第一話 二
松の家の二階座敷で、真之助は三味線の音に耳を傾けていた。先ほどの武士との出会いから一刻ほど経った頃である。座敷の障子越しに、往来を行き交う人々の影が揺れている。
「お客様、お酒をお注ぎいたしましょう」
声をかけてきたのは、この店の新造、糸子である。実は彼女もまた、南町奉行所の密偵の一人。先月から、この店に潜り込んでいた。
「糸子殿」
真之助は盃を差し出しながら、囁くように言う。
「例の用心棒、今日は?」
「はい。昼過ぎに、吉良様のお屋敷へと」
糸子の答えに、真之助は目を細める。吉良邸の用心棒が表立って動くのは珍しい。何か、動きがあるということか。
実は、この松の家には、もう一つの顔があった。表向きは新しい遊女屋、その実、様々な立場の者たちが密かに情報を交換する場所として機能していたのだ。
「先ほどの御侍様は、どちらへ」
糸子の問いに、真之助は軽く目配せを返す。堀部安兵衛らしき武士の件は、まだ口外すべきではない。
その時、座敷の外で物音がした。
「失礼」
声と共に入ってきたのは、質素な身なりの町人。しかし、その立ち居振る舞いには、どこか武家の気配が漂う。
「あら、大石様」
糸子が声を上げる。その名に、真之助の耳が反応した。大石。この二年、江戸の町で時折囁かれる名である。
町人に扮した男は、真之助の存在にわずかに目を止めた。しかし、特に気にする様子もなく、奥の座敷へと消えていく。
「気になる方でございますな」
真之助が言うと、糸子は小さく頷いた。
「はい。一月ほど前から、時折お見えになります」
その言葉に、真之助は考え込む。一月前といえば、吉良邸の用心棒が頻繁に出入りし始めた時期と重なる。
座敷の向こうからは、男たちの話し声が漏れ聞こえてくる。その中に、先ほどの武士の声も混じっているようだ。
「若旦那様」
糸子の声が、真之助の思考を遮った。
「隣町の八百屋が、気になることを」
その八百屋というのが、実は南町奉行所の同心、春木半兵衛の変装した姿であることを、真之助は知っている。
「どのようなことで」
「吉良様の台所方が、この二月、随分と買い出しを増やしているとか」
その情報は、意味深長だった。屋敷内の人数が、密かに増えているということか。
真之助は、さりげなく障子の外を見やる。日が傾き始め、街路には夕暮れの影が忍び寄っていた。その影の中を、また一人、見慣れぬ武士が松の家に入っていく。
「これは...」
真之助は直感的に感じていた。この場所で、何か大きなことが動き始めているということを。しかし、それが具体的に何なのか、まだ掴みきれない。
ただ一つ確かなことは、この動きを安易に邪魔立てするべきではないということ。それは、密偵としての直感が告げていた。
「糸子殿」
「はい」
「今宵は、いつもより賑わいそうでございますな」
その言葉には、二つの意味が込められていた。表向きは、店の繁盛を喜ぶ言葉。その実、これから起こるかもしれない出来事への警戒を示す暗号でもある。
糸子は、その意味をよく理解していた。そっと立ち上がり、座敷を出ていく。おそらくは、春木たちに連絡を入れるのだろう。
真之助は、また三味線の音に耳を傾ける。その音色の中に、時代の大きなうねりを感じながら。




