詰めていた空気が、ようやく肺に戻ってくるようだった。


 扉の外で待っていたエリオが、首をかしげる。


「騎士団長殿と、一緒だったのですか?」


「ええ」


 二人は案内役に導かれ、来た道を戻る。その道中で先ほどの話の要点をまとめながら、エリオに伝える。「結界の核の異常」という言葉を聞いたエリオは、一瞬だけ青ざめた。だが次の瞬間には、唇を引き結び、表情を引き締める。


「……浄化のための六ヶ月の巡行。そして、出発は三日後、ですか」


 確認するような声音だったが、内心の動揺は隠しきれていなかった。エリオは思わず足を止める。小さく零れた呟きには、抑えきれない焦りが滲んでいた。同時に、頭の中では必要な準備が次々と浮かび上がる。


「巡行用の聖具、浄化儀式の調整、薬草の選定……通常なら、最低でも一週間は必要です」


 補佐官としての責任感が、そのまま言葉になっていた。それでも――隣を歩くレイの足取りは、少しも変わらない。


「そんなに気を張らないでください、エリオ」


 穏やかな声だった。責めるでも、諭すでもない。ただ、当たり前のことを告げるような響き。


「巡行に支障がなければ、細かな不備など問題にはなりません」


 エリオが顔を上げると、銀色の髪がわずかに揺れた。そこにあるのは、いつもと同じ柔らかな微笑。


「貴方が共に来てくれれば、それで十分です」


 一瞬、言葉を失う。


 期待されている、というより――

 当然のように、隣にいる前提で語られたその言葉が、胸に静かに残った。やはりこの人にはかなわない、ふとそんなことを思ってしまったなんて本人には一生伝えないけど、などと考える。


「……本当に、レイ様はいつも、素でそういうことを言うんですから……」


 レイは小さく首を傾ける。その口元には微笑が残っていた。


「一緒に来てくれるでしょう?」


 問いかけの形を取ってはいるが、そこに迷いはない。返答は、すでに決まっていると分かっている声音だった。エリオは一度、深く息を吸い、「当たり前です」と静かに頷いた。



――――――――――――


 

 神殿へ戻るための長い回廊を進む。レイの頭の片隅にはとある疑問が残っていた。


(……結界の核が、魔物の瘴気による執拗な侵食によって機能不全、ですか)

 

 結界の核には、かつてこの地に呼び出された聖女が作ったという伝説がある。

 

 結界の核は、レイも一度だけ実際に目にしたことがある。

 そのあまりの神聖力の強さに確信した、あれほどの神聖力は過去にも、この先も存在しないと。

 

 そしてあれが壊されるときがあるとすれば、それは――世界の滅びと同義であると。

 

 それほどの存在が、今、機能不全に陥ったという。

 完全な崩壊ではない。

 だが、時間の問題だ。


(……核が耐えているのは、残された神聖力のおかげ)


 ならば逆に言えば、何かが、確実に削り取っている。


 通常の魔物ではありえない。

 まして、あの森で。


 レイの脳裏に、かつて見た森の景色がよぎる。

 重く澱んだ空気。

 静かすぎるほどの沈黙。


 そして――

 地の底から、かすかに響いてくるような、

 “何か”の気配。


 胸の奥に、微かな違和感が灯る。


 だが、今はまだ、形を持たない。


 近づいてくる馬車の音を合図に、自然と背筋を伸ばし、呼吸を整える。彼は再び“大司教”の顔へと戻った。


「さて……忙しくなりそうですね」


 その呟きは、誰の耳にも届くことなく、風に溶けて消えていった。

レイとヴァルトは同じ26歳。

エリオは20歳。

王様は50代くらいのイメージ。

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