第35話『「何でもないよ」の嘘』
あの日から、澪からの連絡はなかった。
私の部屋で、彼女が涙を浮かべていた光景が、何度も脳裏に蘇る。私にできることは、ただ待つことだけだった。彼女が、自分の心の中を整理できるまで。彼女が、また私に会いたいと思ってくれるまで。
週が明けて、海星館で一人、ぼんやりと過ごしていると、凪がやってきた。
「よっす。……あれ、月島さんは?」
「……今日は、まだ」
「ふーん。あんたら、こないだなんかあったんでしょ。佐伯さんから聞いたよ。おじいさん同士がダチだったって? マンガかよ」
凪は、からかうような口調で言いながらも、私の顔を心配そうに覗き込んでいる。
「で、なんか進展は?」
「……別に」
「別に、じゃないでしょ。あの子、なんか思い詰めてたじゃん」
凪の言葉に、私は何も言い返せなかった。
その日の午後、私は意を決して、スマートフォンを手に取った。
震える指で、メッセージを打ち込む。
『この間の、ハーブティー、まだ残ってるんだけど。よかったら、また飲みに来ないかな』
自分から誘うなんて、初めてのことだった。送信ボタンを押した後、心臓が早鐘のように打つのを感じる。
数分後、画面に「既読」の印がついた。そして、返信が来る。
『ごめんね。今、ちょっとバタバタしてて』
その、当たり障りのない、でも、明らかに距離を置こうとしている文章に、私の心は、ずきりと痛んだ。
さらに、追い打ちをかけるように、次のメッセージが届く。
『詩織さん、しばらく、海星館に行くのもお休みするね。ごめん』
どうして、と問い詰めたかった。でも、私にそんな資格はない。
画面に表示された「ごめん」という二文字が、まるで分厚い壁のように、私と彼女の間を隔てているように思えた。
『分かった。気にしないで』
そう返信するのが、精一杯だった。本当は、気にするな、なんて言いたくない。会いたい。話がしたい。でも、その言葉を飲み込むしかなかった。
その日から、本当に、澪は海星-館に姿を見せなくなった。
ぽっかりと穴が空いたような、静かな時間。以前は、この静寂が私の日常だったはずなのに、今はもう、ただの寂しい時間でしかなかった。
私は、海星館の椅子に座り、祖父の古いカメラをただ、意味もなく撫でていた。
ファインダーを覗けば、そこに、彼女がいるような気がした。
でも、実際に覗き込んでも、そこには誰もいない、空っぽの空間が広がっているだけ。
「何でもないよ」
そう言って、私の前から姿を消した彼女。
その嘘が、夏の終わりの日差しの中で、私の心を、じりじりと焦がしていた。
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次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です。
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