第二章
その日の昼休み、悠は教室の隅で静かに本を読んでいた。昼食もそこそこに済ませ、周囲の騒がしい声を遠くに感じながら、心の中に浮かぶ考えを整理するためだった。
——理緒の様子がいつもと少し違う。
昨日の放課後のこと、そして今朝の微妙な違和感。それらが彼の頭の中でぐるぐると回り続けていた。もちろん理緒に直接聞くことも考えたが、彼の中には一抹の恐れがあった。もし彼女が本当に何かを隠しているのだとしたら、彼女との間に小さな亀裂が生まれるかもしれない。その可能性を思うと、彼は臆病になる。
彼は本のページをめくりながら、ちらりと教室の反対側に目を向けた。そこには、クラスメイトと談笑する理緒の姿があった。明るい笑顔、親しげな仕草。誰からも好かれる彼女の魅力がそこに溢れている。
だが、その中で彼は目を逸らせないものを見つけた。
——彼女の肩に、別の男子の手が置かれている。
「......。」
悠の胸の奥に、冷たい何かが走った。それは嫉妬とも怒りとも言えない、もっと原始的で激しい感情だった。教室に響く彼らの笑い声が、耳障りで仕方がない。
『落ち着け』
心の中で自分に言い聞かせる。だが、その言葉の効果は薄かった。彼の視線は理緒の動きを追い続け、彼女が笑顔で何かを話しているたびに、胸がざわつく。
気づけば、彼の手は本を持ったまま固く握りしめていた。紙のページが少しだけよれてしまっていることにも気づかないほどに。
「悠くん?」
突然の声に、彼はハッと我に返った。視線を向けると、目の前には理緒が立っていた。
「どうしたの?本、破けちゃいそうだよ?」
彼女の指摘に、悠は慌てて手元を見る。彼の手の中で、文庫本のページが大きく折れ曲がっていた。
「あ、ごめん......。」
悠は急いでページを整えながら、苦笑を浮かべる。理緒はそんな彼をじっと見つめると、ふっと微笑んだ。
「悠くん、今日は元気ないね。何かあった?」
その言葉に、彼は一瞬言葉を詰まらせた。どう答えるべきかわからない。ただ、理緒のその優しい表情に、胸の中でくすぶっていた感情が少しだけ和らぐ気がした。
「いや、別に何も。ただ、少し考え事をしてただけ。」
「そっか。でも、あんまり無理しないでね。悠くんにはいつも笑っててほしいんだから。」
そう言って理緒は微笑む。その笑顔が、悠の心をさらにざわつかせる。彼女の言葉には確かに優しさがある。だが、それと同時に、その笑顔が他の誰かにも向けられている可能性を思うと、彼はたまらない気持ちになる。
「......理緒。」
気づけば、彼は名前を呼んでいた。理緒が驚いたように顔を向ける。
「何?」
一瞬、彼は言葉を失った。何を言うべきなのかわからない。ただ、彼女の名前を呼びたかった。それだけだった。
「いや、なんでもない。」
苦笑してそう言うと、理緒は首を傾げながらも特に気にする様子はなかった。
「ふーん。じゃあ、また後でね。」
そう言って理緒は再びクラスメイトの元へと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、悠は拳を握りしめる。
——誰にも渡さない。
その言葉が、彼の心の中で何度も繰り返された。
放課後、悠は理緒と一緒に帰ることになった。並んで歩く道中、彼女は楽しげに今日あった出来事を話し続けていた。しかし、悠の頭の中では別のことがぐるぐると回っていた。
「ねえ、悠くん。」
突然、理緒が立ち止まる。彼女の真剣な表情に、悠は少し驚いた。
「今日、ちょっと寄り道してもいい?」
「......どこに?」
「秘密。でも、大事な場所なの。」
理緒の言葉に、悠は少しだけ戸惑った。しかし、その瞳の奥に宿る何かに引き寄せられるように、彼は頷いた。
「わかったよ。」
2人は夕暮れの街を抜け、人気の少ない小道へと足を進める。その途中、理緒は何度も振り返って悠を見た。その視線に、悠は胸がざわつく。
やがて着いたのは、小さな公園だった。周囲を木々に囲まれたその場所には、古びたベンチが一つ置かれているだけだった。
「ここが、私の秘密の場所。」
理緒がベンチに腰を下ろし、悠を見上げる。その瞳には確かに何か特別なものが宿っていた。
「悠くん、私ね......。」
彼女が言葉を続けようとしたその時、ふいに遠くから人の声が聞こえてきた。それは徐々に近づいてくる。
「......誰か来るみたいだね。」
悠が言うと、理緒は眉をひそめ、立ち上がった。
「行こう。」
彼女はそう言うと、悠の手を取り、再び歩き出した。その手の温かさに、悠は胸の中で何かが弾けるのを感じた。
彼女のすべてが、自分だけのものであればいい。
そう思う気持ちが、彼の心の中で静かに燃え上がり始めていた。