第14話『待ち受け画面の夏草』
澪と別れた後も、私の右手には、カメラの重みと、シャッターボタンの冷たい感触が、幻のように残っていた。
「私が、撮りたいもの」
その、澪から投げかけられた新しい問いが、帰り道のあいだ中、ずっと頭の中で反響していた。私に、そんなものがあるのだろうか。今まで、何かを自分の意志で「欲しい」とか「したい」とか、強く思ったことなんてあっただろうか。
家に帰り、夕食を終えて、自室のベッドに寝転がる。その時、スマートフォンが短く震え、澪からメッセージが届いた。
『今日の写真データ、送るね』
メッセージに添付されたリンクを開くと、何十枚もの写真が画面に並んでいた。
駅前の雑踏に、不安そうに佇む私。
路地裏の壁にもたれかかり、少しだけ気の抜けた表情の私。
そして、自分が撮った、ピントの甘い澪の写真と、錆びた踏切、夏草の風景。
澪のレンズを通して切り取られた自分は、自分の知らない他人のようで、ひどく落ち着かない気持ちになる。でも、その視線はどこまでも優しくて、写真の中の私は、いつもより少しだけ、世界の色の濃い部分にいるような気がした。
私は、その中から一枚、自分が撮った「夏草に覆われた錆びた線路」の写真を、スマートフォンの待ち受け画面に設定した。誰かに見せるためじゃない。ただ、あの日の、あの世界の空気を、少しだけ手元に残しておきたかった。
翌日の月曜日、海星館にやってきた凪は、私が机に置いたスマートフォンを一瞥するなり、目ざとくそれに気づいた。
「え、何これ。詩織が待ち受け変えるとか、超ウケるんだけど。しかも、なんかエモい写真じゃん。どうしたのよ」
「……別に」
「別に、じゃないでしょ。あの子に撮ってもらったの?」
「……ううん、これは私が撮った」
「はあ!? 詩織が? カメラなんて持ってたっけ?」
「借りただけ」
私がぼそぼそと答えると、凪は「へえ」と、心底面白そうに私の顔を覗き込んできた。
「いいじゃん! あんた、そういうの向いてるんじゃない? で? あの子の写真は撮ったの?」
凪の核心を突く問いに、私は何も答えられず、顔が熱くなるのを感じた。
凪が帰り、再び一人になった海星館で、私は静かに考える。
私が、撮りたいもの。
今、私がカメラを手にしたら、そのレンズは、一体何を捉えようとするだろう。
海星館の、古びた投影機だろうか。ドームに映る、満天の星だろうか。佐伯堂に並ぶ、古い本の背表紙だろうか。
――違う。
私の脳裏に浮かぶのは、それらを見つめている、彼女の横顔だった。ファインダーを覗き込む、真剣な瞳。私の拙い話に、楽しそうに耳を傾ける時の、少しだけ上がる口角。
私の撮りたいものは、「風景」じゃない。「風景」の中にいる、月島澪そのものなのだ。
その事実に気づいてしまったら、もう、知らないふりはできなかった。
私は、震える指でスマートフォンを取り出し、澪とのメッセージ画面を開いた。
『この間の、話だけど』
送信ボタンを押す。すぐに既読の印がつき、返事が来た。
『うん、撮りたいもの、見つかった?』
私は一度、深く息を吸い込んだ。そして、決意を込めて、次の言葉を打ち込む。
『撮りたいものが、あるのかどうか、確かめたい』
『だから、今度の日曜日、海星館に来てくれませんか』
『モデルは、月島さんにお願いします』
送信した瞬間、心臓が大きく跳ねた。
これは、私からの一方的な、挑戦状にも似たメッセージだった。
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