第3話『ファインダー越しの侵入者』
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机の隅に置かれた、小さな紙切れ。
月島澪が残していったそれは、まるで私の心を試すかのように、そこにあった。白い紙に、青いインクで書かれた、見慣れない名前と数字の羅列。触れることすら躊躇われて、私はただ、遠巻きにそれを見つめることしかできなかった。連絡先を交換する。そんな、ごく当たり前の行為が、私にとっては見えない境界線を越えることのように思えた。越えてしまえば、もう、元の静かな場所には戻れない。
結局、その日はメモに触れられないまま、海星館の扉を閉めた。
次の日、私はどこか落ち着かない気持ちでいた。澪は、今日も来るのだろうか。来たら、私はどんな顔をすればいい? そんな考えが頭の中を巡り、投影機のレンズを磨く手も、どこか覚束ない。
「おーい、詩織! 生きてるかー?」
その声は、静寂に慣れた耳には少しばかり大きすぎた。勢いよく開かれた扉から、太陽の匂いを連れて現れたのは、日高凪だった。高く結い上げたポニーテールが、快活な彼女の動きに合わせて弾んでいる。日に焼けた肌に、バレーボール部のロゴが入ったドライTシャツがよく似合っていた。
「凪。声が大きい」
「だって、電気もつけずにこんなとこにいたら、幽霊かと思うじゃん。はい、差し入れ」
凪はそう言って、コンビニの袋から取り出したアイスキャンディーを、解説台の上にことりと置いた。私の返事を待つことなく、当たり前のように隣の椅子に腰を下ろす。
日高凪。中学からの、私の唯一と言っていい友人。いつも一人で本を読んでいた私に、彼女の方から一方的に話しかけてきたのが始まりだった。「あんた、面白い顔して本読むね」。それが、最初の言葉。以来、凪はこうして、何かと理由をつけては私に干渉してくる。彼女は、私が星や神話が好きなことを、別に理解してはいない。「難しくてよく分かんない」といつも言う。でも、決してそれを馬鹿にしたりはしなかった。ただ、そこにいる私を、そのまま受け入れている。だから、私は凪の隣にいることができた。
凪が楽しそうに部活の話を始めた、その時だった。彼女が無造作に置いたバッグの端が、例のメモに触れて、ひらりと床に落ちた。
「ん? なにこれ」
凪がメモを拾い上げる。その動きに、私の心臓が凍った。
「つきしま……みお? ……へえ、女の子みたいな名前。誰これ、あんたの知り合い?」
凪は、何か面白いものを見つけたように、ニヤニヤしながら私を見た。
「あんたが誰かと連絡先交換とか……。で、誰なの? 男? 女?」
「……女の、人」
私の答えに、凪は「マジで!?」と、それまで以上に目を輝かせた。
「女の子の友達できるチャンスじゃん! あんた、いつの間にそんな……!」
私が「……最近、時々来る人」と、ぼそりと付け加える。
「来る人って……お客さん? え、こんな寂れたところに?」
「……寂れたって言うな」
「ごめんごめん! でも、すごいじゃん! で、連絡したの?」
「……するわけない」
「なんで!?」
「……必要ないから」
私の答えに、凪は心底呆れたという顔で、大きなため息をついた。
「はぁー……。詩織さあ、ほんとそういうとこ。友達、増えるかもよ?」
「……別に、いらない」
「はいはい、分かりましたよーだ。まったく、この石頭」
凪はそう言って、ぷいっとそっぽを向いた。彼女は、私がなぜ頑ななのか、本当のところは分かっていない。だから、彼女の言葉は時に私の心を苛立たせるけれど、同時に、その分からなさが私を救ってくれている気もした。
その時だった。入れ替わるように、海星館の扉がゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、隣の古書店「佐伯堂」の店主、佐伯さんだった。
「おお、賑やかじゃのう」
猫背気味の背中と、人の良さそうな笑顔。
「佐伯さん、こんにちは」
「こんにちはー!」
私と凪が挨拶をすると、佐伯さんは「ちょっと涼みに来ただけじゃよ」と言いながら、一番前の席にゆっくりと腰掛けた。
「しかし、この投影機も、よう働いてくれたもんじゃ」
佐伯さんは、目を細めて投影機を眺めている。その眼差しは、遠い過去を懐かしむ色をしていた。
「わしと、詩織ちゃんのじいさんがな、若い頃に二人で金策に走り回って、やっとのことでドイツから取り寄せたんじゃ。この町に星空を、ってな。最初は、そりゃあすごい人じゃった。立ち見が出るほどで」
佐伯さんの語る言葉は、私の知らない海星館の姿を、ありありと描き出した。立ち見が出るほどのプラネタリウム。たくさんの子供たちの歓声。星空に夢中になる、若い頃の祖父の姿。私の知る、静かで、寂れた海星館とはまったく違う、光に満ちた風景。
「わしらにとっては宝物じゃったが、いつの間にか、時代遅れになってしもうた。……寂しいもんじゃのう」
佐伯さんはそう言って、優しく私の頭を撫でた。「じいさんの分まで、ようやっとるな、詩織ちゃんは」。その温かい手の感触に、張り詰めていた心の糸が、少しだけ緩む気がした。
その日は、結局、澪は来なかった。
凪と佐伯さんが帰り、再び一人になった館内で、私は机の上のメモを、そっと拾い上げた。佐伯さんの話を聞いて、何かが変わったわけじゃない。でも、と思った。この場所が終わるのを、ただ待っているだけじゃなくて……。
家に帰り、夕食を終えても、私はそのメモを机の引き出しにしまったままだった。スマートフォンは、夜の間、一度も震えることはなかった。当たり前だ。連絡先を登録していないのだから、誰かから連絡が来るはずがない。そう頭では分かっているのに、胸の奥で、小さな期待が音もなく死んで、冷たくなっていくのを感じた。結局、私の世界は何も変わらないのだ。それでいいはずなのに、どうしてだろう。窓の外の暗闇が、いつもよりずっと深く、寂しく見えた。
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