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第二話 七

深夜に近づく本所の町を、真之助は静かに歩いていた。吉良邸からは少し離れた場所、材木置場の脇である。ここからは、邸の輪郭が闇の中にくっきりと浮かび上がって見える。用心棒たちの宴の声も、もはや遠く途切れがちに聞こえるだけだ。


「やはり、来られましたか」


闇の中から、声が響く。振り返ると、そこには同心の鍋島善九郎の姿があった。この二年、南町奉行所の密偵として働く真之助を見守ってきた男である。


「鍋島殿」


「先ほど、井上様より密書が」


その言葉に、真之助は目を細める。南町奉行の井上からの密書とあれば、普通ではない。事実、鍋島の表情には、ある種の覚悟のようなものが浮かんでいた。


「今宵は、何も見なかったことに」


鍋島の言葉には、重い意味が込められている。


「しかし」


「これは、お上の御意向」


その一言で、真之助は全てを理解した。幕府もまた、この夜に起ころうとしていることを、予期していたのだ。否、もしかすると、ある程度は容認していたのかもしれない。


遠くの火の番所から、刻限を告げる木魚の音が響く。その音が、異様に鮮明に聞こえる。


「堀部との一件も」


鍋島の言葉に、真之助は黙って頷く。あの夜の出会いも、もしかすると偶然ではなかったのかもしれない。全ては、この夜に向けての布石だったのか。


その時、町の様子が微かに変化し始める。人の気配が、少しずつ、しかし確実に増えていくのを感じる。それは、まるで闇そのものが動き出したかのような変化だった。


「鍋島殿」


「うむ」


「火の番所の火が」


確かに、火の番所の明かりが、わずかに揺らめいていた。それは風のせいではない。誰かが、意図的に火を動かしているのだ。


「あれは...」


合図なのか、あるいは警告なのか。真之助には判断がつかない。しかし、この不自然な明かりの揺らぎが、何かの始まりを告げていることは間違いなかった。


「若木屋殿」


鍋島が、最後の言葉を告げる。


「明朝、誰もが目にすることになる光景を、この夜、お前だけが先に見ることになろう」


その意味を、真之助は深く理解していた。彼は今、歴史の転換点に立ち会おうとしているのだ。


材木置場の影から、黒装束の人影が何人も、音もなく通り過ぎていく。その姿の中に、堀部の面影を、真之助は確かに見た。


町は、底知れぬ緊張に包まれていた。それは、大きな波が打ち寄せる直前の、あの独特の静けさ。歴史の歯車が回り始める瞬間の、張り詰めた空気。


「参りましょう」


鍋島の言葉に、真之助は無言で従う。二人は、闇の中へと消えていく。しかし、その背後では確実に、大きな歴史の一幕が、今まさに幕を開けようとしていた。

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