第6話『画面の向こうの、知らない君』
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風が、私の言葉を攫っていく。潮の香りと、遠い波の音だけが、沈黙を埋めていた。
澪は、私が指し示した丘の上のドームに、静かにカメラを向けていた。何度かシャッターを切った後、彼女はレンズを私に向けた。ファインダー越しに、じっと私を見つめている。その視線に気づかないふりをして、私は海を見つめ続けた。
「……どうして、ここが好きなの?」
やがて、澪が尋ねた。
「海星館が、一番よく見えるから」
「うん。それだけ?」
それだけ、じゃない。私はゆっくりと息を吸い込んだ。言葉にするのは、少しだけ勇気がいった。
「ここからだと、海星館が、海に浮かぶ船みたいに見えるから」
「船……」
「そう。どこか遠い星へ向かう、一隻の船。……そう思うと、あの場所に閉じ込められているんじゃなくて、旅の途中なんだって思える。終わりに向かっているんじゃなくて、どこかへ向かっているんだって」
言い終えると、私は澪の方を見た。彼女はカメラを下ろし、私と同じように、丘の上のドームを見上げていた。その横顔は、何を考えているのか読み取れなかったけれど、私の拙い言葉を、馬鹿にしたりはしていないことだけは分かった。
「旅の、途中か。……そっか」
澪はぽつりとそう呟くと、「いいこと、聞いた」と、小さく笑った。
防波堤を後にして、私たちは町の裏路地を歩いた。古い石垣の上で昼寝している三毛猫に、澪が夢中でカメラを向ける。自分の口から、昔の話が自然と出てきたことに、少し驚いた。澪といると、私の閉じた世界の扉が、ほんの少しだけ、軋みながら開いていくような気がした。
「次の場所は、あそこ」
私が指さしたのは、海星館の隣に、ひっそりと佇む古い建物だった。『佐伯堂』。ここも、私の好きな場所。
店の引き戸を開けると、インクと古い紙の匂いが、私たちを迎えた。奥のカウンターで店番をしていた佐伯さんが、顔を上げて目を丸くした。
「おや、詩織ちゃん。……お友達かい? ほっほっ、これは嬉しいのう。詩織ちゃんがお店に誰かを連れてくるなんて、初めてじゃないか?」
佐伯さんの純粋な歓迎の言葉に、私はどう反応していいか分からず、頬が熱くなるのを感じた。
「こ、こんにちは、佐伯さん。えっと……こちらは、月島さん」
私がもじもじしながら言うと、隣で澪が「こんにちは、月島澪です。お邪魔します」と、綺麗な角度でお辞儀をした。「いやいや、ようこそ」と、佐伯さんは本当に嬉しそうに目を細めた。
澪は、興味深そうに店内を見回すと、奥にある美術書のコーナーに吸い寄せられていった。指先で背表紙をゆっくりとなぞり、その中から、一冊の分厚い写真集を抜き取る。そのタイトルは『残光の地図』。表紙には、霧の中に佇む古い灯台の写真が使われていた。
彼女は近くの椅子に腰掛けるでもなく、その場で立ったまま、まるで世界に自分と本しかないかのように、夢中になってページをめくり始めた。
ページをめくる指先が、まるで宝物に触れるかのように、とても優しかった。彼女の周りだけ、空気が張り詰めている。時折、小さく息を呑む音が聞こえる。その横顔は、私が今まで見たどの表情よりも真剣で、そしてどこか、祈るように寂しそうに見えた。私は、その姿に声をかけるのをためらい、少し離れた場所からただ黙って見つめていた。
しばらくして、意を決して、私はそっと彼女に近づいた。
「……好きなの? そういう写真」
私の声に、澪は一瞬だけ動きを止め、それからゆっくりと頷いた。彼女は、錆びたメリーゴーラウンドが写ったページを開いたまま、それを私に見せた。
「これ、見て。……すごく静かなのに、たくさんの子供たちの笑い声が、聞こえてくる気がしない?」
その問いに、私はどう答えていいか分からず、ただ写真を見つめた。確かに、止まっているはずの馬たちが、今にも動き出しそうな気配をまとっている。
澪は、自分に言い聞かせるように、静かに呟いた。
「うん。……綺麗だと思う。役目を終えて、忘れ去られて、もうすぐ本当になくなってしまう。その直前の、最後の光みたいなものが、ここに写ってる気がするから」
その言葉に、私はハッとした。
最後の光。なくなっちゃいそうな場所。
私の頭の中で、出会った日に彼女が言った、あの無遠慮な言葉が蘇る。
――『この、静かで、もうすぐなくなっちゃいそうな場所と、星野さんの雰囲気が』
あの言葉は、単なる気まぐれや、無神経な感想ではなかったのかもしれない。彼女は、私と、この海星館に、写真の中の廃墟と同じ、「最後の光」を見ていたのだろうか。だとすれば、それは一体、どういう意味なんだろう。
私は、月島さんが見つめる写真集のページと、彼女の真剣な横顔を、交互に見つめていた。彼女の抱える「何か」に、初めてはっきりと触れた気がした。
月島さんは、どうして……。
どうして、そんなものばかりに惹かれるんだろう。
そう問いかけようとした私の言葉は、けれど、夏の午後の、埃っぽい光の中に溶けて消えた。
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