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第1話『八月三十一日の、約束』

潮風が、夜の間に窓ガラスに残していった塩の結晶を、指でなぞる。それが、私の朝の始まりだった。都会の喧騒と、そこでうまく立ち回れない私を見かねた両親が、私をこの海沿いの町に住む祖父母の元へ預けたのは、もう十年も前のことだ。両親は今、遠い異国にいる。私にとって家族とは、この家の静けさと、階上から聞こえる祖父の浅い寝息だった。


家から海星館までは、防波堤沿いの道を歩いて五分。右手に広がるのは、凪いだ朝の海。左手には、古びた家々と、夏草が茂る空き地。私の歩みに合わせて、カツ、カツ、と乾いたサンダルの音が響く。この町で生まれ育った私にとって、それは心臓の鼓動と同じくらい、当たり前の音だった。


海星館の、錆びて潮気を含んだ鉄の扉に鍵を差し込む。重たい音を立てて開けると、ひやりとした空気が、むわりと熱を帯びた外の世界へと流れ出した。古い紙の乾いた匂い、微かなカビの気配、そして中央に鎮座する投影機から漂う冷たい機械油の香り。それらが混じり合って、時間のおりのような独特の空気が、ここには満ちていた。その匂いを吸い込むと、私はようやく本当の自分でいられる気がした。世界の騒音から守られた、自分だけの繭の中にいるような安心感があった。


壁のカレンダーの、八月三十一日の日付に、祖父のかすれた文字で「ありがとう、海星館」と書き込まれている。その光が消える日が、この長い夏休みの終わりにやってくるという現実から、私はまだ、目をそらすようにしていた。


その日の午後、私は一人だった。客席のシートの埃を払い、レンズを磨き、いつ来るかも分からない誰かのために、この場所を守っている。蝉の声が、ドームに反響して降り注ぐ。永遠に続くかのような、夏の午後。


ギィ、と。

不意に、扉が軋む音がした。

反射的に顔を上げると、そこに、見慣れない女の子が立っていた。強い光を背負っているせいで、その姿は黒い影にしか見えない。


「こんにちは。……あの、プラネタリウム、ですよね? やってますか?」


おずおずと尋ねる声。私が何か答える前に、彼女は一歩、中へ足を踏み入れた。そして扉がゆっくりと閉まり、彼女の姿が薄闇に浮かび上がる。白いワンピース。日に焼けていない肌。首から提げた、少し本格的な一眼レフカメラ。この町の風景には不釣り合いなそのすべてが、私の目に焼き付いた。


「はい、どうぞ」

なんとかそれだけを絞り出す。彼女はほっとしたように小さく息をつくと、館内を見回した。けれど、その視線はすぐに一点に吸い寄せられる。中央に鎮座する、巨大な投影機に。


「うわ……すごい……」

吐息のような声だった。彼女は、まるで夢でも見ているかのように、ゆっくりと投影機に近づいていく。

「これ、まだ動くんですか?」

「ええ、まあ……」

「カッコいい……!」


彼女は感嘆の声を漏らすと、すぐにカメラを構え、夢中でシャッターを切り始めた。カシャッ、カシャッ。その乾いた機械音だけが、蝉の声を背景に響き渡る。星には興味がない。それはすぐに分かった。彼女が惹かれているのは、星空そのものではなく、星空を“創りだす”ための、この古びた機械の塊だった。


しばらくして、彼女は満足したようにカメラを下ろし、初めて私の方を真っ直ぐに見た。色素の薄い瞳が、私を捉えている。


「突然ごめんなさい。あまりに素敵だったので」

「いえ……」

「私、月島澪って言います。夏休みの間だけ、こっちの親戚の家に来てて」

「……星野詩織です」


私たちは、ぎこちなく自己紹介を交わした。何を話せばいいか分からず、沈黙が落ちる。気まずさに耐えかねて、私が「もしよかったら、少し星を……」と言いかけた時、彼女がそれを遮るように言った。


「星野さん、ずっとここにいるの?」

「え?」

「なんだか、すごく、似合ってるから」

彼女はそう言って、ふわりと笑った。その笑顔に、私は一瞬、言葉を失う。

「この、静かで、もうすぐなくなっちゃいそうな場所と、星野さんの雰囲気が」


カシャッ。


返事の代わりのように、シャッターが切られた。

その瞬間、私の心臓を、冷たい何かが貫いた。

――なくなっちゃいそうな場所。

悪意のない、ナイフのような言葉。

この人も、結局は同じなのだ。この場所を、ただの「風情ある過去の遺物」としてしか見ていない。その喪失のただ中にいる私の痛みも知らずに、それを「似合ってる」なんて、残酷な言葉で切り取ってしまう。


私は、何も言えなかった。ただ、レンズの奥で私を見つめる彼女の瞳から、逃げるように目を逸らした。

夏の匂いと、蝉の声。

私の世界が、音を立てて軋み始めた、出会いの日だった。



ご覧いただきありがとうございました。感想・評価・ブックマークで応援いただけると幸いです。

次話は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です。

活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話を更新中です。(Xアカウント:@tukimatirefrain)

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