第三章「未来からやってきた義理の妹が俺に青春をさせてくれない。」
あの時、もっと攻めていれば……
あたしはおにぃが大好きで、そんな大好きなおにぃには幸せになってほしかった。
できることならその役目はあたしが担いたいなって思っていたけど、ついにおにぃがあたしを〝ひとりの女の子〟として認識することはなくて。いつまで経っても、兄と妹のままで。
やがておにぃは結婚した。
結婚式で幸せそうなおにぃを見て、あたしは泣いてしまった。
嬉しかったからっていうのもあるけど、それよりも悲しい気持ちの方が強かった。
大好きなおにぃが、ほかの誰かのものになってしまった。
おにぃといっしょに過ごすあたりまえの日常がなくなってしまった。
そのときになって、あたしはようやく気づいた。
あたしは、おにぃといっしょに幸せになりたかったんだって。
おにぃの幸せな未来と、あたしの幸せな未来を、ぴったり重ね合わせたかったんだって。
そのことに気づいてから十五年後、あたしはタイムマシンの発明に成功した。
そこに至るまでに、たくさんのものを失った。
けれど、後悔はなかった。
だって、もう一度やり直せるんだから。
――絶対にお嫁さんになってやるんだから。
そう決意し、あたしは二十年前、恋の全盛期に向かった。
※
「でさ~、ノート見せてって言ってくるわけ」
「なるほど。つまり都合のいいヤツ扱いされてたってことか」
うつらうつらしながら時計を見やると、時刻はまもなく二十三時。……もう二時間か。
「そうなのよぉ! ひっどいと思わない? あたしが賢いからって理由で友だちやってたのよ? ほん~っと、今思い出してもイラつくんだけどっ!」
この時間は普段なら眠っていることもあり、俺の意識は半ば不明瞭な状態にある。
だから、俺の前で幼き日の星良が顔を真っ赤にしてぐびぐび缶ビールを呷っているのもきっと幻覚で……
「ぷはぁ! おにぃもイラつくよねっ!?」
「そうだな。めっちゃイラつく」
うん。仮に幻覚なら、あの頃の星良がこんな感情を爆発させるわけがないんだよな。
てなわけで、これが現実だという証明終了。
「だっよねぇ~! さっすがおにぃ! ちゅき!」
「酒臭っ……お前、こんな飲んで大丈夫なの?」
念のため補足しておくと、俺が飲んでいるのはただの水だ。
俺は、未成年でもお構いなしにお酒を飲みまくる時代錯誤なD○Nじゃない。
「へーきへーき。おにぃがちゅきだから、いくらでも飲める~」
「理由になってねぇんだよなぁ」
毎週土曜日の夜は、管を巻く聖良に付き合っている。というのも、週に一度だけでいいからふたりきりで話をする時間を設けてほしいと聖良に頼まれたからで。
俺は聖良と話す時間が割と好きだし、日頃からなにかと聖良の発明品に助けられることも多いのでこれはいい機会だと思い、その頼みを聞き入れた。
「ちゅき~、とぅき~、だいしゅきおにぃ~」
「わかったから離れろって。暑苦しい」
「聖良をおねんねさせてくれるなら離れる~」
「一生おねんねさせるぞこの野郎」
なんて毒づいてみたものの、聖良に手荒な真似なんてできるはずがなくて。
「……はぁ。しっかり捕まってろ。寝室まで連れてくからな」
「ぎゅうぅ~」
俺の首に腕を絡めて、聖良は小さな身体を隙間なく密着させてくる。
「……暑苦しいなぁ」
気づけば六月。夏の足音はすぐそこまで迫っていた。
だからだろう、頬が熱っぽく感じるのは。
俺と星良の部屋は二階に、聖良とヒイロの部屋は一階にある。聖良の部屋の扉を開けると、相変わらず殺伐というか真新しいというか、引っ越し前かなってくらいに綺麗な和室が広がった。まぁ、聖良の活動拠点はリビングの隣で、ここは睡眠専用部屋みたいな感じだからな。
「布団敷くから、ちょっと下りてくれるか」
「ん」
腰をかがめると、聖良は俺から離れてこてんと床に横たわり、瞬く間に寝息を立てはじめた。
「念のため水も用意しとくか」
布団を敷き、聖良を布団の上に寝かせて、リビングから水の入ったペットとコップを持ってくる。
「苦しくないか?」
「んへへぇ~、それほどでもあるよぉ~」
「大丈夫そうだな」
お腹にタオルケットをかけ、俺は部屋を後に……
「すぅすぅ……んんっ」
この可愛い寝顔をもっと見ていたいなと思ってしまう。
星良も勘違いしているが、俺は別に幼女好きってわけじゃない。
この頃の星良は特別なんだ。
星良が六歳の頃。それはつまり、星良が俺の妹になった頃を指す。
父さんの再婚に伴い、新しい母さんといっしょにやってきたその子は、はじめまったく俺に心を開いてくれなかった。
おにぃと呼ばなければ、お兄様とも呼ばず。お兄ちゃんと呼ぶことがなければ、視線すら交わらない。何度話しかけても上の空で。けど、そんな新しくできた妹を俺は放っておけなくて。
「……あの頃もこんな顔して寝てたのかな」
そっと前髪を撫でてみる。聖良はくすっぐたそうに微笑んだ。
「おやすみ聖良」
部屋に戻りベッドに寝転がると、俺は五分とせずまどろみの中に落ちていった。
『わたしに構わないで』
夢の中で、幼い頃の星良はそう言った。星良が俺にはじめて向けた言葉だ。
冷え切った瞳で俺を睨みつけて。けど、瞳にはどこか期待するような色が宿っていて。
まったく、いまのデレきったサマが嘘みたいなツンツンっぷりだな。
……ほんと、よかったよ。
星良が〝おにぃ〟って呼んでくれた日はさ、俺、泣いちゃうくらいに嬉しかったんだぜ?
※
「では、行ってくるでやんす」
「ほわぁ~。気をつけるでやんすよ」
早朝五時。俺は欠伸を噛み殺しながら、星良とふざけたやり取りを交わしていた。
「にしてもおにぃは健気だねぇ。わざわざ早起きして、宿泊研修で一晩不在の妹のお見送りをするなんてわたしのこと好きすぎか? お兄ちゃんポイント急上昇中だよっ」
そう言う星良の肩には、大きな旅行バッグが掛けられている。
「ちなみに現時点でどれくらい溜まってんの?」
「インフィニティ」
「カンストしてんじゃん」
ツッコミを入れるとほぼ同時に、ぽわぽわと欠伸が漏れ出る。
「長話するのもおにぃに悪いね。二度寝した後、寝坊しないように気をつけるんだよ」
「そっか。明日は星良のモーニングコールがないのか」
「おっ、さては恋しいのかな? 実は毎朝、星良ちゃんのモーニングコールを楽しみに待っているのかな?」
「ひさびさに穏やかな朝が迎えられそうだなぁ」
「おい。明後日から起こしてやんねぇぞ」
へなへなよわよわシャードボクシングで威嚇してくる星良は、平常運転で元気全開。うん、体調もばっちりみたいだな。
「俺たちのことは気にせず、楽しんでおいで」
「うん。目一杯楽しんでくるよっ」
ぶんぶん手を振り、星良は家を後にした。
「ふわぁ~。もう一時間くらい寝るか」
スマホの着信音で目を覚ました。
「あい、もしもし」
目を擦りながら、スマホを耳に当てる。
「おっ、出た」
五味の声だった。
「どした? なんかあったのか?」
「それは俺の台詞」
はぁとため息をつく音が聞こえた。
「体調不良ってわけじゃなさそうだな」
「星良が常に健康面を配慮したおいしいご飯を用意してくれるからな。おかげで俺は、中学から高校まで無遅刻無欠席だ」
実はこれ、俺の数少ない自慢だったりする。
「頼んでないのに嫉妬で舌を?み千切りたくなる情報ありがとな。で、その自慢の記録なんだが、現在進行形で打ち切りの危機だぞ」
「つまりなにが言いたいんだ?」
起き抜けで脳が働いていないからか、五味の迂遠な言い回しが即座に理解できない。
「要するにお前は――」
と、電話の向こうの声が変わった。
「おっはよー朝久くんっ! あと十分でHRはじまるけど、さてはもしやお寝坊さんかな?」
明日原さんの底抜けに明るい声が、俺の意識を完全に覚醒させた。
「……マジで?」
目覚まし時計を確認する。
八時十分。
「うわあぁあぁあ寝過ごしたあぁああ!」
「あはは! いっそげ~。皆勤賞がなくなっちゃうぞ~」
「ごめん明日原さん、電話切るよ!」
「うんっ。学校で待ってるね!」
スマホ画面をワンタップ。寝起き直後に明日原さんの声が聞けたというのに、俺の胸を満たす感情は焦燥しかない。
「……落ちつけ。なにかしら活路はあるはずだ」
制服に着替えながら考えを巡らす。
まず、自力で行くことは不可能だ。魔法少女に変身すればHRまでに学校に到着することはできるが、生徒に見られたら俺の学生生活とおまけに人生が終わる。よって却下。
次に浮かんだのは、ヒイロに運んでもらうという案。しかし、この案も現実的とは言い難い。というのもヒイロはこの時間は熟睡しており、熟睡している間、ヒイロはなにをしても絶対に起きないからだ。星良曰く、「いろちゃんを起こすのは人類には不可能」とのこと。よって却下。
となると、必然的に頼れるのは残されたひとりしかいないわけで……
「聖良! 助けてくれ!」
聖良の部屋の扉を開き、申し訳ないと思いながらも俺は大声で叫ぶ。
布団の上ですぴーすぴー寝息を立てていた聖良は、目頭を擦りながら身体を起こした。
「ふあ~。おはよおにぃ」
へにゃへにゃの笑顔を向けてくる聖良。蕩けきった顔を見て、俺の中の焦りが少し和らぐ。
「おはよう聖良。いきなりで悪いんだが、『おにぃくっつき虫』使わせてくれないか?」
聖良は、明日原さんや五味の元にも瞬時に移動できるように準備してあると言っていた。
あの器械を使えばこの危機的状況を脱出できると階段を下りているときに閃いたが……
「ごめん、今、あの器械はわたしが持ってるんだ」
「え?」
「学校から帰宅して宿泊研修に行ったはずの妹がいたら、おにぃ驚くだろうなって。……と、いけない。内緒にするよう口留めされてるんだった。今のは聞かなかったことにして?」
ぺろっと舌を出す聖良。星良お前、宿泊研修の時くらい兄離れしろよ……とか思ってる場合じゃなくて。
「本格的にマズいな」
「すんごい焦ってるみたいだけど、なにかあったの?」
「寝過ごして遅刻しそうなんだ。このままじゃ今まで保持してきた無遅刻無欠席の記録が途絶えちまう」
「なぁんだ、そんなことか」
聖良はえっへんと胸を張った。
「あたしにまかせて。おにぃは絶対に遅刻させないよ」
一分後、俺と聖良は玄関の前にいた。
「じゃ行くわよ」
「あ、あのさ」
「ん」
「その器械俺が背負えば、聖良が来る必要はないんじゃないかな?」
俺の背後にいる聖良は、天使の羽根みたいなのがついたランドセルを背負っている。
聖良の発明品ナンバーそのX。『空飛ぶランドセル』だ。
相変わらず説明を省けるストレートな名称で助かる。
「おにぃ、操縦の仕方わかんないでしょ? だからあたしの同伴は必須よ」
作戦はこうだ。聖良が飛び、俺をホールドして学校に連れて行く。以上。
「あたしといっしょじゃ嫌なの?」
「いや、聖良といっしょなのは構わないんだけど……その、安全面はどうなのかなって」
これから空を飛ぶのに、聖良のちっこい身体が俺の唯一の命綱代わりというのはあまりに心許なくて、不安で不安で不安だから、俺は時間がピンチなのにゴーサインを出せない。
「だいじょぶだいじょぶ、途中で落っことしたりしないよ。あたしを信じなさい」
にっこりと笑う聖良。
ぶっ飛んだ行動が目立つため、普段からやらかしてばかりのように思える聖良だが、実際のところ、聖良は全然ポカをしないし、なんなら助けてもらってばかりいる。
聖良が大丈夫と言うなら大丈夫。そう納得できるくらいに、俺は聖良を強く信頼していた。
「……わかった。聖良を信じるよ」
「えへへ~、こりゃ結婚も秒読みかなぁ」
「どうしてそうなった?」
「じゃ、離陸するよっ」
そう宣言してからほどなくして、聖良の細い腕が俺の両脇をホールドする。
俺よりかなり身長の低い聖良がその行為に及べたということはつまり……
「おおっ! 飛んでるっ!」
地面がどんどん遠ざかり、景色が段々と縮小されていく。
「これだけ浮上すれば誰にも見つからないかな。……大丈夫おにぃ? こわくない?」
「見ろよ聖良! 人が豆粒みたいにちっちゃいぜ!」
「ふふ、楽しそうでなにより。じゃ学校に向かうわよ」
いつもより近くにある青のキャンパスが緩やかな速度で流れていく。
吹きつける穏やかな風が心地いい。胸を満たす空気がいつもより澄んでいるように感じる。
「絶景だなぁ」
見下ろせば、俺の暮らす街がある。
家だったり、店だったり、川だったり、森だったり。
見慣れているはずの街なのに、上空から俯瞰すると知らない街のように思える。
「当アスレチックはまもなく終了となります」
「え、もう?」
空を飛びはじめてから、まだ一分ちょっとしか経っていないのに。
「空には信号機みたいに進路を妨げる障害物が一切ないからね。直線最短距離をたどれば、家から学校までこんなあっさり行けちゃうのよ」
進行方向が前から下になる。見下ろせば、真下に学校があった。
「学校に行くまでに信号機が六つもあるもんな。ちょっと多すぎると思わないか?」
「学校前の交差点にふたつ信号あるじゃん? あの信号、おにぃが卒業した翌年にひとつにまとめられるよ」
「マジかよ。あの信号青の時間短いから、けっこうな頻度で連続で引っかかるんだよなぁ」
「わかるわかる。あたしも学生時代は苦しめられたわ。……懐かしいなぁ」
しみじみとした声色だった。
「楽しかったなぁ」
星良はいつも俺と登下校している。星良にとって俺との登下校は日常で、しかし聖良にしてみれば想い出なのだろう。だから、『楽しい』ではなく、『楽しかった』になる。
「ほんと楽しい時間だったよ。またお願いしていいか?」
「え?」
けど、今は『楽しかった』を『楽しい』に巻き戻すことができるボーナスタイム。
「空を飛べなくたって構わない。星良に頼んでさ、たまには聖良もいっしょに登校しようぜ」
当人の努力次第で、二度目の青春を謳歌することだってできる限定期間だ。
「いいの?」
「もちろん。この際だからヒイロも連れてくか。兄妹仲良く登校するのも悪くないしな」
「……ありがとおにぃ」
「今を楽しく彩りたいなって思っただけだよ」
そんな会話をするうちに、学校に到着する。
教員も生徒もいなかったので、俺たちは生徒玄関の前に堂々と着陸した。
「ありがとな聖良。おかげで助かった」
「どういたしまして。じゃ、今日も一日がんばってねっ」
聖良と手を振り合って別れ、俺は駆け足で教室に向かう。
「おはよう。ふたりとも朝は電話くれてありがとな」
「ふへぇ!? 朝久くん、十分前に起きたばっかりなんだよね?」
驚いて目を瞬かせる明日原さんに、俺は至極真面目な顔をして言った。
「俺、隠してたけど瞬間移動できるんだ」
「なぁ昇、お前さっき聖良ちゃんと空飛んでなかったか?」
そのとき、飴永高校の某所で空飛ぶ男子生徒と少女の目撃情報が飛び交っていたが、そのことを俺が知るのはそれから数時間後のことである。
※
「たつにぃたつにぃ、聖良ね、たつにぃにお願いしたいことがあるの。聞いてくれる?」
上目遣いに猫撫で声に袖引きというあざといのオンパレードで聖良は五味に詰め寄る。
「もちろん。聖良ちゃんの頼みならなんでも聞くよ」
「じゃあこれ飲んでくれる?」
そう言って聖良が五味に差し出したのは、七色に光る液体の入ったフラスコだった。
「なんだよあれ。放送規制の入った聖良が二日酔いで吐いたゲロかよ」
「いやおにぃ、現実じゃそんな規制入らないよ」
そうツッコんでくるのは星良だ。星良が宿泊研修を終えてから、二週間が経とうとしていた。
「でも、朝久くんがそう思っちゃうのも無理ないくらいぴっかぴかしてるよ。聖良ちゃん、それはどんな味がするジュースなの?」
明日原さんが口にした『ジュース』という単語に、ヒイロがぴくりと反応する。
「聖良さん、そのジュース、ヒイロにもいただけますか?」
ヒイロは相変わらず好奇心旺盛なので、未知のものには興味津々で飛びつく。
「飲んでもいいけど、ちょっとの間みんなに無視されちゃうかもしれないわよ?」
「みんなに無視される?」
こてんと首を傾げるヒイロに、聖良はフラスコをゆるゆる振って答える。
「これは昨日完成したばかりの発明品でね。もっともまだ試作品段階だから望んだ通りの結果になるかはわかんないんだけど、あたしが望んだ通りの結果になるのなら、この液体を飲んでから三十分間は透明人間になれるわ。正確には、一時的に存在をこの世界から閉ざすって表現するのが正しいかな」
「お前、五味になんてもん飲ませようとしてんの?」
許可なく治験体にしようとしてんじゃん。
「いやぁ~動物を治験体にするのは抵抗があってね。けど、たつにぃならいいかなって」
「聖良の中で五味は動物以下なのかよ」
「それは解釈違いだよおにぃ。たつにぃなら許してくれそうってこと。ね、たつにぃ?」
五味は、聖良の手からフラスコを引っ張りあげた。
「言ったろ。俺は聖良ちゃんの頼みならなんだって聞くって」
そして、まるで大酒飲みのような豪快さで七光りするジュースを呷り……
「わっ! き、消えた! きれいさっぱり五味くんがいなくなっちゃったよ!」
明日原さんが言うように、荷物だけを残して、五味辰吉はこの世界から消失した。
「どうやらうまくいったみたいね」
「三十分経ったら帰ってくるんだよな?」
以降、五味辰吉の姿を見たものはいない……なんてテロップ入ってたりしないよな?
「ほら、おにぃと明日原さん、ちゃんと手動かして。今日は勉強するために家に集まったんでしょ?」
星良に優しく窘められて、俺と明日原さんはテキストに文字を走らせる。俺たちは勉強をするために……より正確に言えば、来週に迫った中間テストの勉強をするために、俺の家に集まっていた。
事の発端は、昨日の昼休みに明日原さんが口にした一言。
『実は私、GW明けのテストで赤点二冠してるんだよね~』
薄々感づいてはいた。
というのも、俺は明日原さんの隣の席で、何度も小テストの採点をしているからだ。
だから、クラスで唯一GW明けに赤点を、それも二教科落とした生徒がいると担任教師が呆れていた相手が隣の席の女の子だと知っても、それほど驚きは生じなかった。だって明日原さん、十点満点の小テストで平均三点くらいなんだもん。明るくて、天真爛漫で、その上成績が低空飛行とか、可愛いがすぎるよな。
と、数か月前までの俺なら、心の内側でこっそり明日原さんの株をあげるだけで終わっていたことだろう。しかし、時間の流れと共に明日原さんとの絆も深まり、段々と緊張することもなくなってきた。だから、俺はすんなり提案できた。
『いっしょに勉強しない?』
その提案が導いた未来が、この状況というわけだ。
「そうだな。いつまでも五味の死を嘆いてたってしょうがない」
「まだ推定段階だけどね」
ごくごくと麦茶を飲み、ぷはぁと爽やかな笑みを浮かべる明日原さん。前々から思ってるんだけど、明日原さんって非現実に対する免疫強すぎだよな。そんなところも好きです。
「じゃ勉強するか。というわけで聖良先生、明日原さんをお願いします」
「まかされましたっ」
「いや、おにぃが教えるんじゃないんかい」
だって、俺よりも遥かに聖良の方が賢いんだもん。
「なるほど。この本に書かれていることはすべて理解しました。ヒイロでよければ、お兄様の教鞭をとりましょうか?」
「俺の妹たち、優秀すぎてヤバイだろ」
勉強に本腰を入れはじめて三十分が経とうとした頃。
「ごめんおにぃ。真っ当な方法でおねーちゃん助けるの無理そう」
残業明けの父さんみたいに疲弊した面持ちで聖良は言った。
「そっか。無理言って悪かったな」
ぼんやりと運ばれてくるふたりの会話から、聖良が苦闘していることはわかっていた。
最大限努力をしてのギブアップ宣言なのだから、諦めるなと無理強いするつもりはない。
「見捨てないでよ聖良ちゃ~ん」
明日原さんは泣きそうな顔をして聖良にしがみつく。
そんな明日原さんの頭を撫でながら、聖良は優しく口元をほころばせる。
「見捨ててはいないわよ。ただ真っ当な方法で助けることを諦めたってだけ」
「つまりどゆこと?」
「ちょっとだけズルしちゃいましょ」
席を立ち、聖良はすっかり発明室と化した隣の部屋に向かう。
そして、一見すれば見慣れたものを片手に俺たちの元に戻ってくる。
「聖良、それは?」
「『透けるメガネ』。おねーちゃん、ちょっとこっち向いて」
一見ただのメガネだが、なにか特別な機能が搭載されているのだろう。しかし透けるとな。
「お兄様の心の中がピンク色になっています」
「ヒイロ、今後俺の心がピンク色になっても口外厳禁な。いいな?」
「いろちゃん、今後おにぃの心がピンク色になったら逐一教えてね。約束だよ?」
「えっと、どちらの要件を飲めばいいのでしょうか?」
ヒイロには、相手の心情変化を〝色〟という目に見える形で認識する力があるらしい。穏やかなときは緑、怒ってるときは赤、嘘をついてるときは黒で、正直なことを話しているときは白、と言った具合に。
「そりゃもちろんわたしだよ。で、どんな卑猥な妄想してたのおにぃ? おにぃの妄想の中で服が透け透けになってる相手がわたしなら許してあげる」
「待て。俺は一言もあのメガネがほしいとは言ってないぞ。あと、横腹肘でドつくのやめてくんない? 普通に痛いんだけど」
「ほしいと思ってない人は、ほしいとは言ってないなんて言い訳しないと思うんだけど?」
ごすっ! ごすごすっ!
「いつっ……ちょ、やめろ星良! ぐっ、マジで、い、痛いんだって!」
さすが妹。実はあのネガネが欲しいって思ってることはバレバレみたいだ。
「お兄様の心が真っ黒なので、ヒイロは星良さんの頼みを聞き入れることにしますね」
「この嘘つき! おにぃの煩悩はわたしが浄化してやる! ぎゅうぅ~!」
肘鉄攻撃を中止すると、俺の胸に力いっぱい抱きついてくる。
なるほど。これが俗にいう飴と鞭。
「あのな星良、男子高生は誰だって桃色の気持ちを持ってるんだ。だから、悪霊を追い出すみたいに抱きついたところで、俺がクリーンになることはねぇよ」
「それは承知の上。おにぃはわたしにだけ劣情とか色情とか春情を催せばいいんだよ」
「どこでそんな言葉知ったんだよ……」
そんなやり取りをしていると、正面から「おおっ!」と興奮した声が聞こえた。
「すごいすごいっ! 答えが全部透けて見えるっ!」
「これでおねーちゃんが赤点を取ることはなさそうね」
「なんだ、透けるのは答案だけか」
「なんだって、答案以外が透けたら大問題でしょ。で、おにぃは一体なにを落胆してるのかな? 星良ちゃんの裸が見られそうにないことかな?」
「いや星良のちっちゃ――」
と、いけない。これは禁忌だ。星良の絶対零度の視線に途中で気づけた自分を褒め称えたい。
「いろちゃん、おにぃが言おうとしてた続きの言葉教えてくれる?」
「はい。『星良のちっちゃい胸で興奮するわけねぇだろ(笑)』です」
「すいませんでした」
俺は誠意を込めて星良に土下座した。
「ふぅ~ん。……おにぃとあたしの夕飯作らないから」
「ちょっとちょっと、なんであたしにまで飛び火してんのよ!?」
「元を辿れば、あたしのろくでもない発明品が原因だからね」
テキストを閉じる音に続けて、星良が立ち上がった気配がする。
土下座したままだから、星良がどんな顔でなにをしているのかさっぱりわからない。
「じゃわたし夕飯作るから。明日原さんどうする。夕飯うちで食べてく?」
「え、いいの? 食べる食べるっ!」
「俺も食べたいっ!」
と、その声は三十分ぶりに聞こえたもの。どうやら、五味が帰還したみたいだ。
「もちろんいいよ。わたしに、ひーちゃんに、明日原さんに、五味くん。定員いっぱいだね。おにぃとあたしは、駅前の〇屋で牛めしでも食べてくるといいよ。さ、早く出てって。邪魔」
星良のやつ、相当キレてやがる。
「やった! おにぃとふたりきりの夕飯だ! どこ行くおにぃ? あたしはおにぃが行きたい場所に行きたいっ!」
「……まいったな」
今の聖良の反応で、星良の怒りのボルテージは、さらにもう一段階あがったに違いない。
俺は恐る恐る顔をあげる。
「むぅ~!」
星良は顔を真っ赤にして、ぱんぱんに頬を膨らませていた。
「ずるいずるいあたしだけずるいっ! わたしも行くっ!」
「そうきたかぁ……」
ナイスだ聖良と視線を投げると、聖良はグッと親指を立てた。計画通りだと?
「じゃあみんなで○屋に行こうよ! それで解決じゃない?」
「○屋にこだわる必要はねぇんじゃねぇの?」
五味の言う通り、五味とふたりだけならともかく、女の子が四人連れ添った状態で○屋というのはなんというか……好きな子といるときって、何故だか無性に見栄を張りたくなるよね。
「ヒイロ、なにか食べたいものあるか?」
「回るお魚が食べたいです!」
と言って、目を輝かせながら回転寿司店のチラシを見せてくる。
「じゃあみんなで回転寿司行こうか。ほかに行きたい場所あるやついるか?」
「はいはいっ! 俺は星良ちゃんの手料理が食べたい!」
「よし、異論はないみたいだな。回転寿司で決まりってことで」
「俺の意見は!?」
五味に星良の手料理は百年早いんだよ。
そんなわけで、俺たちは十分ちょっと歩いた先に回転寿司店に向かった。
「すいませんお兄様。その迷惑かけてしまって……」
「誰にだって苦手なもんはあるよ。海鮮類がだめって知れただけでも収穫だ」
そして遠くない未来、目的地の回転寿司店から即刻退場し、会場を〇屋に変えた言い出しっぺと俺がいたとさ。……明日原さんといっしょにご飯食べたかったなぁ。
「ふぅ……おかわりしてもいいですか?」
「好きなだけ食べるといいよ」
そう質問されるのもこれで五度目。魚が肉に変わればいつも通りのヒイロだった。
満面の笑みでヒイロは八杯目の牛めしを平らげる。俺の妹の最上級の笑顔は〇屋で四百円で買えちまうようだ。……複雑な気分だ。
※
「夜遅くに悪いね。普段ならもう寝てる時間だよね?」
「問題ないよ。それで父さん、話って?」
日中の騒々しさが幻であるかのように静寂の満ちるリビング。麦茶を注いだコップを机の上に置き、俺は父さんの向かいの椅子に腰かける。
「話っていうほどの話があるわけじゃないんだ。ただ昇と話がしたくて。迷惑かな?」
「いいや、構わないよ。俺も父さんと話す時間好きだし」
父さんは、ここから少し離れた場所にある大型ショッピングセンターの中にある全国的に有名な店の店長を務めている。そのため出勤時間は早く、帰宅時間は遅い。けれども週に二日休日が設けられているし、お盆時期や年末年始にはまとまった連休があるので、かなり待遇のいい職場と言えるだろう。
なんてあたかも社会人みたいな意見を言えるのは、母さんという比較対象がいるからだ。
来月にようやく帰ってくるみたいだけど、務めている会社の海外プロジェクトかなんかで、母さんはかれこれ二年近く単身赴任している。
将来自分がどんな職業に就くのかはわからないが、母さんみたいにはなりたくない。親がいないと子どもがどれだけ寂しがるのか、俺は痛いほど知ってるからな。
「そう言ってもらえて嬉しいよ。星良とは毎朝話しているけど、昇とはなかなか話す機会がないからね」
星良は毎朝五時に起きて、五時三十分に家を出る父さんの朝食を用意している。
ほんと、よくできた妹だと思う。
「ここ最近は俺よりも聖良と話す機会の方が多いんじゃないの?」
「この家で唯一飲みながら話せる相手だからね。まさか我が子といっしょにお酒を飲める機会がこんなにも早くに訪れるとは思ってなかったよ」
言いながら、父さんは缶ビールをぐびぐび呷る。
「でもさ、聖良って身体は六歳なわけじゃん。お酒飲んで肝臓とか平気なのかな」
「体内臓器はすべて実年齢のままなんだって。知能も臓器もそのまま。見た目だけが六歳の頃のものになってるらしいよ」
「なんとも都合のいい」
けど、聖良ならそんな都合のいいことをなんなく実現してしまうのだろう。
「ヒイロとはどう?」
「ぷはぁ~。うん、可愛い娘だよ」
「だいぶ酔いが回ってきたね」
父さんは頭をゆらゆら揺らしながら、へらへら笑っている。
「お父様お父様言いながら、マッサージしてくれるんだ。おかげで肩凝りが解消されたよ」
「へぇ。そんなことが」
俺の知らない場所で、ふたりは親睦を深めているようだ。
「もうすっかり家族扱いしてるね」
「家族扱いもなにも、ふたりはもう朝久家の大切な娘だよ。昇と星良同様、僕は責任をもって聖良とヒイロを育てるつもりでいるよ」
「母さんが反対したらどうするの?」
母さんは、まだ聖良とヒイロと顔を合わせていない。
「その点は問題ないよ。若菜も早くふたりに会いたいと言っていたからね」
「そっか。なら安心だね」
「んぐんぐ……ところで昇、聖良と結婚するの?」
「ブフゥ!」
お茶を噴き出してしまった。
「……いやしないけど」
「そうなの? 僕、婚姻届にサインしたんだけど」
「父さん的に俺と聖良の結婚はアリなのかよ……」
というか、当事者の俺がその話を今はじめて聞くってどうなんだよ。
とりあえず、明日にでも聖良を問い質して婚姻届を破こう。
「星良の恋を認めている以上、聖良の恋を否定するわけにはいかないよ。昇は妹にモテモテだなぁ~。ヒイロも昇のことが好きだろうし、もういっそ三重婚しちゃえば?」
「しないよ。俺、好きな人いるし。というか、父さん的に兄妹恋愛はありなんだ」
「僕と若菜もはじめは否定的だったんだけど、中学二年生の時だったかな、星良がどれだけ昇のことを本気で想ってるのか僕たちに打ち明けてきてね。それを聞いて、星良の恋を応援することにしたんだ。昇が思ってる以上に星良は本気だよ。昇も気づいてるんじゃない?」
「……まぁ薄々」
俺と結婚できなかったことを悔やんで、未来からやってきちゃうくらい本気だってことはわかってる。
「もしも三人に告白されたらどうするの? それでもやっぱり好きな人を優先するの?」
「父さん酔いすぎ。俺と恋バナなんてしても楽しくないでしょ」
「楽しいよ。息子との恋バナが楽しくないはずがない。それでどうなの?」
「……」
話を逸らすのは簡単だ。
けど、それは既に気づいている好意から目を背けておざなりに処理するみたいで。
「……しっかり向き合うよ。まぁ妹って前提条件がある以上、そういう相手として見ることはまずできないと思うけど」
だから、今の正直な気持ちをここにいない妹に打ち明ける。
星良とも、聖良とも付き合えないって。……ヒイロはよくわかんないけど。
「そっか。……立派なお兄ちゃんになったね、昇」
父さんは微笑んだ。
「人は理由なく誰かを好きになりはしない。昇に魅力があるから、星良も、聖良も、ヒイロも、昇のことを好いているんだよ」
椅子から立ち上がり、俺の隣で中腰になって、ゆっくりと頭を撫でてくる。
「いつも四人の娘の面倒を見てくれてありがとう。昇は僕の自慢の息子だ」
父さん、酔い過ぎて妹の数まちがえてんじゃん。
「……ならよかった」
「はは、照れちゃってかわいいなぁ昇は」
わしわしわしわし。
「……そりゃ尊敬してる父さんに褒められたら嬉しいよ」
俺の出産と同時に母さんは亡くなり、俺は父さんに男手ひとつで育てられた。
幼い頃に父さんが苦労しながら俺を育ててくれたことを、俺は鮮明に憶えている。
だから俺は、父さんが大好きで、父さんに憧れている。
こんな大人になりたいなぁって、昔から強く思っている。
「はじめから立派なお兄ちゃんになるってわかっていたら、妹に頼ることもなかったのになぁ……」
「なんの話?」
「朝久って名字は沙織の旧姓を継いでてね」
朝久沙織。写真でしか見たことのない俺の生みの親だ。
「……もしもこの先、聖良やヒイロみたく、昇の妹になりたいって子が現れたとして」
酔っ払いってほんとよく話が飛躍するなぁ。
「そうなったら昇は、その子を歓迎するかい?」
「もちろん」
俺は迷うことなく答えた。
「俺は父さんの自慢の立派なお兄ちゃんだから、その子も三人と同じように等しく愛すよ。まぁ現時点で手一杯なんだけどね」
「……そっか」
そうつぶやいた父さんは、どこかほっとしているように見えた。
「その言葉が聞けて安心したよ。……もうひと踏ん張り、がんばらなきゃ」
「がんばるってなにを?」
「……仕事。娘がふたり増えたわけだし」
「父さんはもう充分すぎるくらいにがんばってるよ」
それから、学校でのことを話したり、妹との何気ない日常の話をしたりした。
父さんと話をする時間はやっぱり楽しくて、俺はいつもより一時間遅い時間に就寝した。
※
「風、強くなってきたわね」
普段は水音と会話が最音量の主導権を握り合っている浴室だが、今日はそのどちらでもなく、がたがたと窓が揺れる音が浴室いっぱいに響いている。
「台風直撃と言いつつ逸れるのがお約束だけど、今回はマジで直撃みたいだな」
「あ~あ。あと十時間上陸が遅れてたら、休校になっておにぃと遊べたんだけどなぁ」
けど、暴風音が優位に立つ時間は長くは続かず、すぐに会話音が浴室の中で最優勢になる。
「この時間でこれってことは、明日休校になることはまずないよなぁ」
「おにぃは休校になってほしいの?」
「そりゃ学生なら誰だってそう思うだろ」
「そっかぁ。そんなにあたしと遊びたいのかぁ」
「一言も聖良と遊びたいとは言っていないが?」
俺の胸に頭を預けてもたれかかっていた聖良は、くるんと身体の向きを変えて、俺の顔に手で作った水鉄砲を撃ってきた。
「やりやがったなぁ~……どりゃ!」
「どぴゃ! だ、弾倉の貯水量の差を如実に感じる……こうなったら――たりゃ!」
「ぶはっ! おい、桶使うのは反則だろ!」
「年齢に倍以上差があるので、これくらいハンデがあってはじめて平等と言えると思うのです」
「今の、俺が年下で聖良が年上っていう、見かけで誰もが騙される巧妙な叙述トリックなんだよな」
「誰がアラサーじゃ!」
誰もアラサーなんて言ってねぇよ。なんなら聖良の名誉のために、三十X歳ってぼかす粋な配慮までしてるんだぞ。心の中で。
そんな頭脳はアラサー、身体は六歳な聖良とお風呂に入るのは俺の日課だ。
念のため補足しておくが、聖良は全裸だけど、俺は腰にタオルを巻いているので、良俗面での問題は一切ない。……と、これじゃ補足が補足の役割を果たしてないな。
「じゃ髪洗うぞ。と、その前にシャンプーハットつけなきゃだな」
「おにぃ、その……やさしくしてね?」
「誤解されそうな場所で誤解されそうなこと言うんじゃねぇよ自称六歳」
そう、この外見だけが六歳ってのがこの風習を生み出したきっかけで、というのも、星良が六歳の頃は、母さんといっしょにお風呂に入るのが日課だったからだ。
星良がお母さんっ子だったからという理由もあるが、母さんにしてみても、まだ幼い星良をひとりで入浴させるのは不安だったのだろう。
その気持ちはよくわかる。俺も聖良をひとりでお風呂に入らせるのが怖いからな。
「はいおわり。俺が身体洗ってる間はお湯に浸かってじっとしてろよ」
「……ねぇ、おにぃってあたしのこと女の子だと思ってるよね?」
「そりゃ当然思ってるけど」
「じゃあなんでおにぃはあたしのおっぱい見てもおちんちん勃たないの?」
「六歳の妹相手に発情するわけねぇだろ」
と、聖良が溺れてしまわないかと不安に駆られたのが、この風習を生み出した第一の理由。
で、第二の理由は、星良とは不仲だし、地球での生活に馴染んでいないヒイロに世話役を任せるのは酷だしで、適任が俺しかいなかったってこと。
そしてとどめとなった第三の理由は、俺が聖良を異性として意識していないってこと。
「十数えたら出るか」
「そだね。い~ち、に~」
「さ~ん、し~」
だから、良俗面での問題は一切ない。
幼い娘とお風呂に入って発情するお父さんはいないだろ? それと同じだ。
聖良と入浴中に一物を奮い立たせたら殺すと星良に釘を刺されているが、まったく、俺の〇リコン疑惑はいつになったら解消されるのやら。
「じゅ~う! おにぃおにぃ、頭ごしごししてっ」
「はいはい。痛かったら言うんだぞ?」
「ははは、おにぃも勘違いされそうなこと言ってる~」
「ごしごしごしごし」
「きゃははは! 痛いけどきもち~!」
ちょっと強めの力で髪を拭くと、聖良は今みたいな反応をする。で、身体はぽんぽんって感じの、拭くというよりも触れるという表現が適したソフトさで水滴を吸い取り……
「これでよしっと。ドライヤーはちょっと待っててな」
「服も着せて~」
「自分で着ろ」
「むぅ~。おにぃのけち」
ジトっと目を細めて、聖良が睨みつけてくる。
その姿は、いつか星良が俺に敵対的だった時期を彷彿とさせて……
「……今日だけだからな」
「やったー! おにぃだいとぅき~!」
素っ裸のまま聖良が抱きついてくる。
幼い子の特権というか、もちもちの赤ちゃん肌で、触れると心地いいんだこれが。
「その前に自分の着替えさせてくれ」
俺は星良にもヒイロにも甘いと自覚しているが、聖良には極め付けに甘い。
というのも、聖良の容姿が俺に特効を持っているからで。
「ねねねおにぃ、明日からも服着せてよ」
「気が向いたらな」
ほぼ間違いなく、明日から聖良に服を着せることも日課になるんだろうな。
「あたし、ちょっとこっちに来なさい」
夕食後、ヒイロと雑談交じりに食器を洗っていると、ダイニングテーブルの前に正座した星良が、ぽんぽん床を叩いて聖良を呼び立てた。
「ん、どったのわたし?」
さきいかに伸ばしていた手を止め、聖良は食卓椅子からぴょんと飛び降り、星良の正面にちょこんと座る。
「なんだか不穏な気配がします」
「星良の表情を見るに、いい話ではなさそうだな」
というか、星良と聖良が一対一で話し合って笑顔で終わった試しがない。
「早速本題だけど、あたしはこれからわたしとお風呂に入りなさい」
「え、普通に嫌だけど」
「わたしだって嫌だよ。けどさ、ここ最近おにぃとあたしの入浴時間が日に日に長くなってるわけじゃん。だからそろそろ目をつぶってられないなぁって思って」
「待て星良。俺と聖良は至って健全な――」
「おにぃは黙ってて」
冷たい声と鋭い視線で威嚇してくる。どうやら俺は傍観に徹するしかないようだ。俺が口を開けば開いただけ、聖良の分が悪くなるだろう。
「で、どうなの。明日からはわたしとお風呂入ってくれる」
相当に腹の虫の居所が悪いのか、星良が聖良に向ける態度は、過去一番じゃないかってくらいに刺々しい。
「……はぁ」
そんな不機嫌さマックスの星良の正面に座る幼い頃の星良は、まるで臆した気配もなく、間延びしたため息を吐き出す。
「ほ~んとなっさけないなぁ」
そしてあろうことか、呆れた顔を向けて、既に激昂寸前にある星良をなんとか抑えている薄い理性の皮を剥ごうとする。
「情けないって、わたしのなにが情けないっていうの?」
「朝起こして、いっしょにご飯食べて、いっしょに登下校して。一日の間にこれだけおにぃと過ごす時間がありながら、あたしの数少ないおにぃとふたりで過ごす時間を奪おうっての?」
苛立つ星良に、苛立ちで応える聖良。ふたりの喧嘩は日常茶飯事だから、いつもみたく星良がマウントを取ったまま、聖良が半泣きになって収束するものだと思っていたけど……
「そうやってライバルのアドバンテージを奪えば、自分はなにもしなくても勝手に勝てると思ってるわけ? はっ、人生舐めんな」
いつもならフルボッコにされている聖良が、今日は星良に反撃している。
そのことに驚いているのは俺だけではないようで、聖良も目を丸くして硬直している。
「なにか言ったらどうなのよ。なに、あたしの言葉が正論すぎてぐうの音も出ないわけ?」
「ど、どの口が人生を語るの」
星良が息を吹き返した。
「一度負けたくせして、ねちねちおにぃに付き纏う負け犬の分際でさ!」
「そもそも土俵にも立ってないわたしにだけは言われたくないわね!」
「さっきからなんなの! わたしの気持ちもわからないでさ!」
「わかるよ!」
芯のある声で言い返し、聖良は自身の胸に強く手を押し当てる。
「だってあたしはわたしだもんっ! あたしはわたしの――」
「うるさいっ!」
星良が思いっきり肩を押し、聖良が後ろに転げた。
「うるさいうるさいうるさいっ!」
それだけに留まらず、星良は目尻を光らせながら、聖良の両肩を床に押さえつけて馬乗りになる。今にも打擲しそうな星良の険相に、さすがに黙って傍観を続けるわけにもいかなくなる。
「おいふたりとも! その辺に――」
「待ってくださいお兄様」
ヒイロに手首を掴まれる。
「待てって、このままふたりが傷つけ合う様子を黙って見てろって言うのかよ?」
「ヒイロの話を聞いてください」
俺の瞳をまっすぐに射貫く大きな瞳は真剣そのもので。……というより、ヒイロの握力が強すぎてぴくりとも腕が動かせないから、実質話を聞くしか選択肢がないわけで。
「……話って?」
「星良さんは、ずっと自分の感情を押さえつけています。そのタガが外れそうなんです」
「え?」
星良が感情を押さえつけてる?
「……それはつまり、星良がなにか我慢してるってことか?」
「はい。仮定段階ではありますが。……ヒイロは、我慢はよくないと思うのです。ですので、この好機を逃したくありません。もう少しだけふたりの様子を見守りませんか?」
「……」
星良のために、ヒイロは俺との対立を承知の上で、俺に待ったをかけた。
以前までは恭順に従うことしかできなかったヒイロが自らの意思で俺に反発したという成長に対する喜びと、それほどまでにヒイロが星良を大切に想っているんだと知れた二重の喜びで、俺の頬はほころんでしまう。
「これ以上は危険だと判断したら、ヒイロが間に割って入ります。ヒイロを信じてください」
「わかった」
成長したなヒイロ。
「この意気地なしっ!」
「うるさいなぁ! だってしょうがないじゃんかぁ!」
罵声と潤んだ声に目を向ければ、星良と聖良が変わらず衝突していた。
「しょうがないってなによ! 一番欲しいものがもう少しで手の届く場所にあるってのに、ここで諦めるって言うの!?」
「諦めたくないよ! でもさ……でもさぁ!」
強気な表情をする聖良。対して、ぽたぽたとしずくを零す弱々しい表情の星良。
マウントポジションを取られている聖良が優勢で、マウントポジションを取っている星良が劣勢なのは一目瞭然だった。
「言い訳するな!」
ぱちんと乾いた音が響く。
「……え?」
聖良が星良を平手打ちした音だった。
「おいヒイロ!」
「大丈夫です。聖良さんの貧弱な力では、星良さんに傷ひとつつけることはできません」
たしかに、叩かれたというのに星良の頬はちょっと赤くなった程度だ。
「お兄様、耳を傾けてください。今から聖良さんの想いが吐出されます」
呆然とする星良に、聖良は変わらず強いまなざしを向け続けていた。
「でもとかだってとかしょうがないとか、そうやって言い訳をして自分の足を止めるのは簡単なことよ。けどね、人生は一度きりなの。同じ瞬間は二度とやってこないの。挑戦して躓いたら後悔する。けど、挑戦しないで諦めたらもっと後悔する。それこそ未来から過去に戻って来ちゃうくらいにね」
ちょっぴり赤くなった星良の頬にそっと触れて、聖良はふっと相好を崩す。
「だからがんばれ星良。あなたならできるよ」
「……聖良」
突然柔らかい物腰になった聖良に、星良の呆然はより色濃いものとなり、けどすぐに気を取り戻して水滴の滲んだ目尻をごしごし拭い、照れくさそうに微笑んで言った。
「言われなくてもわかってるよ」
そして、聖良の脇腹をこちょこちょくすぐりはじめた。
「あたしのくせに生意気だぞ~!」
清々しい笑顔を浮かべる星良から、聖良に向ける悪感情は一切感じられなくて。
「あひゃひゃひゃ! ちょ、やめっ……!」
笑い泣きする聖良からも、星良に対する不安や怒りや遺恨は一切感じられなくて。
「こちょこちょこちょこちょ~」
「あひゃひゃひゃひゃひゃ!」
「ようやくスタート地点か」
雨降って地固まるというかなんというか。まぁ、外は変わらず台風の影響で豪雨のままで、地は固まるどころか融解のまっただ中なんだろうけど……うん、これは星良と聖良の物語だからな。
だから、一足早く台風が去ったってなんの問題もない。
かくして、お約束となっていた星良と聖良のキャットファイト劇場は終焉……
「あひゃひゃひゃっ――」
ゴンッと鈍い音が轟き、聖良の笑い声が止まる。
「っ~~!」
が、それは一瞬のこと。
すぐに聖良の声が漏れはじめるけど、それは笑い声ではなく、声にならない叫び声で。
「……え、えっとぉ、その……」
というのも、聖良が思いっきりダイニングテーブルの脚におでこをぶつけたからで。
「わたしのばかぁ!」
聖良は半泣きで叫び、起き上がってびしっと星良に人差し指を突きつける。
「何回謝ったってぜ~ったい許してあげないんだからねっ! もう知らないっ!」
ふんっと鼻を鳴らして視線を切り、聖良は怒り肩でリビングから出て行く。
すぐに玄関の扉が開く音が、続けて荒々しく玄関の扉が閉められる音がした。
「……一難去ってまた一難ってやつか」
「聖良さん、大丈夫でしょうか?」
そう言うヒイロは、憂えるような顔つきをしていた。
「今、ちょうど台風のピークみたいですけど……」
しんと沈黙が満ちる。
耳を突くのは、窓を打つ激しい雨音と、庭の木が暴風に激しく揺れる音。
テレビを見やれば、俺の地域に避難勧告が出ているという情報が表示されていて……
「大丈夫じゃねぇな!? ヒイロ、なんとか聖良連れ戻せないか?」
ヒイロはかぶりを振る。
「申し訳ありません。まもなく活動限界なので力になれそうにありません」
ヒイロは二十時三十分になると、決まって力尽きるように眠りに落ちる。現在の時刻は二十時二十五分。
「まいったな。ヒイロに頼れないとなると……」
「わたしのせいだ」
ぼそりと、聖良が震える声を発した。
「わたしが羽目を外してこちょこちょなんてしなければあたしはっ……!」
「後でちゃんと聖良と仲直りしろよ」
さっきから泣いてばかりの星良の頭を撫でる。
ずっとこうしたかったんだけどな、兄の立場としては。
「おにぃ……」
しずくに覆われた瞳で俺を見上げてくる星良。……まるであの時のリフレインだ。
「大丈夫。聖良は俺が連れてくるよ」
「でも、外は台風が……」
あの時も、星良はこんな風に泣いてたっけ。
「大丈夫。俺が星良と聖良を想う気持ちは台風如きに負けたりしねぇよ」
「そんなの気休めでしか――」
懐かしいな。もう十年も前の話か。
「だから大丈夫だって言ってるだろ」
星良を抱き締めて頭を撫でる。あの時のように。
「おにぃが約束を破ったことがあったか?」
星良がはじめて、俺を〝おにぃ〟と認めてくれた日のように。
「……ううん、おにぃはいつも約束を守ってくれるよ」
「だろ? だから俺を信じろ。星良はここで俺と聖良の帰りを待ってりゃいいんだ」
「……うん。ありがとおにぃ」
「なに、いつものお礼だ。いつもいろいろありがとな。星良みたいな妹を持てて俺は幸せものだよ」
「……なんでこのタイミングでそんなうれしいこと言っちゃうかなぁ」
星良にはいつも笑っててほしいから、星良が喜びそうなことを言っただけだよ。
なんてこっ恥ずかしい返事を飲み込み、代わりにぽんぽん頭を撫でて腰を持ち上げると、ごてんと床になにかがぶつかる音がした。
「すぴー。すぴー」
ヒイロが寝落ちしていた。
「ヒイロはまかせていいか?」
「うん、まかせて」
星良は微笑んだ。うん、やっぱり星良には笑顔がよく似合う。
かくして、『台風が迫る中、家出した聖良を探し出せ!』ミッションが開始されたわけだが、
「聖良いるかー!」
廊下で叫んでみるが、返事はない。
「こういうのは玄関のドアをフェイクで開けて、実は家のどっかに隠れてるってのが定番オチなんだけどなぁ」
なんて、エンタメ的処置がないことに不満を垂れていても仕方ない。
玄関の脇にある傘立てから傘を引っこ抜き、俺は息を呑んだ。
「家出するにしても傘くらい持ってけよ……」
手持ち無沙汰な片方の手で傘を握り締め、やけに重たく感じる玄関の扉を開ける。
「うおぉっ!?」
身体の重心が傾いてしまうほどの突風と、槍みたいによりにもよって鋭角で降りしきる雨で、俺の服と靴は一瞬にして莫大な水分を含んだ。
「こりゃ帰ってきたら聖良ともう一回風呂に入んなきゃいけねぇな」
さて、聖良が家出したわけだが、どこに行ったのかはさ~っぱりわかっちゃいない。
まぁなんとなく見当はついてるけど、見当はあくまで見当。検討材料でしかない。
と、つまんねぇこと言ってる場合じゃないな。
俺は、傘を握っていない方の手に握られた聖良の発明品を正面に突き出して言った。
「――変身」
※
「へっくちゅん!」
絶えず鼓膜を突く激しい雨音を、一瞬だけ、あたしのくしゃみの音がかき消す。
「どうしよ。帰れないよこのままじゃ」
感情の昂るままに家を飛び出したはいいけど、予想以上に雨と風がすごかった。
といっても想定の範疇で。けど、それはあたしが本来の姿であったならの話で。
ここに来るまでに、何度吹き飛ばされかけたことか……
ここまで怪我することなくやって来られたのは、運が良かったとしか言いようがない。
つまるところ、あたしは家を飛び出したことを強く後悔していた。
「やりすぎたかなぁ」
けど、起きてしまったことは受け入れるしかない。傘も発明品もないすっぽんぽんの状態である以上、台風が過ぎ去るまではこの場所でやり過ごすのが英断だろう。
と、これが後悔していることその一。
「大丈夫かなわたし」
そして、星良に言い過ぎてしまったことが後悔していることその二。
あたしは、星良の恋を応援している。
おにぃと結婚したいって気持ちに嘘はないけど、それは優先順位で上から二番目。
星良の恋を成就させること。
それが最優先事項で、今、あたしがここにいるなによりの理由だ。
だから、うじうじしている星良に強く当たってしまった。
だって、じれったいんだもん。
おにぃは、既に運命の人と出逢っている。
そのことはおにぃにも星良にも伝えていないけど、このままゆったりのんびり恋愛していたら、まちがいなく星良は恋愛レースから落伍してしまう。
そんな未来を変えるために、あたしは星良に強く当たったんだけど……
「あたし、邪魔なのかな」
あたしというライバルが出現することで星良がよりいっそう恋に向ける情熱を滾らせてくれたらと期待していたけど、今のところ、その期待はまるで叶っていないように思える。
それに、あたしが来てから星良は不機嫌になることが多くて、あまりおにぃに見られたくない悪い側面を吐露してばかりいる。たま~に可愛らしく嫉妬することもあるんだけど、大部分は可愛くない嫉妬だ。今回だって、おにぃとお風呂に入りたいなら素直にそう言えばいいのに。……まぁ、おにぃは確実に断るだろうけど。
けど、結果はともかく、そういう行動を積み重ねておにぃに自分は女の子だってアピールすること、好きだってアピールすることが大切だ。そうしないと、あたしと同じ末路をたどることになる。
『けど、やっぱり星良は妹だから』って。
……あぁ! 思い出したくない思い出したくない思い出したくないっ!
あたしの初恋が終わった瞬間の情景が鮮明に脳裏にぃ~!
「ふぅ」
ひとしきり、ごろごろ転がっていたら落ちついた。
「うわっ、泥塗れだ」
通りがかった車の跳ね上げた泥がかかった、ということにしよう。
「……よし、決めた」
ここ最近、悩んでいたことに対する答えを今回の一件でようやく得た。
「帰ろう」
家ではなく、未来に。
この一か月、いろいろ試してみたけど、あたしは星良の力になれそうにない。それどころか、足を引きずってばかりいる。
あたしとおにぃが結婚できる可能性が完全に消滅するのは寂しいけど……うん、最優先は、この時代に生きてて、現在進行形で恋をしている星良だものね。
それに、星良の恋が実れば、星良の恋が実らなかった未来にいるあたしは消滅して、新たに星良の恋が実った未来にいるあたしが生まれる。
だから一挙両得。星良がハッピーになれば、あたしもハッピーになれる。
発明品とか、過去に戻ってみんなとどんちゃん騒ぎした記憶は全部なくなっちゃうけど、まぁ必要な犠牲だから受け入れるしかないかな。
「明日、みんなに話さなきゃなぁ」
未来に帰るって決めたことだけじゃなくて、毎日楽しかったってことも、みんなみんな大好きだってことも、もっともっとみんなと過ごしたかったってことも……
「……あれ?」
違和感を覚えてやけに熱い頬に触れると、濡れた感触があった。
「は、はは……なに泣いてんのあたし」
気づいた途端に、涙と嗚咽が溢れはじめる。
「……だめだよ。あたしは星良を幸せにするために未来からきたんだよ?」
そのためには、あたしがいなくなることがベストで。
「もう充分楽しんだでしょ? やり残したことはないはずでしょ?」
あたしの意思よりも、優先されるべきは星良の幸せで。
「……いやだよ」
そうわかっているのに。
「おにぃと離れたくないよぉ……!」
口からは目を背けている本音だけが零れ出る。
「ずっといっしょにいたいよぉ! 未来でひとりぼっちになるのはいやだよぉ!」
「じゃあ、ずっといっしょにいればいいじゃない」
「え?」
知らない声に驚いて顔をあげると、知らない女の子があたしを見つめて微笑んでいた。
「やっぱり、聖良が来るならここよね」
※
「どうしてあたしの名前を知ってるの?」
こてんと首を傾げる聖良。赤く腫れた目だったり、泥んこがべっとりついた服だったり、気になることがいくつかあるけど、とりあえず無事であることにほっと胸を撫で下ろす。
「知ってるに決まってるじゃない。わたしはあなたのおねぇなのよ?」
魔法少女に変身するなり、俺はあらかじめ見当をつけていた場所に向かった。
そこは、幼い頃に星良がよく遊んでいた公園。
その公園には、土管のような遊具がある。
この豪雨の中、聖良がそれほど遠くまで移動できるとは思えない。近くにあって、雨宿りできて、聖良が行きそうな場所。その三つの条件に当てはまる想い出の場所にまず向かい……で、一発目にして当たりを引いたってわけだ。
「おねぇ? まだあたしにおねぇはいないわよ?」
俺はちゃんとおにぃって言ってるんだけどなぁ。聖良、やっぱりこの機能不便だからいらないよ。
「しょうがないなぁ……」
こほんと咳払いし、俺は自分が朝久昇であることを一発で証明する自己紹介をする。
「魔法少女ノボルン! 世界中にわたしの朝陽をお届けしちゃうぞ!」
ぱちりんとウインクまでサービス。
この死にたくなるフレーズの考案者である妹はぽかんと口を開け……
「か、かっわいいよおにぃっ!」
目の前のツインテール魔法少女と朝久昇が同一人物であることを理解したようだ。立ち上がって、勢いよく抱きついてくる。
「ちょっと聖良、離れなさいよっ」
「役作りもうまくできてる~」
「あなたが作ったシステムよっ!」
すりすりと俺のおなかのあたりに頬擦りしてくる聖良。
「まったく……」
どれだけ心配したと思ってんだよ。
ぽんぽんと頭を撫で、俺は聖良をお姫様抱っこの要領で持ちあげた。
「わわっ! 急にどしたのおにぃ?」
「積もる話は家に帰ってからしましょう。聖良に風邪引かれたら困るの」
「困るって迷惑ってこと?」
なんでそんな泣きそうな声出すかなぁ。
「……大好きな聖良にはいつも元気でいてもらいたいのよ」
おかげで臭い台詞を吐く羽目になっちまったじゃねぇか。
「おにぃ……」
「聖良が体調崩したら勉強どころじゃないわ。学校休んで、朝から晩まで付きっきりで看病するんだから」
ちょ、なにツンデレみたいなこと言ってんだよ俺!
「えへへ、そっかそっかぁ。おにぃはあたしのことが大好きなんだね?」
「あたりまえじゃない。大好きなんて言葉じゃ足りないくらい大好きなんだから」
また口が勝手に……
「さ、帰るわよ。帰ったらおねぇといっしょにお風呂に入って、その後は星良と仲直りすること。約束できる?」
「するー!」
あ、そんなあっさりと。
てっきり、駄々をこねる聖良を多種多様な角度から説得する展開を想定してたんだけど。
「聖良はいい子ね。お礼に楽しいことしてあげる」
ま、不幸が立て続けに押し寄せるなかで、ひとつくらい嬉しい誤算があってもいいよな。
「楽しいこと?」
「うん。と~っても楽しいことよ」
首を捻る聖良に微笑みかけ、俺は思い切り地面を跳ね上げた。
「うひゃあぁああ!?」
「しっかり捕まってなさい!」
もはや発射とか射出っていう表現が適切なんじゃないかってくらいの速度で土管を飛び出し、その速度を保ったまま、公園を抜け、住宅街に入り、失速したと感じたら、巨大な水溜まりなんてお構いなしに地面を蹴って再び加速。
「ぴぎゃあぁっ!?」
重力に反して跳ね上がった雨水が、俺と聖良の顔に飛びかかる。
「まだまだいくわよっ!」
景色が目まぐるしく流れていく。
全身で雨水を浴び、吹きすさぶ暴風にも負けず劣らずの速さで夜の街を駆け抜ける。
「あはは! きっもち~!」
「ええ! 気持ちいいわね!」
まるで、遊園地のアトラクションだ。休校くらいしか喜ばしい出来事を運んでこないと思っていた台風だけど、そんな台風のおかげで、俺は聖良に恩返しをすることができた。
「聖良っ!」
「なにっ!」
耳を掠める風音があまりにうるさいので、大声を出さないと会話することができない。
「楽しいっ?」
「うんっ! す~っごいたのしいっ!」
「ならよかったわっ!」
聖良といっしょに空を飛んだとき、俺もす~っごい楽しかったからさ。
だから、これでお相子さま。俺は恩を受け取るだけで終わりにしない男なんだ。
※
「……ねぇおにぃ」
「どうした?」
「ごめんなさいってどっちが先にすればいいのかな? あたしからすればいいのかな?」
「どのみちどっちも謝ることになるだろうから先手必勝だろ。星良、入るぞ!」
「ちょっとおにぃ!?」
お風呂でさんざん励ましたのに、この期に及んでまだ俺の裾をくいくい引っ張り二の足を踏みつづける喧嘩馴れしていない面倒な聖良を無視してリビングの扉を開ける。
「遅くなって悪…………」
「どしたのおにぃ?」
星良と顔を合わせるのが気まずいからか、聖良は俺の太ももにがっしりしがみついて姿を隠している。
「顔出せよ聖良」
「で、でも……」
「大丈夫。星良、寝てるから」
星良は、星型のクッションを抱き締めてソファに横たわり、すぅすぅ寝息を立てていた。
時刻はまだ二十一時をまわってまもない。いつも星良が就寝するよりも一時間近く早い時間だが、今日はイレギュラーな出来事もあって疲れていたのだろう。
星良の寝顔を見るのなんていつ以来だろう。いつも俺は見る側ではなく、見られる側だから。
「あのクッション……」
なにか心当たりがあるのか、色濃く感情を孕んだ声を聖良が漏らす。
「キャラ作りでもしてんのかねぇ。星良だから星型のアイテムをつけなきゃ、みたいな」
可愛い一面もあるもんだ。
「おにぃ、覚えてないの?」
「覚えてないってなにが?」
「……ううん、なんでもない」
驚いたように目を見開き、けどすぐに諦めてかぶりを振る聖良は、明らかになんでもないといった感じではなくて。
「俺とあのクッションになんか関係があるのか?」
なんてわかりきった質問を投げかけて、より詳らかな情報を探ってみる。
「うん、あるよ」
聖良は微笑んだ。
「ありがとおにぃ。……けど、それを伝えるのはあたしじゃなくてわたしの役目だから」
その笑顔には、嬉しさと寂しさが同居しているように見えた。
聖良の足が一歩前に出る。続けてもう一歩。さらにもう一歩――
「ごめんねわたし。でも、今すぐじゃなきゃいけないからさ」
ゆさゆさ。ゆさゆさゆさ。
聖良が優しく星良の身体を揺さぶる。
「んみゅぅ……んぅ?」
薄っすらと星良の瞳が開く。
「……あたし?」
「えぇ、あたしよ。少しお話したいんだけどいいかしら?」
「えっ、あたしっ!?」
ぎょっと目を見開き、星良は勢いよく跳ね起きる。
頭に、頬に、肩に、腕に、手に、お腹に、腰に。危険物を所持してないか確認してんのかよってくらいに過剰なボディタッチをすると、星良はおずおずと口を開いた。
「ほんものなの?」
「偽者がいたら大問題じゃない」
聖良は呆れ交じりのため息をついた。
「よかったぁ!」
膝立ちした星良は、その体勢のまま聖良をぎゅっと抱き寄せる。
「ちょっと、わたしはあたしを抱擁するようなキャラじゃなかったでしょ?」
「そんなことないよ。だってわたし、あたしのことが嫌いってわけじゃないもん」
「え?」
「こういうの同族嫌悪っていうのかな。理由はよくわからないんだけど、な~んか嫌で。どう接するのが正解なのかよくわかんなくて。……けど、今回の一件でわかったよ」
星良は、聖良に微笑みかけた。
「わたしはあたしのことが好き。これまで強く当たっちゃってごめんね?」
「わたし……」
「これからは星良って呼んでほしいな。わたしもこれからは聖良って呼ぶからさ」
「星良……」
名前を呼ばれたことに笑みを濃くし、しかし星良の顔は段々と暗く翳っていく。
「それよりもまずは謝罪だよね。調子に乗ってこちょこちょし過ぎてごめんなさい」
星良は深々と頭を下げた。
「頭、痛かったよね? さっき触ったらちょっと腫れてたもん」
闇雲に触れてたわけじゃなかったんだな。
「このことも、これまでのことも……全部全部、無条件に許してなんてワガママは言わない。聖良が望んだことをできるだけ叶えて、これまでしちゃったことを償ってこうと思ってる。だから……その、えぇっと……」
目を逸らし、もじもじと身体を捩り、やがて意を決したように力強いまなざしを向けて、星良は言った。
「こ、これからはなかよくっ! ……その、未来の自分にこんなこと言うのも変だなぁとは思ってるんだけど、と……友だちみたいな関係に、聖良とはなりたいなって思うのっ」
じっと見つめて返事を待つ星良に、聖良はクッションを指差して言った。
「あれちょうだい」
「え?」
「あたしの望んだことをできるだけ叶えてくれるんでしょ? だったら、あれちょうだい」
「あれは……」
ちらっと星型のクッションに視線を送り、星良は俯いてだんまりと口をつぐむ。
「……うん。いいよ」
沈黙は十秒ほどで断たれた。
「元からそのつもりでいたしね。どれだけ許してもらえなくても、このクッションを渡せば聖良は気持ちを改めてくれるだろうなって。……なぁんてちょっと姑息な手なんだけどさ」
苦笑する星良に、聖良は大きなため息を返した。
「こりゃあたしが面倒見なきゃダメそうね」
聖良は、星良に抱きついた。
「冗談よ冗談。大切なものをそんな簡単に手放しちゃダメじゃないの」
「でも、あのクッションと同じくらい聖良が大切だから……」
「だから泣く泣く手放そうと思ったの?」
「……うん」
「そっか。……可愛くて放っておけない子だなぁ。あたしね、てっきり星良に嫌われてると思ってて、ついさっきまで未来に帰るつもりでいたのよ?」
なんだって!?
「えっ、だめだよ帰っちゃ!」
「さっきまでって言ったでしょ? 星良の気持ちを聞いて考えが変わったわ」
うるうる瞳を揺らがせる星良をじっと見つめて、聖良は微笑んだ。
「これからも、この場所にいていいかしら?」
「もちろんだよっ」
星良が、聖良の小さな両手をそっと包む。
「聖良は大切な家族だよ。だから聖良の居場所はここなの。おにぃも、いろちゃんも、お父さんも、きっと同じことを思ってる」
その通りだよ星良。
「……は、はは。そ、そっか。……けど星良、いいの? あたし、本気でおにぃと結婚するつもりでいるのよ? ライバルは早期段階で切り離すのが英断だと思うけど」
と、イジワルな笑みを浮かべる聖良は、果たしてからかってるのか本気で言っているのか。
「おにぃが聖良を選んだのなら、わたしは全力で祝福するよ。だから問題なしっ!」
「……こりゃあたしに勝ち目はないかもなぁ」
困ったように笑う聖良だけど、その笑顔はどこか嬉しそうにも見えて。
「じゃあ、わたしが聖良の恋をサポートするねっ」
「なら、あたしは引き続き星良の恋の助力をするわね」
そんな矛盾した契約が成立してしまうほどに、ふたりの距離はぐんと縮まって。
「台風さまさまだなぁ」
気づけば、窓の外は静けさに満ちている。どうやら台風は去ったようだ。
「ねぇ星良、今日はいっしょに寝ましょうよ。まだまだ話したいことがた~くさんあるの」
「うん、いいよっ。あ、お菓子とジュース持ってっていい?」
「もちろん。じゃあ、あたしは生ビールとさきいか用意するわね」
「ははは、やっぱり中身は三十代なんだなぁ~」
「ちょっと、その発言は厳禁よ。星良でも許さないんだから」
「とか言っちゃって、ほんとは聖良ちゃんは星良ちゃんが好きだから怒れないんでしょ?」
「星良と聖良がややこしいわよ。……まぁ、星良のことは好きだから怒れないけどさ」
「か、かっわいいぃっ~! わたし、今までどうしてこの可愛さに気づけなったんだろ? むぎゅうぅ~」
「うぐぇ、星良、ぐるじ…………お、おにぃたすけてぇ!」
星良に抱き締められる聖良が涙目で助けを求めてくる。
俺は微笑んだ。
「近所迷惑にならないように、ほどほどに盛り上がるんだぞ」
「現在進行形であたしの叫び声が迷惑になってるわよ!」
これくらい許容範囲だろ。ふたりの世界に俺の居場所はないので、ここらでそそくさと退散することにする。
「……恋のサポートとか助力とかどうたらは聞かなかったことにするか」
ま、星良も聖良も、恋愛対象として見てないから関係ない話なんだけどさ。
「すぴー。すぴー」
「……なんで俺の部屋でヒイロが寝てんだよ」
無論、ヒイロも。
どれだけ可愛かろうが、俺は決して妹に恋はしない。
恋はしない、けど……
「お兄様……最近ヒイロは、お兄様の、恋人に、なりたいと、思いはじめましたぁ……」
「寝てるんだよな?」
つんつん頬をつついてみるが、でへでへ言うばかりで起きている気配は感じられない。
「なんつー鮮明な寝言だよ……」
ヒイロだけは、そういう感情を抱いてないって信じてたのに。
まぁ直接言われたわけじゃないから、まだ推定段階なんだけどさ。
※
「でねでねっ、こ~んなおっきいパフェが出てきたのっ!」
「想像するだけで胃もたれしちまいそうなサイズ感だな」
「あたしも星良も甘党だからいけると思ってたんだけど、これがこれが手強くて手強くて。三分の二くらい残した段階でお互いに限界を感じてひーちゃん呼んだんだ。で、一瞬で消滅」
「俺、真面目にヒイロを大食いグランプリに送り出そうと思ってるんだけどどう思う?」
「でねでねっ、猫とじゃれ合う星良がかっわいいのっ!」
「話飛びっ飛びだなおい……」
毎週土曜日恒例の、聖良のやけ酒に付き合うひととき。
いつも通り、聖良はすぐべろんべろんになって。
「恋愛映画見て泣いてるのよ? ピュアよねぇ~」
「いつから舞台が猫カフェだと錯覚していた?」
けど、いつもと違って、愚痴ではなく惚気話……はちょっと違うか。
最近あった楽しい出来事を、聖良は永遠と語りつづけていて。
「ねぇおにぃ、あたし星良と結婚していい?」
「自分との結婚は禁止されてないからいいんじゃねぇの?」
「やったぁ~。おにぃがようやくあたしと結婚する気になってくれたぁ~」
「俺はお前の世界についていけねぇよ……」
ため息をついて、麦茶をすする。
「けどまぁ、星良と仲良くやってるみたいでよかったよ。家族にはやっぱり仲睦まじくいてもらいたいからさ」
「え、かぞくぅ? おにぃは気が早いなぁ。サッカーできるくらいでいい?」
「テレ〇がドキュメンタリー番組にしそうな大所帯だな」
「だいじょぶだいじょぶ、生活費も学費も問題ないからさぁ。あたし、年収一億以上だから」
「……マジで?」
「まじまじ」
ダブルピースでちょきちょきする聖良。カニの真似でもしてんのか。
にしても一億ね。パッと想像できない現実味のない数値なのに、まぁ聖良なら稼げそうだなって納得してしまうのだから、不思議なものだと思う。こんなだけど、聖良はタイムマシンまで作れちゃうすんげぇヤツだからな。
「ぷはぁ~! うまいっ! 今日は酒がうまいっ!」
「明るい話してるからじゃねぇの?」
「そうかもね~! じゃじゃ、この流れに乗っかって幸せの極地に向かっちゃいましょう! おにぃおにぃ、ちょっとこっちきて」
「嫌な予感しかしないんだが」
「いいからいいから~」
と、聖良は俺を押し倒して腹部にまたがる。
こっちきてと言いながら、聖良は俺に迫ってたから、どの道こうなる宿命だったんだよな。
……俺が距離を置いたり、わざと倒れたりしなければ、簡単に壊せた宿命だけど。
「おっにぃ~♪」
「なんだよ」
「すきっ!」
「そうかい」
「だいすきっ!」
「はいはい」
「だいだいだ~いすきっ!」
「……もう充分じゃねぇかな」
「や~っぱりそうだよねぇ」
怒涛の好き好きラッシュを終えた聖良が、鼻と鼻が触れ合い、互いの吐息がかかる距離にまでぐっと顔を近づけてくる。
「酒臭っ!」
「おにぃさ、ほんとはあたしのことも、星良のことも、ひーちゃんのことも、女の子として意識してるんでしょ?」
「は? なにを根拠に言ってんだよ?」
「じゃあなんでお顔まっかなの?」
「……聖良の酔いが移ったんだよ」
だから、こうなるかもしれないとわかっていながらも、距離を置くことも、倒されることを拒むこともしなかったわけで……
「ねぇおにぃ、あたしのこと好き?」
「好きだよ。妹としては」
「女の子としては?」
「生憎、俺は六歳の幼女相手に発情する○リコンじゃないんでね」
「でも、相手がアグレッシブに責めてきたらそうでもないんでしょ?」
言って、聖良は俺の頬にちゅっと音を立てて唇を当てた。
それも三連続で。
「っ! お、おい聖良っ!」
「やっぱり。その反応が物語ってるよおにぃ」
聖良はくすくすと微笑む。表情や所作、それらから普段なら絶対に感じない色香が漂っているような気がするのは、おそらく、アルコールが本来の聖良を呼び起こしているからだろう。
「本気で求められたら、優しいおにぃは幼女でも、妹でも、愛せちゃうんでしょ?」
純粋無垢にしか思えない容姿に騙されてはいけない。中身は、俺なんかより断然恋愛知識がたぶん豊富な、年上のお姉さんなんだから。
「……俺は明日原さんが好きだ。だから幼女だろうが、妹だろうが関係なく、女の子を恋愛対象として見ることはない」
「ほんとに?」
「あぁほんとだ」
「じゃあキスの予行練習しようよ」
なに言ってるんだこいつは。
「明日原さんとするとき、下手くそだったら嫌でしょ?」
「むしろはじめてでうまい方がおかしいだろ」
そいつ、たぶん二股してるよ。
「けど、女の子はやっぱり気持ちいいキスがしたいんだよ。だから、おにぃがちゃんと上手にできるかどうか、あたしが確かめたげる」
「いらんお世話だ」
顔を背けると、小さな手が俺の両頬を挟み、無理やり正面に向けさせた。
「しよ? おにぃ」
酩酊しているのか、発情しているのか、あるいはその両方かはわからないが、顔を真っ赤にした聖良が、目を閉じて、つんと唇を突き出して、ゆっくり顔を近づけてくる。
「……洒落になんねぇぞ」
鼻頭にかかる熱っぽい吐息が、徐々に迫るキスを求める可愛らしい顔が、俺の正常な思考回路を破壊し、堕落と禁断の背徳的な思考回路を構築しはじめる。
「……なぁ聖良。もう充分からかって楽しんだろ? もうやめにしようぜ」
聖良は止まらない。
「……本気、なんだな」
もう三センチで唇と唇が触れ合う距離になっても動きを止めないという無言の肯定。
俺は覚悟を決めた。
「やめろ聖良」
このまま甘い空気に流される覚悟じゃなくて、ムードをぶち壊す覚悟を。
聖良を傷つけ、もしかしたら嫌われるかもしれないと理解した上で拒絶する覚悟を。
「本気で俺が好きだってんなら、酔った勢いに頼らずに正々堂々想いを打ち明けろ」
様々な葛藤が渦巻くなかで、俺は聖良を強く睨みつける。
「こんな形で迫られても、俺の想いが聖良に傾くことは絶対にねぇよ」
あの頃の星良と、もう一度、なかよし兄妹をやり直せるチャンスを棒に振るかもしれないって、そうわかってるけど。……わかってるけど!
「だからやめてくれ。……頼むから」
それでも、ここから先に進んでしまうよりはマシだから。
今の俺には、ここから先に進んでいく覚悟はないから。
「やぁ~っとチャンスの糸口を掴めたわ」
人差し指でつんと俺の鼻頭を押し、聖良は満足そうに微笑んだ。
「つまり、正々堂々戦えばチャンスはあるってわけね」
「……」
やっちまった……
「おにぃは少なからず、あたしたち妹を女の子として意識してる。そうよね?」
「……三人共、恋人にしても禁断の恋ってわけじゃないからな。血つながってないし」
ええい、もうどうにでもなりやがれ!
「三人共可愛くていい子でさ、しかも同じ屋根の下で暮らしてるから、日に日に好きになっちまう。といっても、一番が明日原さんであることには変わりないけどさ」
「へぇ~、日に日に好きになってるんだ?」
聖良の笑みが濃くなる。
「……俺だって男なんだよ」
気づけば、俺は明後日を向いていた。
自覚した途端、ずっと聖良にペースを握られて弄ばれていることが悔しくなって。妹のくせに生意気だって、苛立ちが込みあげて。
だから俺は、自分の頬が火照ってると自覚しながらも、まっすぐ聖良を見つめて言った。
「悪いかよ! 自分を好きって言ってくれる相手を好きになって!」
あぁくっそ! 墓場に入るまでこの気持ちは隠し通すつもりでいたのにさ!
「ううん、悪いことじゃないよ」
俺の逆ギレ紛いの告白を、聖良は柔らかく微笑んで受け止める。
どっちが年上なんだか……って、聖良か。精神的には。
「相手の好きって感情を素直に受け止められるのが、おにぃのいいところよね。普段の素っ気ない態度は大好きの裏返しだったと思うと……か、かっわいいぃ~!」
聖良が胸に飛び込んでくる。
「う、うるせぇな! そろそろキレるぞこの野郎!」
「照れてる照れてる~!」
「お前、いい加減にしろよ!」
そう、これが理想の距離。聖良とはこの距離で過ごすのが一番心地いいんだ。……たぶん。
俺を指差してけらけらと笑う聖良の手首を掴んだときだった。
「うぷっ」
聖良の顔が真っ青になった。
「おええええぇぇ!」
「うわあぁあ!?」
こ、こいつ、俺の服に思いっきりゲロぶちまけやがった!
「ちょ、大丈夫かよ聖良!?」
「……へ、へへ、きらきらをぶっかけられても、おにぃは真っ先にあたしの心配してくれるのね。おにぃのこと、ますます……う、うぷぅ!」
「しゃべるなしゃべるな! トイレ行くまで我慢しろよ!」
「おえええぇぇぇ!」
「あぁっ! 言ったそばからっ!」
聖良をトイレに運び、俺は半裸になりマスクをして、吐瀉物の処理作業にせっせと励む。
「はぁ。なんでこんな目に……」
ペーパータオルでブツを包み、アルコールスプレーし、仕上げにペーパータオルで拭き……
「……まぁ、おかげで助かったけどさ」
あの甘い空気のなかに長時間居座り続けたらあるいは……
と、トイレの扉の開く音がした。
「ご、ごめんねおにぃ。ちょっと気分良くて飲みすぎ――おえええぇぇぇ!」
「……」
うん、その可能性は限りなくゼロだな。
ため息をつき、俺はうずくまる聖良の背中をさすった。