第12話『二つのサクランボ』
私の呟きは、夏の午後の、気だるい空気に吸い込まれて消えた。
澪は、答えに窮した私を見て、困ったように笑うでもなく、ただ静かに、私の目を見つめ返した。そして、諭すような、あるいは、秘密を打ち明けるような、穏やかな声で言った。
「詩織さんが何かを見つめてる時って、その目に、世界で詩織さんしか知らない物語が映ってる気がするんだ。星の話をしてる時も、海星館を見てる時も。……私は、それを撮りたいって思う」
その言葉は、今まで誰にも言われたことのない種類のものだった。
私の内側にある、誰にも理解されないと諦めていた、私だけの世界。それを、彼女は「撮りたい」と言った。肯定でも、否定でもなく、ただ、そのままを写し取りたいのだと。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。私はうまく返事ができなくて、ただ、俯くことしかできなかった。
「あ、お腹すかない? 何か食べに行こっか」
沈黙を破るように、澪が明るい声で言った。その気遣いが、少しだけ気恥ずかしく、そして嬉しかった。
私たちは、商店街の角にある、少しレトロな喫茶店に入った。レースのカーテン、ベルベットの椅子、そして壁で静かに時を刻む振り子時計。ナポリタンとクリームソーダを頼んで、二人で向かい合って座る。初めての経験だった。誰かと、こんなふうに向かい合って食事をするのは。
「詩織さんのクリームソーダ、メロンの色、濃いね」
「……月島さんのも、同じじゃないかな」
「そうかも」
ぎこちない会話。けれど、そのぎこちなさも、嫌ではなかった。澪は、自分のソーダに乗っていた真っ赤なサクランボをスプーンで掬うと、「おすそわけ」と言って、私のグラスの中にそっと落とした。グラスの中で、二つのサク-ランボが、ことりと寄り添う。その光景を、私はなぜか、しばらくの間ただじっと見つめていた。
昼食の後、澪は私を町の外れまで連れて行った。そこに在ったのは、もう使われていない、単線の踏切だった。線路は赤茶色に錆びつき、枕木の間からは、夏草が勢いよく空に向かって伸びている。
「世界の終点みたいで、ここ、好きなんだ」
そう言って、澪は夏草に覆われた線路の上に、私を立たせた。午後の強い日差しが、私の影を長く、長く線路の上に伸ばす。澪は、少し離れた場所から、様々な角度でシャッターを切っていた。
彼女に内面を肯定されたからだろうか。さっきよりも、カメラを向けられることへの抵抗感が薄れているのが、自分でも分かった。
撮影の途中、澪が不意にこちらへやってきた。そして、私を驚かせたのは、彼女の次の言葉だった。
「詩織さんも、何か撮ってみる?」
そう言って、自分のカメラを、私に差し出したのだ。
「え……? 私なんて、無理だよ」
思わず、後ずさる。一眼レフなんて、触ったこともない。重くて、複雑そうで、私には扱えるはずがない。
「いいから、いいから」
澪は、私の抵抗を意に介さず、私の手に、そっとカメラを握らせた。ひやりとした金属の感触と、ずしりとした重み。
「ファインダーを覗いてみて。詩織さんには、この世界が、どんなふうに見えてるのか知りたいんだ」
言われるがままに、私は恐る恐る、その黒い塊を目に当てた。そして、右目で、小さな覗き窓を覗き込む。
その瞬間、世界が、反転したような感覚に襲われた。
今まで私が見ていたはずの澪が、今、四角く切り取られた枠の中にいる。
夏の日差しの中で、少し心配そうに、でも、どこか楽しそうに、こちらを見つめ返してくる、月島澪の姿が。
ファインダー越しの彼女は、私が今まで見てきたどんなものよりも、鮮やかで、綺麗で、そして、どうしようもなく、近かった。
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