第4話『解説台の置き手紙』
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夜が明けても、私の世界は何も変わらなかった。
スマートフォンの冷たい画面を見つめていた昨夜の自分が、遠い昔のことのように思える。結局、来るはずのない連絡を待っていた自分に気づいて、一人で勝手に失望しただけ。馬鹿みたいだ。
いつもと同じ時間に家を出て、いつもと同じ防波堤沿いの道を歩く。夏の朝の生ぬるい空気が肌にまとわりつく。何も起こらなかった。その事実に、心の大部分は確かに安堵していた。私の静かな世界は守られたのだ。面倒なことにならなくて済んだ。そう自分に言い聞かせると、昨日までのささくれだった気持ちが嘘のように、心は静かに凪いでいた。
でも、その凪いだ心の底には、まるで水底の石のように、小さな寂しさが一つ、ころりと転がっているのも分かっていた。
海星館の扉を開け、ひやりとした空気を吸い込む。この静寂こそが、私の日常。私は、この場所で、ただ静かに終わりを待つ。それでいい。私は黙々と、観覧席のシートを一つずつ布で拭いていく。祖父が入院してから、この作業は私の日課になっていた。誰も座ることのない椅子を、来る日も来る日も磨き続ける。その不毛さが、今の私にはむしろ心地よかった。
ギィ、と。
背後で、あの重たい扉が軋む音がした。
まさか、と思った。恐る恐る振り返ると、そこに、月島澪が立っていた。
白いTシャツに、今日はベージュのチノパンを合わせている。昨日までとは違う、少しボーイッシュな服装。逆光で表情はよく見えない。けれど、彼女がそこにいるという事実だけで、凪いでいたはずの私の心は、再び大きく波立った。
「……こんにちは、星野さん」
澪は、少しだけ緊張した声で言った。そして、ゆっくりと私の方へ歩いてくる。その手は、今日はカメラを握りしめていなかった。
「昨日、来れなくてごめんなさい。少し、考え事をしてて」
「……別に」
謝られる理由なんてないのに、私は素っ気なく答えることしかできない。澪は、そんな私の態度を気にした様子もなく、言葉を続けた。
「昨日、隣の佐伯さんと、少しお話ししたんです。星野さんのおじいさんのこととか、この海星館ができた時のこととか」
その言葉に、私は顔を上げた。澪の瞳は、真っ直ぐに私を射抜いていた。
「それで、やっぱりもっと星野さんのこと、この場所のこと、ちゃんと知りたいって思いました。ただの、古い建物としてじゃなくて」
彼女は一度、ぎゅっと唇を結ぶ。
「あの……一昨日、私が置いていったメモ、もし迷惑じゃなかったら……連絡先、交換してもらえませんか?」
正面からの、あまりに誠実な問いかけだった。
断ることは、簡単だ。「ごめんなさい」と一言、言えばいい。そうすれば、私の世界は守られる。この静寂も、平穏も、傷つくことのない日常も。
でも、本当にそれでいいのだろうか。
脳裏に、佐伯さんの語っていた、光に満ちた海星館の姿がよぎる。そして、昨夜感じた、あの冷たい失望の味。
――このまま、何も変えずに、終わらせてしまって、本当にいいの?
私は、布を握りしめていた手を開くと、おぼつかない足取りで解説台に向かった。ポケットからスマートフォンを取り出す指先が、微かに震えているのが自分でも分かった。
「……これで」
声も、きっと震えていた。澪に差し出したスマートフォンの画面には、連絡先交換用のQRコードを表示させてある。まるで重たい石でも持っているかのように腕が震え、顔を上げることができない。
澪が、私のすぐ隣に立つ気配がした。シャンプーの、甘くて爽やかな香りがふわりと鼻をかすめる。その近さに、息が詰まった。
「ピッ」
無機質な電子音が、静かな館内に響き渡る。心臓が、その音に合わせて大きく跳ねた。これで、繋がってしまった。後戻りは、もうできない。
「ありがとう。……登録、できたかな」
澪が、自分のスマートフォンの画面をこちらに見せてくる。そこには、「星野 詩織」という、見慣れたはずの自分の名前が表示されていた。私のスマートフォンにも、「月島 澪」という新しい名前が追加されている。その事実が、まだ現実のものとは思えなかった。私は、ただこくこくと無言で頷く。
「よかった」
澪が微笑む気配がした。沈黙が落ちる。何か、何か言わなくては。でも、喉が渇いて、どんな言葉も出てこない。ここで黙っていたら、また、いつもの自分に逆戻りしてしまう。その恐怖が、私の背中をほんの少しだけ押した。
「……あの」
か細い、自分のものではないような声が出た。澪が「ん?」と、不思議そうに首を傾げる。
私は床の一点を見つめたまま、ありったけの勇気をかき集めて、ほとんど音にならないような声で言った。
「……よろしく、お願いします」
これが、今の私にできる、精一杯の挨拶だった。
一瞬の間の後、澪が息を呑む気配がした。そして、驚いたように少し目を見開き、ふわりと、花が綻ぶように笑った。
「……うん。こちらこそ、よろしくね、詩織さん」
その、今までで一番優しい声と笑顔に、私はもう、顔を上げることができなかった。
「それで、もしよかったら、なんだけど」
澪は、少し照れたように視線を泳がせた。
「明日……町を、案内してもらえませんか? 海星館だけじゃなくて、星野さんの、好きな場所」
私の、好きな場所。
そんなもの、この海星館の他にあるだろうか。
でも、私は気づいていた。澪が知りたいのは、有名な観光スポットなんかじゃない。私の見ている世界を、彼女は少しだけ覗いてみたいのだと。
「……はい」
声になったかも分からないくらい、小さな返事。けれど、それは確かに、彼女に届いたらしかった。
「ほんと? よかった……!」
澪は、心の底から嬉しそうに破顔した。
私と彼女の間に、初めて、「明日」という約束が生まれた。
海星館の外で会う、初めての約束。その事実が、私の胸に、痛みにも似た、甘い予感を広げていた。
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