第20話『確かなものなんて、何もないから』
「今度、一緒にフィルムを買いに行かない?」
澪からのその誘いに、私が頷いてから数日後の週末。私たちは、潮の匂いがしない電車に乗っていた。ガタン、ゴトンと規則正しく刻まれるリズムが、私を海沿いの町から、少しだけ遠い場所へと運んでいく。
隣に座る澪は、窓の外を流れる景色を眺めるでもなく、文庫本に静かに視線を落としていた。その本の背表紙には、私の知らない外国人の名前が記されている。私が知らない世界を、彼女はたくさん持っている。その事実が、少しだけ誇らしく、そしてほんの少しだけ、寂しかった。
電車を乗り継いで着いた隣町は、私の住む町よりもずっと大きく、賑やかだった。行き交う人の多さに気圧されそうになる私の隣で、澪は慣れた様子で、目的のカメラ店へと私を導いた。
店の奥にあるフィルム売り場には、色とりどりの小さな箱が、壁一面に並んでいた。
「うわ……」
その光景に、私は思わず声を漏らす。
「すごい数だね。全部、違うの?」
「うん。メーカーによっても、感度によっても、全然違う色が出るんだよ」
澪は、まるで宝石でも選ぶかのように、楽しそうに箱を手に取って、私に解説を始めた。
「このフィルムは、夕焼けを撮ると赤がすごく綺麗に出るの。こっちは、人の肌を柔らかく写してくれる。ポートレート向き。あ、こっちは粒子が粗くて、ちょっとざらっとした、懐かしい感じの写真になるんだ」
その姿は、海星館で、私が星の話をする時の姿に、どこか似ている気がした。自分の「好き」な世界を、夢中で語る時の、特別な熱。私たちは、違うものを見つめているようで、実は、とてもよく似ているのかもしれない。その事実に気づいた時、私の胸の奥が、静かに熱を帯びた。
フィルムをいくつか選び、会計を済ませた後、澪は「ちょっと寄りたい場所があるんだけど」と言った。そして、バスに揺られて着いたのは、町の外れにある、古びた工業港だった。今はもう使われていない、赤茶色に錆びついた巨大なクレーンが、灰色の空を背景に、まるで恐竜の骨格標本のように静かに佇んでいる。
「……こういう場所が、好きなの?」
潮風に吹かれながら、私は隣に立つ澪に尋ねた。
「うん。落ち着くんだ。もう誰にも必要とされなくなったものが、ただ、ここに在るっていう感じが」
彼女はそう言うと、持ってきたカメラを構え、その錆びた鉄の塊に、静かにシャッターを切った。
私も、彼女の隣で、祖父のカメラを構えた。でも、何を撮ればいいのか分からなかった。この、ただ寂しいだけの風景の、何を切り取ればいいのだろう。
あの時、聞けなかった問いが、再び私の口をついて出た。
「月島さんは……どうして、そういう、なくなっちゃいそうなものばかり、撮るの?」
私の問いに、澪はカメラを下ろし、遠くの海を見つめた。しばらくの沈黙の後、彼女は、まるで自分自身に言い聞かせるように、静かに言った。
「……確かなものなんて、何もないから」
その声は、夕暮れの風に溶けてしまいそうなくらい、儚く響いた。
「形あるものは、いつか全部なくなる。人も、場所も、時間も。……でも、写真に撮れば、その一瞬だけは、永遠になる気がする。それは、本当は嘘かもしれないけど。でも、私はその嘘を、信じたいんだと思う」
その、あまりに寂しくて、達観したような言葉に、私は何も言えなかった。
彼女がファインダー越しに見つめているのは、ただの風景じゃない。消えゆくものたちへの、祈りにも似た、切実な想いなのだ。
私は、彼女のその横顔を、もっと知りたいと、心の底から思った。そして、それと同時に、これ以上、彼女の聖域に踏み込んではいけないような、小さな畏れも感じていた。




