第三話 十二
夕暮れ時の日本橋で、真之助は川面に映る夕陽を眺めていた。魚河岸からは威勢の良い掛け声が聞こえ、通りには商人たちが行き交う。一見すれば、いつもと変わらない江戸の夕暮れ。しかし、その空気の中に、確実に何かが芽生えていた。
「これは、若木屋の旦那」
声をかけてきたのは、魚問屋の主人、村田である。表向きは商売人だが、その実、町年寄としても重きをなす男だ。
「村田殿」
「お立ち寄りいただけませぬか。実は、皆で一席」
その誘いの裏にある意味を、真之助は理解していた。この二月ほど、商人たちの間で密かな寄合が開かれていることは、つとに承知していた。そして今、村田は真之助を、その輪の中に招こうとしているのだ。
魚問屋の奥座敷には、既に数人の商人たちが集まっていた。呉服、古着、米、酒。様々な商売を営む者たちが、静かに言葉を交わしている。
「若旦那様にも、お考えを」
老舗の呉服問屋、布袋屋の主人が切り出す。
「この度の浪士の一件、そして与力・同心衆の振る舞い。これらは、私どもに大きな問いを投げかけているように」
その言葉に、座に集う者たちが深く頷く。
「町人の分際とて、ただ従うだけが」
「道理というものが」
次々と漏れる言葉の中に、真之助は新しい意識の芽生えを感じ取っていた。それは、単なる不満や反発ではない。自らの存在意義を真摯に問い直そうとする、より深い思索だった。
「若旦那様は、どうお考えで」
問いかけに、真之助は一瞬、言葉を選ぶ。密偵としての立場と、一人の商人としての思いが、心の中で交錯する。
「道理は、身分の上下に関わらず、道理なのではないでしょうか」
その答えに、座の空気が変わる。
「まさに」
「その通りにございます」
商人たちの目が輝きを増す。その中に、真之助は新しい時代の光を見た。
「しかし」
布袋屋の主人が続ける。
「この思いを、どのように」
その問いへの答えは、まだ誰にも見えていない。しかし、確実に何かが動き始めていることは、座に集う全員が感じ取っていた。
その時、外から、泉岳寺の夕鐘が聞こえてきた。
「御回りでございます」
小僧が告げに来る。座は自然に解散となったが、その空気は重く、しかし確かな希望を秘めていた。
帰り際、村田が真之助に囁く。
「若旦那様。私どもは、ただの商人ではございますが」
その言葉を、真之助は静かに受け止めた。
川面に映る夕陽が、赤く染まっていく。その光の中に、真之助は時代の大きなうねりを見ていた。身分制の厳しい枠組みの中で、新しい意識が確実に芽生えつつある。それは、まだ小さな光かもしれない。しかし、その輝きは決して消えることはないだろう。
「参りましょう」
真之助が歩き出す時、空には早々と月が昇っていた。その淡い光が、新しい時代の夜明けを予感させるかのようであった。
<終>