第25話『詩織さんの世界、すごく綺麗だね』
夕暮れ時、私の部屋は、凪の快活な声と、少しだけ甘いヘアワックスの匂いで満ちていた。
「ほら、詩織、動かない! 帯、締めるんだから!」
「……苦しい」
「浴衣なんてそんなもん! 我慢!」
凪は、私の背後で、慣れた手つきで帯を締め上げていく。鏡に映る私は、紺色の浴衣に身を包み、凪が結ってくれた髪には、星の簪が揺れていた。それは、全く知らない誰かの姿のようで、落ち着かない気持ちになる。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、澪ちゃん来たかも! 詩織、出て!」
「え、この格好で!?」
私の抵抗も虚しく、凪に背中を押される。ぎこちない足取りで玄関を開けると、そこに、白地に朝顔が描かれた涼しげな浴衣姿の澪が立っていた。髪は、いつもより少しだけ高く結い上げられ、白い首筋が夕暮れの光に照らされている。その、いつもと違う艶やかな姿に、私は息を呑んだ。
「……こんにちは」
「……うん、こんにちは」
澪も、私の姿を見て、一瞬、言葉を失ったように目を見開いた。そして、ふっと、柔らかく微笑む。
「すごく、似合ってる」
そのストレートな言葉に、私の顔に、また熱が集まっていくのが分かった。
三人で連れ立って港へ向かう道は、だんだんと喧騒に満ちていった。提灯の赤い光が家々の軒先を照らし、どこからか聞こえてくるお囃子の音、そして、人々の楽しそうな話し声。カラン、コロンと、慣れない下駄の音が、三つ、重なって響く。
人混みに少し気圧されそうになる。けれど、隣を歩く澪の浴衣の袖が、私の腕に微かに触れるたび、不思議と、心が落ち着いた。
「まずは腹ごしらえっしょ!」
凪の宣言で、私たちは屋台が並ぶ一角へと向かった。凪がりんご飴を頬張り、私が焼きそばのパックを抱えていると、澪が金魚すくいの屋台の前で、子供のように目を輝かせていた。
「やったことないんだ、こういうの」
「意外……」
澪は、初めての金魚すくいに挑戦したが、あっという間にポイを破られ、「あー!」と本気で悔しがっている。その姿がなんだかおかしくて、私は思わず、声を上げて笑ってしまった。
「……あ」
澪が、破れたポイを持ったまま、私を見て、ぽかんとしている。
「……今、笑った」
「え……」
「初めて見たかも。詩織さんが、そんなふうに笑うの」
嬉しそうにそう言う彼女に、私ははっとして、また顔を赤らめるしかなかった。
日が落ち、空に星が瞬き始める。花火が上がるまでには、まだ少し時間があった。
今だ、と思った。
私は、意を決して、肩にかけていた小さな鞄から、双眼鏡を取り出した。
「月島さん、凪。ちょっと、こっち来て」
私は二人を、少しだけ人混みから離れた、港の埠頭の端へと連れて行った。そこからは、町の明かりに邪魔されずに、夜空がよく見えた。
「見てほしい星があるの」
そう言って、私は双眼鏡を澪に手渡す。そして、夏の夜空を指さした。
「あれが、夏の大三角。あの、一番明るいのが、こと座のベガ。織姫星だよ」
私の拙い解説に、澪は、双眼鏡で星を覗き込みながら、静かに耳を傾けている。凪も、隣で「へえー!」と感心したように空を見上げていた。
自分の世界を、自分の言葉で、大切な人たちに伝えている。その事実が、私の胸を熱くした。
遠くで、ヒュ〜〜〜、という音が聞こえる。花火が始まる合図だ。
澪が、双眼鏡から顔を離し、私を見つめた。その瞳は、夜空のどの星よりも、きらきらと輝いていた。
「詩織さんの世界、すごく綺麗だね」
その言葉と同時に、最初の花火が、ドン、という音と共に夜空に大輪の花を咲かせた。
色とりどりの光が、私たちの横顔を、鮮やかに照らし出していた。
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