第一話 四
夜も更けた松の家の二階で、真之助は最後の盃を手に取った。奥座敷の人々は、いつの間にか姿を消している。ただ、その去り際に、先ほどの堀部らしき武士が、わずかに会釈をしていったことが、妙に印象に残っていた。
「若旦那様、八百屋の旦那からでございます」
糸子が、また一枚の紙片を差し出す。そこには、春木の達筆で、簡潔な報告が記されていた。
『吉良邸、火の番、例より二倍』
その意味するところは明白だった。単なる用心の強化ではない。何者かが、吉良邸に接近する可能性を察知しているのだ。
「なるほど」
真之助は、紙片を灯心に翳す。文字が、赤い光を放って消えていく。
実は、この二年の間、江戸の町では様々な噂が流れていた。浪人たちが町に紛れ込んでいるとか、刀や槍が密かに売り捌かれているとか。そして、その多くは、この本所・深川界隈に集中していた。
「糸子殿」
「はい」
「今宵のことは、奉行所には」
「心得ておりまする」
二人の間に、暗黙の了解が流れる。この夜に起きたことは、詳しくは報告しない。それが、井上から受けていた密命の真意でもあった。
時代には、表の顔と裏の顔がある。そして、その両面を知る者だけが、真の意味で時代を見通すことができる。真之助は、密偵としての立場からそれを学んでいた。
「ところで、若旦那様」
糸子が、別の話題を持ち出す。
「吉良様の使いの者、先ほど、妙なことを」
「どのようなことで」
「年末に向けて、屋敷の普請をなさるとか」
その言葉に、真之助は深い意味を感じ取った。年末に向けて、吉良邸でも何かの準備が始まっているということか。そして、それは必ずしも、主人の意向だけではないのかもしれない。
外では、夜更けの雨が降り始めていた。その音に紛れて、どこかで刀を研ぐ音が聞こえる。しかし、それが実際の音なのか、真之助の想像なのか、もはや定かではない。
「若旦那様」
「なんでございます」
「先ほどの御侍様、何か仰っていましたか」
糸子の問いに、真之助は少し考えてから答えた。
「ただ、『時の流れには抗えぬもの』とだけ」
その言葉の真意を、真之助は理解していた。そして、その理解があるからこそ、今夜の出来事を、あえて詳しくは報告しないという判断を下したのだ。
「さて、そろそろ戻るとしましょうか」
立ち上がる真之助に、糸子が問いかける。
「御帰りは、お供を」
「いえ、今宵は一人で」
その答えには、深い意味が込められていた。この夜を境に、何かが大きく動き出す。その予感は、既に町全体に満ちている。
真之助は、静かに店を出た。雨の街道には、まばらな提灯の明かりが揺れている。その中に、どこからともなく現れた武士の影が、次々と消えていく。
「時の流れには抗えぬもの、か」
その言葉を、真之助は独り呟いた。密偵として知り得た事実と、人としての判断。その狭間で、彼は自分なりの答えを見出していた。
この夜の出来事は、やがて大きな歴史の一部となるのだろう。しかし、今はまだ、その時ではない。ただ、確実に、その時は近づいているのだ。
雨の夜道を歩きながら、真之助は、自分もまた歴史の目撃者となったことを、静かに受け入れていた。
<第一話、終>




