第8話『残光の地図』
翌日、海星館の空気はいつもと同じはずなのに、私の吸い込む息は、ほんの少しだけ違っていた。
解説台の隅に置いた、澪にもらった星座の栞。それに視線を落とすたびに、昨日の夕焼けや、澪の笑顔が不意に蘇り、胸の奥が静かに温かくなる。そのたびに私は、誰に見られるわけでもないのに、慌てて首を振って作業に戻った。明らかに、いつも通りではなかった。
「詩織、あんたさあ」
案の定、昼過ぎにやってきた凪は、私の顔を見るなり、じっとりとしたいやらしい視線を向けてきた。
「昨日から、なんか雰囲気違うよね?」
「……そんなことない」
「ある。絶対ある。で、どうだったのよ、例の子とのお出かけは」
「……別にお出かけっていうか、ただ町を案内しただけ」
「はいはい。それで? どこ行って、何話したのよ」
根掘り葉掘り聞いてくる凪に、私はうまく答えることができない。防波堤で海の話をしたこと、佐伯堂で写真集を見たこと。事実を並べることはできても、その時に感じた、言葉にならない空気や感情を、どう説明すればいいか分からなかった。私のそんな歯切れの悪い様子に、凪は何かを察したように、意味ありげにニヤリとした。
その日の午後、澪は海星館にやってきた。
「こんにちは、詩織さん」
今日は、洗いざらしのシンプルな白いシャツに、カーキ色のショートパンツを合わせている。彼女がそこにいるというだけで、館内の空気の密度が変わるような気がした。私の呼吸が、少しだけ浅くなるのを感じる。
「これ、昨日のお礼。よかったら、皆で食べて」
そう言って彼女が差し出したのは、町のケーキ屋の小さな箱だった。
「……ありがとう」
「あと、詩織さんにも見せたくて」
澪はそう言うと、昨日買ったばかりの写真集『残光の地図』を、大事そうに解説台の上に置いた。
「二人で見ない?」
その誘いを、私が断れるはずもなかった。
私たちは、観覧席の一番前の列に並んで腰掛けた。肩が触れ合いそうな距離に、意識がすべて吸い取られていく。私は、息を詰めて、ただ硬直していた。
澪が、ゆっくりとページをめくる。二人きりのプラネタリウムに、乾いた紙の音だけが響いた。錆びた遊園地の観覧車、蔦に覆われた教会の椅子、廃線になった駅のホーム。どの写真も、静かで、物悲しい。でも、澪の言う通り、そこには確かに、温かい光が宿っているように見えた。
「私も、こんなふうに撮ってみたいな」
不意に、澪が呟いた。
「海星館がなくなる前に、この場所の『最後の光』を、ちゃんと写真に残したいんだ」
その横顔は、昨日見た時と同じくらい、真剣だった。彼女は写真集を閉じると、私の方に向き直った。その瞳が、まっすぐに私を捉える。
「それで、お願いがあるんだけど」
ゴクリと、喉が鳴った。
「モデルに、なってくれないかな」
「……え?」
「この、海星館と一緒に、詩織さんを撮りたいんだ」
時間が、止まったようだった。モデル? 私が?
澪の言葉の意味が、うまく理解できない。喜びよりも先に、大きな戸惑いが、私を支配した。どうして、風景や建物だけじゃなくて、私を?
「私を……? どうして……?」
やっとのことで絞り出した問いに、澪は答えなかった。ただ、その真剣な瞳で、私を見つめ返してくる。その眼差しは、まるで私の心の奥まで見通そうとしているようで、私は、逃げることも、頷くこともできずに、ただ動けなくなっていた。