第19話『一枚だけの、宝物』
澪のあの言葉と、夕日に照らされた横顔が、脳裏に焼き付いて離れないまま、週末は終わった。
月曜日の海星館は、いつものように静かだった。でも、その静けさの意味は、以前とは少しだけ違って聞こえる。ただの空虚な沈黙ではなく、次に彼女が来るまでの、期待を孕んだ穏やかな時間。そう思えるようになっていた。
「――詩織さんが撮ったフィルム、現像、終わったよ」
その週の半ば、海星館にやってきた澪は、開口一番、そう言って茶色い封筒を差し出した。私の心臓が、とくん、と大きく跳ねる。ついに、この日が来てしまった。
「先に、見てて。私、ちょっと佐伯さんとこに用事があるから」
澪は、私の返事を待たずに、ひらりと手を振って出て行ってしまった。きっと、私が一人で見るための時間をくれたのだろう。その優しさが、今は少しだけ残酷に感じられた。
一人残された館内で、私は震える指で封筒を開けた。中には、光沢のあるL判の写真が、十数枚。一枚、また一枚と、ゆっくりと確認していく。
自分で撮った、海星館の客席。古びた星座早見盤。光の筋。
どれも、構図は傾き、ピントもどこか甘い。でも、そこには確かに、私が「綺麗だ」と思った瞬間が、切り取られていた。
そして、一番最後の写真。
私は、息を呑んだ。
投影機の隣で、ふわりと、無防備に笑う澪の姿が、そこにあった。
あの日の、あの瞬間の、幻ではなかった笑顔。
それは、私が今まで見たどんな写真よりも、鮮やかで、切なくて、そして、どうしようもなく、私の心をかき乱した。
どうして、こんな顔で笑ったの?
あの時、聞けなかった問いが、再び胸の奥から込み上げてくる。
この笑顔を向けられたのが、他の誰でもなく、カメラを構えた私だったという事実。その意味を、考えずにはいられなかった。
私は、その写真を胸に抱きしめるようにして、しばらく動けなかった。
この気持ちは、何なのだろう。
ただの友達に向ける感情とは、何かが決定的に違う。その正体と向き合うのが怖くて、私はその感情に、まだ名前をつけられずにいた。
「どうだった? 上手く撮れてた?」
いつの間にか戻ってきていた澪が、私の隣にそっと腰掛けた。私は、慌てて澪の写った写真を、他の写真の下に隠した。
「……うん。でも、やっぱり難しい」
「最初はみんなそうだよ。でも、詩織さん、すごく才能あると思う」
「そんなことない」
「あるよ」
澪は、きっぱりと言った。
「だって、詩織さんの写真には、詩織さんにしか見えていない『物語』が写ってるから。それは、技術じゃどうにもならない、一番大事なものだよ」
その言葉は、私が星を好きな理由と同じだった。
私の世界と、彼女の世界が、また一つ、静かに重なり合ったような気がした。
「ねえ」
澪は、少しだけ真剣な声で、私を見た。
「今度、一緒にフィルムを買いに行かない? そして、また、何かを撮りに行こう。詩織さんが、本当に撮りたいものが見つかるまで、何度でも」
その誘いは、断るという選択肢を、私に与えてはくれなかった。
私は、ただ、こくりと頷く。
胸に隠した一枚の写真の熱を感じながら、この、名前のない関係が、もう少しだけ、このまま続けばいいのにと、心の底から願っていた。
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