第三話 十一
南町奉行所の密室で、真之助は井上の前に座っていた。窓の外では、春の雨が静かに降り続いている。
「芝居の演目は、表向き世話物にございました。しかし」
真之助の報告に、井上は深く頷く。
「しかし、その実、町人の覚醒とでも申すべきものが」
「はい」
真之助は、芝居小屋で目にした光景を詳しく説明していく。商家の跡取りを巡る物語の中に巧妙に織り込まれた、武士の忠義と町人の道理を巡る問いかけ。そして、それを見る観客たちの、熱を帯びた眼差し。
「かつての見物人なら、ただ涙を流して同情するだけでございましょうが」
「今は違うと?」
「はい。彼らの目には、まるで自らの生き方を重ね合わせるような」
その言葉に、井上の表情が僅かに曇る。
「判官贔屓などという簡単なものではないと」
「御明察の通りにございます」
実は、芝居小屋での調査中、真之助は興味深い会話を耳にしていた。商人たちが、こっそりと「道理」という言葉を口にする場面である。それは単なる商売の道理ではなく、より深い、人としての道理を指していたのだ。
「この変化、止めることは」
井上の言葉を、真之助が続ける。
「難しゅうございましょう。むしろ」
その時、廊下を駆ける足音が聞こえた。同心の一人が、慌てた様子で密室に飛び込んでくる。
「申し上げます!」
息を切らしながら、同心が報告する。今度は、日本橋の商人たちが、密かな寄合を開いているという。その場で語られているのは、商人としての「分」を守ることの意味だという。
「分を守る...か」
井上が、意味深げに言葉を反芻する。
「まさに、そこでございましょう」
真之助は、自分の考えを述べ始める。
「町人たちは、もはや単なる商売人としてではなく、一つの身分として、自らの存在意義を」
その分析に、井上は深いため息をつく。泉岳寺に眠る浪士たちの行為は、図らずも、町人たちの意識を大きく変えることになった。忠義のために命を捨てた武士たちの姿に触れ、町人たちもまた、自らの生き方を深く見つめ直し始めているのだ。
「世は確かに変わりつつある」
井上の言葉に、真之助は静かに頷く。
「しかし、その変化は、ある意味で自然なものなのかもしれません」
「何故に」
「町人たちが求めているのは、横暴な振る舞いへの反発だけではございません。自らの存在の意味を、真摯に問い始めているのです」
その言葉の重みを、井上は深く理解しているようだった。これは、単なる治安の問題では済まされない。時代そのものの大きな転換点なのだ。
窓の外では、春雨がいまだ降り続いていた。その音は、まるで新しい時代の胎動を告げるかのようでもあった。