第二話 五
冬の闇が深まる元禄十二月十四日の夜、本所松坂町は普段より早く灯りが消えていった。厳しい寒気の中、通りを行く人影もまばらである。しかし、その静けさの中に、ある種の緊張が漂っていた。
「若旦那、こんな夜更けに」
かつての遊女屋、松の家――今は普通の商家となっている――の前で、真之助は足を止めていた。声をかけてきたのは、元・新造の糸子。今は、表向き魚屋の女房となっている。しかし、その実態は変わらず、南町奉行所の密偵である。
「あの夜を思い出しましてな」
真之助の言葉に、糸子は小さく頷く。あの夜以来、この町は少しずつ、しかし確実に変わっていった。吉良邸の警備は強化され、夜な夜な見慣れぬ武士が徘徊する様子も、もはや珍しいことではなくなっていた。
「今宵も、例の御方々が」
糸子が、目配せで通りの向こうを指し示す。提灯の明かりに照らされた通りの片隅に、いくつかの人影が見える。表向きは町人に扮しているが、その立ち居振る舞いには武士の気配が漂う。
「ここ一月、随分と増えましたな」
真之助も、その変化を感じていた。吉良邸周辺を行き交う怪しい人影。そして、それを監視する与力・同心たち。町全体が、大きな緊張に包まれているのだ。
「若旦那様」
糸子が、さらに声を潜める。
「吉良様の屋敷、昨夜から門前で宴を」
その情報に、真之助は目を細める。用心棒たちが、いつになく大きな宴を開いているという。まるで、誰かに聞こえるように。あるいは、見せるように。
「なるほど」
そして、その裏で、別の動きがあることも、真之助は察していた。あの夜に出会った、あの武士――堀部安兵衛の姿が、脳裏に浮かぶ。
「時の流れには抗えぬもの」
あの時、堀部が残した言葉を、真之助は今でも覚えている。そして今、その言葉の持つ重みを、より深く理解していた。
通りの向こうで、夜廻りの同心が提灯を掲げて歩いている。その明かりが、吉良邸の門前を照らし出す。門前では確かに、用心棒たちが盃を交わす音が聞こえる。
しかし、その音の下に、もっと深い静けさが潜んでいた。それは、大きな波が押し寄せる前の、あの独特の静けさ。真之助は、その静けさの意味を直感的に理解していた。
「糸子殿」
「はい」
「明朝は、早めに店を開けるがよい」
その言葉に込められた意味を、糸子もまた理解しているようだった。
町には、冬の冷気が満ちている。その寒さの中に、何か大きなものが産声を上げようとしている。歴史の節目に立ち会おうとしていることを、真之助は静かに受け入れていた。




