第17話『幻の笑顔』
シャッターを切る指が、ぴたりと止まってしまった。
ファインダー越しに見える、澪の、あの無防備な笑顔。その残像が、私の網膜に焼き付いて離れない。どうして、今、そんな顔で笑ったの? その問いが、声にならないまま、私の喉の奥でつかえていた。
「……どうしたの、詩織さん」
私の異変に気づいた澪が、不思議そうに首を傾げる。その時にはもう、彼女の表情はいつもの穏やかなものに戻っていた。さっきの笑顔は、まるで幻だったかのように、跡形もなく消えている。
「ううん、何でもない」
私は、慌ててカメラを下ろした。今、あの笑顔の理由を尋ねても、きっと彼女ははぐらかすだろう。そんな予感がした。それに、あの表情を、私だけのものにしておきたいという、独占欲にも似た感情が、心の片隅で芽生えていることに気づいてしまったから。
「フィルム、もうすぐなくなりそう」
「そっか。じゃあ、今日はこれでおしまいだね」
私たちは、撮影を終え、海星館の椅子に並んで腰掛けた。窓から差し込む西日が、床に長い影を作っている。今日一日が、もうすぐ終わってしまう。その事実が、ひどく名残惜しかった。
「……どうだった? 初めての、フィルムカメラ」
澪が、静かに尋ねた。
「難しかった。……でも、面白かった」
「うん」
「一枚一枚、すごく大事にしなきゃいけないって思った。デジカメみたいに、簡単に消せないから」
私の言葉に、澪は嬉しそうに頷いた。
「そう。だから、フィルムで撮る時って、シャッターを切る瞬間、すごく覚悟がいるんだ。この一瞬を、本当に残したいのかって、自分に問いかける感じ」
その言葉は、すとんと、私の胸の奥に落ちてきた。
私が、本当に残したい、一瞬。
「今日の写真、現像したら、一番に詩織さんに見せてあげる」
「……うん」
「楽しみにしてて。きっと、すごく良い写真、撮れてると思うから」
澪の言葉に、私は素直に頷けなかった。良い写真が撮れている自信なんて、全くない。でも、それ以上に、怖い気持ちの方が大きかった。
私が撮ったフィルムの中に、あの、無防訪な笑顔の澪は、写っているのだろうか。もし、写っていたとして、それを見てしまったら、私は、自分のこの気持ちと、どう向き合えばいいのだろう。
帰り道、駅へ向かう途中、澪が不意に言った。
「ねえ、詩織さん」
「なに?」
「今度、凪ちゃんも一緒に、どこか行かない?」
予想外の提案だった。今まで、二人で会うことを望んでいたのは、私だけではなかったはずだ。なのに、どうして。
私の戸惑いが顔に出ていたのだろう。澪は、少し困ったように笑いながら、言葉を続けた。
「だって、詩織さん、凪ちゃんといる時の方が、自然で、楽しそうだから」
その言葉は、優しさの形をしていた。でも、私には、その優しさが、少しだけ寂しかった。
凪といる時の私と、あなたといる時の私。それは、違う。あなたといる時の、ぎこちなくて、不器用な私を、もっと見ていてほしかった。
そんな我儘な言葉が喉まで出かかったけれど、私はそれを、夕暮れの空と一緒に、静かに飲み込んだ。
「……うん。誘ってみる」
そう答えるのが、今の私にできる、精一杯の強がりだった。
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