第一話 三
夜が更けていく松の家の周辺で、人の動きが少しずつ変わり始めていた。往来を行き交う商人たちの中に、どこか様子の違う者が混じっている。その歩き方や、道を曲がる際の所作に、武芸者特有の緊張が漂うのだ。
真之助は、二階の座敷から、そんな通りの様子を観察していた。先ほどから、大石に扮した男のいる奥座敷には、次々と人が入っていく。
「若旦那様」
糸子が戻ってきて、小声で告げる。
「八百屋の旦那が申すには、吉良様の屋敷、今宵は用心棒が四人増えたとか」
その情報に、真之助は目を細める。事態は確実に動いている。しかし、それをどう扱うべきか。密偵としての立場からすれば、すぐにでも南町奉行所に報告すべきことだ。
だが、真之助は別の判断を下していた。
「糸子殿、今宵の様子、あまり詳しくは」
「はい、承知いたしました」
糸子もまた、事の重大さを理解しているようだ。実は、この判断は、先月に井上から受けた密命に基づいていた。
「世に、表立っては止められぬことというものもござる」
あの時、井上はそう告げた。その意味を、真之助は今、実感として理解していた。
その時、奥座敷から、かすかな物音が聞こえた。
「あいや、申し訳ございませぬ」
女郎の一人が、何かを落としたように装って声を上げる。それは、外部の人間が近づいているという合図だった。
果たして、階下で人声がする。
「御用心棒様でございます」
店の者の声に、真之助は身構える。しかし、次の瞬間、意外な展開となった。
「今宵は、吉良様のご用につき、見回りを」
用心棒は、店の中には入ってこなかった。まるで、そうするように指示されていたかのように。
真之助は、事態を理解し始めていた。用心棒の動きもまた、誰かの周到な計算の中にあるのだ。その背後には、おそらく、吉良邸の内部事情に通じた者の存在が。
街道を行き交う武士たちの中に、ある種の緊張が漂い始める。それは、大きな波が押し寄せる前の、あの独特の空気。真之助は、その空気を肌で感じ取っていた。
「若旦那様」
糸子が、新たな情報をもたらす。
「八百屋の旦那が、こんな文を」
差し出された紙片には、南町奉行所の同心、春木の走り書きがあった。
「松坂町の商人たち、今宵は店を早じまいにすると」
その情報は、町の人々もまた、何かを感じ取っているということを示していた。
そして、もう一つの情報が。
「吉良様の台所方、この度は目録を変えたとか」
「目録を?」
「はい。普段より、随分と量を」
その言葉の意味を、真之助は瞬時に理解した。台所方の目録が変われば、それは即ち、屋敷内の人数の変化を意味する。
真之助は、静かに盃を置いた。もはや、事態は明らかだった。この場所で動き始めていることの意味も、その先に待ち受けているものの重さも。
しかし、それは今は、ただ見守るべきことなのだ。
「糸子殿」
「はい」
「今宵の算段、いつもの半分ほどで」
その言葉には、この店に出入りする人々の秘密を守るという意味が込められていた。糸子は、小さく頷いただけだった。
外では、秋の虫が鳴いている。その音が、まるで時代の節目を告げる鐘のように、真之助の耳に響いていた。




