第16話『カメラマンさん、と呼ばれて』
「そっか。……じゃあ、始めよっか。カメラマンさん」
澪は、私が提げた古めかしいカメラを見て、楽しそうにそう言った。
その「カメラマンさん」という言葉の響きが、ずしりとしたプレッシャーとなって私の肩にのしかかる。私は、唾を一度飲み込み、ぎこちなく頷いた。
澪は、プラネタリウムの中央、投影機の隣にすっと立った。窓から差し込む光が、彼女の輪郭を柔らかく縁取っている。完璧な被写体が、そこにいた。私は、震える手で祖父のカメラを構え、ファインダーを覗き込む。
四角く切り取られた世界の中に、澪がいる。けれど、何をどう撮ればいいのか、全く分からなかった。手が、小刻みに震えて、構図が定まらない。ピントリングを回そうにも、指がうまく動かなかった。
「……ごめん。やっぱり、私には無理かも……」
情けない声が出た。ファインダーから顔を上げると、澪が困ったように笑っているだろうと思った。でも、違った。彼女は、優しい、穏やかな目で私を見ていた。
「大丈夫だよ。焦らないで」
彼女はゆっくりとこちらに歩いてくると、私の肩にそっと手を置いた。
「じゃあ、最初は練習。私じゃなくて、この海星館を撮ってみて。詩織さんが一番好きな場所から、好きなように」
澪の言葉に、私は少しだけ緊張を解いた。被写体が彼女でなくなったことに、心のどこかで安堵している自分がいた。
私は、言われるがままに、海星館の中をゆっくりと歩き始めた。そして、ファインダーを覗く。
いつも見ていた、客席のシートについた小さな傷。
解説台の上に置かれた、古びた星座早見盤。
そして、ドームの天井から差し込む、埃をきらきらと反射させる光の筋。
これまでただの「風景」だったものが、ファインダーを通すことで、意味のある特別な「一枚の絵」として、私の前に現れる。その感覚が、不思議で、面白くて、私は夢中になった。
カシャッ。
フィルムが巻き上げられる、重たい感触。一つ一つの動作が、神聖な儀式のようにも思えた。
私が撮影に没頭している間、澪は何も言わずに、少し離れた場所から私を見ていた。時折、彼女自身のカメラで、何かを撮っている気配がしたけれど、今の私には、それを気にする余裕はなかった。
どれくらい時間が経っただろうか。フィルムを数枚撮り終えた頃には、私の心臓の騒がしい鼓動は、すっかり落ち着きを取り戻していた。そして、私は、自然と、投影機の隣に立つ澪に、カメラを向けていた。
「月島さんは、そこにいて」
自分の口から、そんな言葉が出たことに、自分自身が一番驚いていた。それは、初めて、私が被写体である彼女に、明確な意志をもって投げかけた言葉だった。
澪は、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに頷いた。
私は、再びファインダーを覗き込む。今度は、もう手は震えていなかった。ピントリングをゆっくりと回し、彼女の瞳に、焦点を合わせる。
そして、一枚、また一枚と、夢中でシャッターを切っていく。
撮影の途中、澪が、ふわりと、とても自然で、柔らかい笑顔を見せた。
それは、今まで私が見たことのない、完全に無防備な笑顔だった。私をからかう時の悪戯っぽい笑みでも、私を励ます時の優しい微笑みでもない、ただ、心の底から何かが込み上げてきたかのような、そんな表情。
その笑顔に、私は息を呑み、シャッターを切る指が、ぴたりと止まってしまった。
――どうして、今、そんな顔で笑ったの?
その問いは、言葉にならずに、シャッター音の消えた静かな海星館に、ただ溶けていった。
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