第7話『海に浮かぶ船、私の聖域』
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問いかけようとした私の言葉は、埃っぽい夏の光の中に溶けて消えた。
月島さんは、私の視線に気づかないまま、その写真集の世界に没頭している。私は、彼女の邪魔をしてはいけないような気がして、一歩下がり、壁の本棚に背中を預けた。心臓が、少しだけ速く打っている。彼女の横顔から、目が離せない。
ふと、澪が我に返ったように顔を上げた。目が合うと、彼女は少しだけ気まずそうに笑った。
「あ、ごめん。夢中になっちゃった」
「ううん……」
「この本、買ってもいいかな」
「もちろん」
澪は、その『残光の地図』という写真集を大事そうに胸に抱えると、カウンターへ向かった。佐伯さんが「ほっほっ、いい本を選んだねえ」と言いながら、慣れた手つきで包装してくれる。そのやり取りを、私はぼんやりと眺めていた。
佐伯堂を出ると、太陽は随分と西に傾いていた。午後の強い日差しは和らぎ、町全体が、どこか物憂げなオレンジ色に染まり始めている。長く伸びた自分たちの影が、まるで別の生き物みたいに、アスファルトの上を滑っていく。もう、今日という一日が終わってしまう。そう思うと、胸がきゅっと締め付けられた。
帰り道、私たちはしばらく無言で歩いた。古書店での出来事の後、どんな顔をして、何を話せばいいのか分からなかった。気まずい沈黙を破ったのは、澪の方だった。彼女は、買ったばかりの写真集を抱え直し、愛おしそうにその表紙を撫でた。
「この写真家の撮る光、好きなんだ」
「光……?」
私が聞き返すと、澪はこくりと頷いた。
「うん。ただ明るいだけじゃなくて、寂しさの中にある、温かい光。……なんだか、詩織さんが話してくれた、星の物語みたいだなって、さっき思った」
その言葉に、私は息を呑んだ。星の物語。私が、誰にも理解されないと諦めていた、私の世界の中心。それを、彼女は覚えていてくれた。それだけじゃない。彼女自身の「好き」と、重ねてくれた。
今までずっと、分厚いガラス越しに世界を見ていたような感覚だった。でも今、澪の言葉が、そのガラスに小さなヒビを入れた気がした。ヒビの隙間から、温かい空気が流れ込んでくる。
「今日の場所、全部すごく良かった」
澪は続ける。
「詩織さんの見てる世界を、少しだけ見せてもらえた気がする。ありがとう」
「理解されたい」なんて、いつからか願うことさえ忘れていた。それなのに。
もっと知りたい、という気持ちの奥で、もっと分かってほしい、という我儘な感情が生まれていることに気づく。まだ名前をつけることのできない、このどうしようもない気持ち。私は、その正体から逃げるように、自分のスニーカーのつま先を見つめた。
町の駅前で、私たちは立ち止まった。ここが、今日の終着点。
「今日は、本当にありがとう。すごく、楽しかった」
澪が、少しだけ名残惜しそうに笑う。
「……私も」
そう答えるのが、精一杯だった。もっと気の利いたことを言いたいのに、言葉が出てこない。
「あのさ」
澪は、何かを言いかけて、やめた。少しだけ躊躇うような間があって、そして、意を決したように私を見た。
「また、誘ってもいいかな?」
その問いに、私は、今度は迷わなかった。胸の奥から込み上げてくる熱い何かと一緒に、はっきりと頷いた。
「……うん」
「よかった」
澪は、心から嬉しそうに、花が咲くように笑った。
澪と別れ、一人で家路につく。夕焼けが、空と海を茜色に染めていた。
右の手には、いつの間にか澪が握らせていた、佐伯堂の栞が一つ。古い星座が描かれた、小さな紙片。
私は、「星の物語みたい」という澪の言葉を、何度も心の中で繰り返していた。自分の見ていた孤独な世界が、初めて誰かと分かち合えたような気がした。その、今まで知らなかった喜びが、胸の奥を熱くする。
この気持ちは、一体何なのだろう。
夏の終わりの空に浮かんだ一番星に、答えの出ない問いを、そっと投げかけた。
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