第2話『星のないプラネタリウム』
月島澪が放った言葉は、小さなガラスの破片のように、私の心の柔らかい場所にずっと刺さっていた。「なくなっちゃいそうな場所」。その通りだ。けれど、その事実を、出会ったばかりの彼女に美しいもののように語られたことが、どうしようもなく私を苛立たせた。だから、次の日、彼女が来ないことを心のどこかで願っていた。もう二度と、私の聖域に足を踏み入れないでほしい、と。
それなのに、彼女は来た。
昨日とほとんど同じ時刻。重たい扉が軋む音に心臓が跳ね、顔を上げてしまう。そこに立っていた彼女の姿を、私は昨日よりもずっと鮮明に捉えていた。
白いTシャツは、昨日見たワンピースと同じように、飾り気がないのに上質だと分かる柔らかなコットン生地だった。肩のラインが少し落ちた、ゆったりとしたシルエット。腰から下は、深い海の色を思わせる藍色のロングスカート。薄いリネン素材らしく、彼女が歩くたびに、そして扉の隙間から流れ込む風を受けるたびに、本物の波のように静かに揺れていた。足元は、使い込まれたレザーのサンダル。華奢なストラップが、日に焼けていない白い足首を際立たせている。
昨日よりも少しだけラフなその格好は、彼女の警戒心を少しだけ解いたように見え、それがかえって私を緊張させた。
「こんにちは、星野さん」
澪は、昨日のことなど何もなかったかのように、屈託なく微笑んだ。私はただ、「……こんにちは」と返すのが精一杯だった。色褪せたジーンズと、洗いすぎて首元が少しよれたグレーのTシャツ。海星館の薄闇に溶け込むための、私のための保護色。それに対して、澪の服装は、彼女自身が光源であるかのように、この場所で鮮やかに浮き上がって見えた。
気まずさから、すぐに投影機に背を向け、解説用の原稿が置かれた机に視線を落とす。彼女が、私の隣まで歩いてくる気配がした。
「昨日、ごめんなさい。私、何か失礼なこと言いましたか?」
不意に、真剣な声でそう尋ねられ、私は息を呑んだ。まさか、謝られるとは思っていなかった。顔を上げられずにいると、澪は言葉を続ける。
「なんだか、星野さんを怒らせちゃった気がして。もしそうなら、謝りたくて」
「……怒って、ない」
「でも」
「本当に、怒ってないから」
私は、自分でも驚くほど強い口調で、彼女の言葉を遮っていた。これ以上、踏み込まれたくなかった。私のこの感情は、彼女のせいではない。すべて、私自身の問題なのだから。
「……そう。なら、よかった」
澪はそう言うと、ふっと息を吐いた。そして、昨日と同じようにカメラを構える。カシャッ、カシャッ。静かな館内に、再びシャッター音だけが響き始めた。私は自分の持ち場に戻り、黙々と作業を続けた。会話はない。けれど、昨日までとは明らかに違う、重たい何かが私たちの間に漂っていた。それは気まずさでありながら、同時に、お互いを無視できない存在だと意識し始めた証のようでもあった。
どれくらい時間が経っただろうか。蝉の声が少しだけ遠のいた頃、澪がぽつりと言った。
「この機械、いつからここにあるんですか?」
それは、投影機に向けられた問いだった。
「私が生まれる、ずっと前から。祖父が若い頃に、ドイツから運び込んだものだって聞いてます」
「ドイツから……。すごい」
「もう、部品もないから、壊れたらおしまい。……だから、祖父は毎日、自分の体より丁寧に手入れをしてた」
自然と、言葉が零れた。誰にも話したことのない、私と祖父だけの記憶。話すつもりなんてなかったのに。
「……そうなんだ」
澪は、レンズ越しではない、自分の目で、じっと投影機を見つめていた。その横顔は、昨日までの、物珍しい骨董品を眺めるそれとは違って見えた。まるで、機械の奥にある、誰かの人生に想いを馳せているかのように。
「星野さんは、星、好きなの?」
「……ええ」
「どんなところが好き?」
矢継ぎ早の質問に、私は戸惑う。私の「好き」は、いつだって誰にも理解されなかった。子供っぽいと、現実味がないと、笑われてきた。だから、答えるのが怖かった。
「……物語が、あるところ」
絞り出すように、そう答える。
「星の一つ一つに、星座の一つ一つに、遠い昔の人が考えた物語がある。夜空を見上げることは、世界で一番大きな本を読むことと、同じだから」
言ってしまってから、後悔した。きっと、笑われる。ポエムみたいだって、呆れられる。
けれど、澪は笑わなかった。彼女は静かに私を見つめ、それから、ゆっくりと頷いた。
「そっか。……世界で一番大きな本、か。……素敵だね」
その声には、何の飾りも、お世辞もなかった。ただ、純粋な感心が込められているように聞こえた。私は、その真っ直gな言葉から逃げるように、再び俯いた。心臓が、昨日とは違う意味で、うるさく鳴っていた。
その日、澪は帰る間際に、小さなメモを私に差し出した。
「これ、私の連絡先。もし、よかったら」
私はそれを受け取ることも、断ることもできずに、ただ彼女の手を見つめていた。澪は困ったように笑うと、そのメモを解説台の隅にそっと置いた。
「じゃあ、また明日」
扉が閉まり、一人になった館内で、私はしばらく動けなかった。机の上に置かれた、小さな紙切れ。それが、私の完備していたはずの世界に開けられた、小さな、けれど無視できない風穴のように思えてならなかった。
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