表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/12

第三話 十一

南町奉行所の密室で、真之助は井上の前に座っていた。窓の外では、春の雨が静かに降り続いている。


「芝居の演目は、表向き世話物にございました。しかし」


真之助の報告に、井上は深く頷く。


「しかし、その実、町人の覚醒とでも申すべきものが」


「はい」


真之助は、芝居小屋で目にした光景を詳しく説明していく。商家の跡取りを巡る物語の中に巧妙に織り込まれた、武士の忠義と町人の道理を巡る問いかけ。そして、それを見る観客たちの、熱を帯びた眼差し。


「かつての見物人なら、ただ涙を流して同情するだけでございましょうが」


「今は違うと?」


「はい。彼らの目には、まるで自らの生き方を重ね合わせるような」


その言葉に、井上の表情が僅かに曇る。


「判官贔屓などという簡単なものではないと」


「御明察の通りにございます」


実は、芝居小屋での調査中、真之助は興味深い会話を耳にしていた。商人たちが、こっそりと「道理」という言葉を口にする場面である。それは単なる商売の道理ではなく、より深い、人としての道理を指していたのだ。


「この変化、止めることは」


井上の言葉を、真之助が続ける。


「難しゅうございましょう。むしろ」


その時、廊下を駆ける足音が聞こえた。同心の一人が、慌てた様子で密室に飛び込んでくる。


「申し上げます!」


息を切らしながら、同心が報告する。今度は、日本橋の商人たちが、密かな寄合を開いているという。その場で語られているのは、商人としての「分」を守ることの意味だという。


「分を守る...か」


井上が、意味深げに言葉を反芻する。


「まさに、そこでございましょう」


真之助は、自分の考えを述べ始める。


「町人たちは、もはや単なる商売人としてではなく、一つの身分として、自らの存在意義を」


その分析に、井上は深いため息をつく。泉岳寺に眠る浪士たちの行為は、図らずも、町人たちの意識を大きく変えることになった。忠義のために命を捨てた武士たちの姿に触れ、町人たちもまた、自らの生き方を深く見つめ直し始めているのだ。


「世は確かに変わりつつある」


井上の言葉に、真之助は静かに頷く。


「しかし、その変化は、ある意味で自然なものなのかもしれません」


「何故に」


「町人たちが求めているのは、横暴な振る舞いへの反発だけではございません。自らの存在の意味を、真摯に問い始めているのです」


その言葉の重みを、井上は深く理解しているようだった。これは、単なる治安の問題では済まされない。時代そのものの大きな転換点なのだ。


窓の外では、春雨がいまだ降り続いていた。その音は、まるで新しい時代の胎動を告げるかのようでもあった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ