第三話 九
元禄十六年二月、泉岳寺の梅が咲き誇る頃、江戸の町は異様な熱気に包まれていた。南町奉行所の白州で、真之助は久しぶりに鍋島善九郎と向き合っていた。
「また芝居小屋で刃傷沙汰が」
鍋島の声には疲れが滲んでいる。昨夜も、浅草の芝居小屋で、幕府の同心と町人の間で揉め事があったという。表向きは歌舞伎の演目を巡る些細な諍いだったが、その実、忠臣蔵を想起させる場面が演じられたことへの咎立てだった。
「今度は死人も出たとか」
真之助の言葉に、鍋島は目を伏せる。
「芝居の見物人が同心に切りかかり、返り討ちに」
事態は、日に日に深刻さを増していた。表向きは泉岳寺に葬られた浪士たちへの追悼も済み、事件そのものは終息したはずだった。しかし、町人たちの心の中で、何かが大きく動き始めていた。
「これにて三件目。このままでは...」
その時、奥の間から人声が聞こえた。南町奉行の井上正行である。
「真之助」
「はっ」
「芝居小屋の一件、お前に探らせたい」
その言葉に、真之助は深く頷く。遊び人を装う密偵として、芝居小屋の内情を探るには、彼が最適だった。
しかし、その指示の裏には、より深い意味が隠されているはずだ。井上は、単なる治安の問題以上の何かを感じ取っているように見えた。
「町人たちの噂では」
鍋島が言葉を継ぐ。
「芝居小屋だけではない。所々で、密かな寄合が」
その情報に、真之助は目を細める。町人たちが密かに集まり、何かを語り合う。それは、かつての江戸では考えられなかった事態だった。
遠く泉岳寺の方角から、鐘の音が響いてくる。その音に乗って、時代の大きなうねりが、確実に江戸の町を揺さぶり始めていた。




