第三話 十
浅草の芝居小屋「梅若座」の桟敷で、真之助は表向き、役者の演技に見入っているふりをしていた。しかし、その実、観客席の様子を注意深く観察している。特に、上方から下座へと続く通路に立つ、見張り役の同心たちの態度が気になった。
「近頃は、同心衆も大層な構えでございますな」
傍らで、小声で話しかけてきたのは、魚問屋の主人を装った春木である。
「ええ。まるで、敵を前にしたような」
その言葉通り、同心たちの目には、ある種の警戒心が宿っていた。それは単なる治安維持のための注意深さではない。まるで、町人たち全体を、潜在的な敵として見なしているかのような眼差しだった。
舞台では、一見なんでもない世話物が演じられている。商家の跡継ぎを巡る話のはずだが、その中に、微妙な仕掛けが織り込まれていた。
「主君への忠義と、家としての道理」
春木が、舞台の展開を解説するように囁く。確かに、その通りだった。表向きは商家の話でありながら、その根底には、武士の忠義と、町人としての生き方の相克が描かれている。
その時、桟敷の隅で小さな騒ぎが起きた。
「これ、その演目、いかがなものか」
同心の一人が、声を荒げている。しかし、その相手の町人は、以前のように簡単には引き下がろうとしない。
「見物の邪魔でございます」
その言葉には、かつては決して見られなかった芯の強さがあった。
「何と申した」
同心が一歩踏み出そうとした時、真之助は何気なく間に入った。
「まあまあ、折角の芝居。存分に楽しみましょうぞ」
遊び人らしい軽い調子で言葉を挟む。表面上は、ただの仲裁に見える。しかし、その実、町人と同心、双方の様子を観察するための介入だった。
舞台上では、商家の若旦那が、家の存続と個人の信義の間で揺れる場面が演じられている。その姿に、観客たちは固唾を呑んで見入っていた。
「面白いものを見せていただきました」
帰り際、真之助は役者たちが控える裏手に回り込んだ。そこで待っていたのは、座付き作者の里見である。この男もまた、井上の密偵の一人だった。
「ご贔屓にあずかり」
里見は深々と頭を下げる。しかし、その目には、ある種の覚悟のような光が宿っていた。
「近頃、町人の心意気というものが、随分と変わってきたように思えますが」
真之助の言葉に、里見は一瞬、息を呑む。しかし、すぐに落ち着いた声で答えた。
「所詮は芝居事。世の中のことなど」
その言葉の裏に隠された本当の意味を、真之助は理解していた。芝居という形を借りながら、実は町人たちの新しい意識が、確実に育ちつつあるのだ。
夕暮れの空に、雲が流れていく。その形は、まるで時代の変わり目を告げるかのようだった。